第2話 ある雪の午後
「ただいま」
独り言のように呟きながら自宅のドアを開けて入ってきた少女は、キッチンに女性が立っていることに気づいて一瞬ぎょっとしたように身構えた。
「お帰りなさい、ケイト」
だが、それが父の婚約者だと分かると、すぐに笑顔になる。
「なんだ、来てたんだ、キャリー」
「ごめんなさいね、自分の家みたいに上がり込んで」
女性の言葉に、少女は当たり前のように答えた。
「そんなのいいんだよ、もうすぐあなたの家になるんだもん。ただ、ちょっとびっくりしたのと、もっとゆっくりデートしてくればよかったのにって思っただけ。それでパパは、デートの相手を放ったらかしてどこ行っちゃったわけ?」
「今そこまで買い物に行ってるわ。あなた、冷蔵庫の中カラッポにしちゃったでしょ」
父が出かけたのは、歩いて数分のメイヤー食料品店だろう。彼は巨大なスーパーより、昔ながらの食料品店や酒屋を回る方が好きだ。仕事柄、歩き回るのが癖になっているせいかもしれない。
ケイトは両肩をすくめて、悪戯っぽく笑った。
「ああ、コーラを全部飲んだことは認める。でもダイエットコークだから無罪だ」
「パパの物真似がほんとに上手よね」
父親そっくりの言い方に、キャロラインは声を上げて笑った。
キッチンのダストボックスには、二リットルのダイエットコーラのペットボトルが二本も転がっている。作り物の大きなクリスマスツリーの飾られたリビングには、季節感たっぷりに色とりどりの包装のプレゼントの箱が積まれているが、そのすぐ脇の大型テレビの横にも数枚のブルーレイディスクのパッケージがどっさり積まれていて、その一番上は『ミッション・インポッシブル・ゴースト・プロトコル』だった。
「本当に全部見てたの?」
「大丈夫だ、三時間寝た」
それも父親の口真似だったので、キャロラインは叱るより先に吹き出してしまった。実際少女の父チャールズは、全く同じ台詞をよく口にする。
「あなたくらいの子だと、もっと若い俳優さんが好きなんじゃない?」
「ああ、若い連中はダメよ、しょっちゅうツイッターやインスタで自分からバカ晒してるし。あれじゃスターに夢が見られないわ。その点、ラスト・サムライは何度見てもいいよ、ヒロ・サナダもカッコイイし。ハイチニツケー!ってとこがサイコーにクールなの。レディ・セットかテイクアップって意味だよね?」
「それはあなたのパパに聞いた方がいいわ、わたし、軍の用語はあまりよく知らなくて」
戸惑ったようなキャロラインの態度を気にした様子もなく、ケイトは散らかしたままにしてあったムービーソフトの山をケースに収める。自分が見ていた分を左に寄せ、他のビッグタイトルを右側に寄せて、はっきりと区別を付けながら言った。
「ほらキャリー、ちょっと見てよ。パパとあたしは映画の趣味ぜんっぜん合わないんだよねえ。あたしはスリーハンドレッドとかブレイドとか好きなんだけど、パパはそういうの嫌い。ハリー・ポッターとかロード・オブ・ザ・リングとか、ああいうの何度も見てるんだよね。よく飽きないと思うけど、NYPDの刑事さんには魔法だの妖精だのはいい現実逃避なのかな」
「そうかもしれないわね」
少女の指摘は、案外的確なのかもしれない。キャロラインは感心したように頷いた。
「ていうか、パパと刑事物は見たくないのよ。あそこが違う、ここが違う、こんなことありえない、これは違法捜査だってうるさくて、全然集中できない!」
「あはは、それはそうでしょうね」
ケイトの不満げな言葉に、キャロラインは思わず笑みをこぼした。
その美しい笑顔に、少女は屈託なく訊ねる。
「で、キャリーはロマンス映画専門?」
「そうねえ、映画もいいけど、ドラマの方が好きかしら」
「スパナチュとか、ウォーキングデッドとか?」
「幽霊とかゾンビはイヤよ」
「ちぇー」
ケイトは大袈裟に舌打ちして見せた。
それから、手にしていた紙袋をキッチンのサイドテーブルに置き、キャロラインの後ろをすり抜けるようにして冷蔵庫に手をかける。
「あ、ちょっとこれ冷蔵庫入れるね……って、ホント、カラッポだね。卵しかないや」
茶色い紙袋は縦横二十センチほどの大きさだったが、それを入れても冷蔵庫にはたっぷり余裕がある。本当に、卵が二個とミネラルウォーターのペットボトル、マスタードの瓶が入っているだけだ。
ケイトは冷蔵庫を閉めると、また女性の背中側を通ってリビングに戻り、小さなソファにうつぶせに寝転がった。
「もうめんどくさいから、夜はピザか何か頼めばいいじゃない。あ、どっちにしてもワインとかないのか」
「そういうこと。ついでにチキンも頼んでおいたわ、後であたしが焼いてあげる。クリーム煮の方が好きならそうするし」
「マジで? キャリーはなんでもできるなあ、さすがはパパ、いい女を見つけるのがうまい」
父の婚約者の言葉に、ケイトは感心して見せたが、いささかわざとらしくも聞こえた。まだ彼女との距離がうまく掴めていないのかもしれない。
それはキャロラインの方も同じだろう。彼女もまた、わざとらしく、というより唐突に話題を変えた。
「教会のバザーで何か買った?」
「うん、それは、後でね。パパが帰ってきたら……夕飯が済んだら見せるよ」
「そんなにいいもの? それとも食欲がなくなるような物?」
「ゾンビのマスクを買おうとしたけど、グリフとモーリーに全力で止められた」
その言葉には、キャロラインは本当に笑った。その様子が目に浮かんだのかもしれない。
「ミサはどうだった? わたしも行きたかったわ」
「神父さんの話は子供向きだけど、でも面白かった」
「どういうこと?」
キャロラインは綺麗に整えられた眉をわずかにしかめた。クリスマスのミサを「面白い」と表現するのは、確かに受け止めようによっては不謹慎かもしれない。
しかし、ケイトは気にした様子もなく続けた。
「生物学的にマリア様が処女受胎するなんてあり得ないと思う人もいるだろうけど、あり得ないことが起きるから奇跡って言うんだ、って言われて、妙に納得した」
「へえ」
「あと、馬小屋は実は産室にはすごく向いてるって。温度と湿度が安定してて、広すぎも狭すぎもせず、清潔な藁の上で出産したマリア様は、医学的に正しい、って」
「へえ。面白い神父様じゃない」
高校生あたりを惹き付けるには、なかなか面白い語り口かもしれない。というより、そういう側面も必要だと、スクール・カウンセラー兼任の神父は理解しているのかもしれなかった。
だが、ケイトは苦笑いしながら肩をすくめる。
「同じような話、ドラマで見たばっかだけどね。ボーンズの再放送。同じ番組見てたよきっと、神父様」
その言葉に、キャロラインは最初呆れかけたように目を見開いたが、すぐに笑い出した。
「あなたったら、もう。そういうところ、チャーリーそっくりね」
「そうなのよ。あたしたち理屈っぽいでしょ、ついでに頑固だし」
「そうね、本当にそうだわ」
「違うのは映画と音楽の好みだけ。後はだいたい同じよ、だから喧嘩にならないのかも」
そんな話をしながら、ケイトとキャロラインはしばらく笑い合った。
そして、ふと笑いと話題が途切れたとき。
「ケイト」
不意に、キャロラインが真顔になって言った。
「ねえ、チャーリーには……あなたのパパには訊きづらい話なんだけど……いいかしら」
「いいよ。あ、でも、パパの前のカノジョの話はダメー」
呼びかけられて、少女はキッチンのカウンター越しに、義父の婚約者を見つめた。
ティーンエイジャーの少女らしいまっすぐな視線が急に恐ろしくなったのか、いかにも言い出しづらそうに、キャロラインは目をそらす。
「ううん、そういうんじゃないのよ……そうね、あなたにも訊きづらい話だわ。ごめんなさい、別にいいの、忘れて」
「あたしのことなら別に気にしなくていいよ、キャリー」
しかしケイトは、当然のように言った。
「誰だってそりゃ不安になるよ。これから結婚する男が高校生の子持ちで、しかもそれが養子で、女の子だったら、どうしたらいいか困るのは当たり前」
口調は軽快だったが、少女の指摘は正しかった。
「ていうか、よくパパと付き合う気になったって感心する。ああ、これは悪い意味じゃなくて、感謝してるってこと」
それがただの気遣いではなく本心からの言葉だと表現するためにか、ケイトは軽く目を伏せて、義父の婚約者に微笑んでみせた。
それから、彼女もまたキャロラインと同じく真面目な表情になって続ける。
「パパは、娘のあたしが言うと贔屓の引き倒しに聞こえるかもしれないけど、チャールズ・ヘイワースって人は、すごく優秀な刑事さんだと思う。正義感が強くて、責任感があって、ニューヨークの人たちのために毎日戦ってる。そういう人には、優しくていい奥さんが必要よ。だからキャリー、あなたは最高」
「ありがとう。でも……」
言いかけたキャロラインを遮って、ケイトはきっぱりと告げた。
「あなたの前の旦那さんが警察官だったってのも知ってる。パパが教えてくれたの。パパの同僚で、殉職したって。立派だよ、あたし、あなたの愛した人を尊敬する」
その真摯な言葉に、キャロラインは目元を拭った。マスカラとアイラインが白い肌の上を滲む。
「ありがとう。嬉しいわ、本当に」
このニューヨークでは、殉職する警官は珍しくない。アフガニスタンに派遣される兵士と、大して死亡率は変わらないのだ。ジュリアーニが市長だった頃には激減した犯罪率も、今では昔と変わらなくなっている。
そんなことくらい、まだニューヨーカーとしては新参のケイトでもよく分かっているようだ。
「また警官の妻になるって、勇気がいるよね。すごく悩んだと思うよ……でも、キャリーなら大丈夫。それに、パパは不死身っていうか、めっちゃタフだから安心してよ。あたしと五年暮らして、アタマおかしくなんなかったってすごいじゃん?」
「あはは……そんなことないわ、あなたはいい子よ、ケイト」
冗談を交えた言葉にキャロラインは笑ったが、少女はまた軽く肩をすくめて、皮肉っぽい微笑を浮かべながら言った。
「そうでもないよ。あたし、犯罪者の娘だし」
キャロラインが息を飲むのが、離れていても分かった。
だが、ケイトは大きな目を見開いたまま、笑みすら捨てて淡々と語り続けた。
「パパとあたしの間に隠し事はないの。パパはあたしが……あたしの両親が、ベガスのマフィアだった話もちゃんとしてくれた。マフィア同士のいざこざの仕返しで、本当の両親も、姉と妹も撃ち殺されて、家に火がつけられて、あたしだけが生き残ったって」
と、言葉を切り、少女は着ていたダークブラウンのワンピースを胸までたくし上げる。
「あたしも撃たれた。これが、その時の傷」
その左の脇腹には、くっきりと無惨な傷跡が残っていた。
黒ずんだ、ほぼ円形のあざの中央に、普通ならあり得ない、小さな丸いくぼみがある。
それが銃創であることは、素人にでも一目瞭然だった。実際にそんな代物に出くわしたことがなくても、ドラマや映画でいくらでも目にしたことがある。
ただ言葉を失って立ち尽くしている女を前に、ケイトは平然と服を元に戻すと、何もなかったかのように笑った。
「そんなの、すごく大事なことなのに、こんな傷まであるのにね。あたし、その時のこと、全然覚えてないのよ。たった五年前で、あたしはもう十一だったのに、幸せだったことしか覚えてない」
ワンピースの裾を掴んだまま呟く少女の姿は、ひどく弱々しく見えたかもしれない。
「お医者さんも神父様もパパも、あたしがあたしの心を守るためにそうしてるんだって言ってくれた。そうやって、あたしはあたしを守ってるんだって」
それは当然の診断であり分析だろう。そうでなくては、こんな子供が、家族の無惨な死に直面できるわけがない。
だが、それが一時的なものに過ぎないことも、ケイトは理解しているようだった。
「でも、そんなのってひどいよね。あたし、ひどい奴だわ。今も、本当のパパとママと、お姉ちゃんと妹と暮らしてる夢をたまに見るの。それで、目が覚めてから……」
少女の体が短く痙攣した。
まだ彼女は、家族の突然の死を受け入れられてはいないのだ。それを現実のものとして受け止めるには、ケイトは幼すぎる。
キャロラインは、思わずキッチンからリビングへと駆け寄り、涙を見せないように両手で顔を覆った少女を抱きしめた。
「いいのよ、ケイト。泣いていいの。我慢しなくていいのよ」
家族との幸せな生活から、突然目覚めて現実に引き戻された時、少女がどんな風に泣いたか。いや、今のように、必死に涙をこらえて、現実を生きようと努力しているのかを思うと、誰でもいたたまれなくなるだろう。
「辛かったわよね、本当に」
キャロラインは少女を抱きしめたまま、何度のその背中や頭を撫で、彼女が泣き止むまで待った。
少なくとも、今この腕の中で泣いている少女は、これまで知っていたケイト・ヘイワースとは違った。キャロラインは、初めて生身の彼女と抱き合っているような気がしたかもしれない。
しばらく泣いた後、少女は不意に顔を上げ、まだ震える声で言った。
「あのね、キャリー。あたし、辛くないよ。神父様が教えてくれたの。生きている人との別れは、辛いことばかり思い出すけど、もう亡くなった人との別れは、いいことだけが思い出になる、って。だから、家族とのことは……いい思い出だけを胸に抱いていていいんだって」
「いいことを仰る神父様なのね」
「うん」
ケイトは頷いてから、透明なマニキュアの剥げかけた指先で何度も目元をこすり、大きく息を吐いた。
新しい空気を肺に入れることで、落ち着きを取り戻す。その訓練は、警官の家族は誰でも教わっている基本だった。だが、それをこの場面でうまくやり遂げたことに、ケイトは満足したようだ。それがただ見つめることしか出来ないキャロラインにとっては、ひどく痛々しい光景だったとしても。
それから少女は、思いもかけなかったことを唐突に口にする。
「あたし、パパとキャリーには、辛い別れはしてほしくないの。もし、あたしのせいで……キャリーがパパと一緒に暮らすことを迷ってるんだったら、あたしがここを出て行く」
「そんなこと駄目よ、ケイト」
「神父様が、寄宿舎のある学校を紹介してもいいって言ってくれたの。高校卒業するまであと半年もないし、そんなにお金かからないんだよ。パパが警官だから、奨学金で行けるって」
「駄目、あなたに必要なのは家族よ、ケイト」
「神父様もそう言ってくれた。でも、キャリーにも、パパにも、一緒に過ごす相手が必要だよ……何のわだかまりも不安もなくて、一緒にいるだけで幸せになれるような人が」
「あなたがいないと、わたしたち幸せになんてなれないわ、ケイト!」
キャロラインは思わず叫んだが、ひどく取り乱した様子の年上の女性に向かっても、ケイトは堂々と笑ってすら見せたものだ。
「あたし、パパとキャリーの邪魔したくないんだ」
「駄目。絶対に駄目よ。そんなこと、わたしもチャーリーも望んでない」
キャロラインは少女の小さな手を両手で握りしめて、目に涙を浮かべながら訴えた。
「三人で一緒に暮らしましょう。わたしたち三人で家族になりましょう」
「うまくいくかな? あたしのせいで、キャリーやパパが嫌な思いをしたりしない?」
「しないわよ。そんなことないわ、絶対に」
不安げに見上げる少女の瞳を見つめ返して、キャロラインは力強く頷く。
まるで、ティーンエイジャーの少女と同居することの難しさに悩んだことなど、すっかり忘れてしまったかのように。
だが、それが一時的な感情の奔流で終わらないことを、リビングのドアを開けて入ってきた男が、自信たっぷりな表情で保証する。
「そう。絶対にない」
後ろ手にドアを閉めたのは、ケイトの養父であり、同時にキャロラインの婚約者でもある、ニューヨーク市警の刑事だった。
「パパ」
「チャーリー!」
駆け寄ってきた二人の肩を片腕ずつ抱き、チャールズ・ヘイワースは静かで穏やかな、それでいてどこか厳格な印象のある微笑を浮かべた。
義父のたくましい体に身を寄せながら、ケイトは彼の日焼けした顔を見上げて訊ねる。
「いつから聞いてたの、パパ」
「神父の説教の辺りから」
「大体全部じゃん。すげーな、刑事の張り込みスキル。全然気がつかなかった」
ケイトは大きな目を悪戯っぽく輝かせ、冗談めかして深刻な話題を笑いに変えようとした。
しかし、チャールズ・ヘイワース……この実直で生真面目な、生まれながらの警官は、彼女の目を見つめ返して、静かな口調で言った。
「いいかい、ケイティ。改めて言っておこう。私が君を引き取ったのは、君が犯罪被害者だからでも、孤児だからでもない」
チャールズの声は低く、落ち着いていて、口調こそいささか厳めしいかもしれないが、聞く者の心に伝わるように努力しているのが伝わってきた。
「ケイティ。君は、私に似ている。だから私は、君を養子にした」
彼は、何の迷いもない目で、娘の顔を静かに見つめながら言う。
「五年前、私は妻を亡くして、なんとか立ち直ろうと努力しているところだった。だが、孤独に耐えきれない夜を何度も過ごした。そして、あの事件があって……私は、君のことを知った。あんなにも悲惨な事件のことを」
チャールズ・ヘイワースの前妻、ポーリーン・ヘイワースは、彼と同期の婦人警官で、二人が二十八歳の時に彼と結婚した。クリスマス・イブは二人の結婚記念日でもあったのだ。白い雪に包まれた幸せなクリスマス。
それからたった二年後の同じ季節に、ポーリーンは急性白血病と診断され、二年間苦しみ抜いて死んだ。たった二年と思うか、二年もと思うかは、チャールズ自身ですら分からない。
その後の三年は、勤務中はひたすらに犯罪者を追うことだけを考え、また、ただ失った妻のことだけを考えて生きた。
「ポーリーンのことは、ケイトにもキャロラインにも話したかな」
「ええ。前に聞いたわ、パパ」
「わたしも」
二人が頷いたことに、チャールズはかすかに安堵したような表情を浮かべた。微笑というほどでもないほどだが、それでも心のどこかが安らいだのが分かった。
「それで、どうしてかな。捜査資料を見ていた時だよ。急に思い立って、ケイト……君の入院していた病院へ行った。君はまだ自分の言葉で話すことも出来ないような状態だった。だが、それでも。君の目を見ただけで、君も私と同じように、孤独の中で、眠れない夜を過ごしているんだと分かった」
「覚えてる。あの時のことは」
少女は大きな目を細めて笑った。
ちょうどあの日、あのとき、初めて目が合った時と同じように。
「あのとき、君は、私と同じように、誰かを必要としていた。私たちは似ていると、直感したんだよ」
「誰も会いにきてくれるなんて思ってなかった。家族はみんな死んだって、もう知ってたから。だから、あたしはもうこの世にひとりぼっちなんだなあって思ってたの。パパもママも、お姉ちゃんも妹も死んだのに、どうしてあたしだけ生きてるんだろう、あたしもはやく家族のところへ行きたいって、そればっかり考えてた」
ケイトは義父の顔を見上げ、わずかに目を潤ませていた。
両親と姉妹が目の前で殺され、彼女自身も瀕死の重傷を負った。生きていたのが奇跡だった。その時のことを思い出せば、誰だって容易く泣けるだろう。
だが。いま、彼女の目に浮かんでいるのは、悲しみや苦痛の涙ではなかった。
「だけど、あなたが来てくれた。あの日」
それは感謝の……いや、そんな薄っぺらい言葉では表現できないほどの……あえて言うなら、救いを得た者の涙だった。
「あの瞬間、目と目が合った時。運命というものは実在するのだと、私は確信した。私には君が必要だった。君も私を必要としてくれた」
その言葉を、ケイトは否定しなかった。
筆談がかろうじて出来るような状態の中で、チャールズは自分の身分を明かし、ケイト自身の身の上を全て知っていることも伝えた。
さらにその上で、彼女を養子として迎えたいと、児童保護局に申請する手続きをしたいとも告げた。
呼吸器をつけたまま、ケイトは小さく頷いた。
彼女自身は犯罪者ではなく、ただの十一歳の子供だったが、親はマフィア絡みの抗争で殺された。そんな子を養子にしたいと名乗り出る人間は少なかったし、こういう時こそ、普段は全く使わないニューヨーク市警の刑事としてのコネと立場を、チャールズは最大限に利用した。
結果、ケイトが彼の養子になるまで、三ヶ月しかかからなかった。患者が退院するより先に、養子縁組の書類の一切が入った分厚い封筒が、自宅に届いたのだ。
「退院するとき、パパが一緒にいてくれて、あたし嬉しかった」
病院を出る時、車椅子を押しながら新しい生活の話をする相手が、違う誰かだったとしたら。
そんなことを考えたのか、ケイトはぞっとしたように一度身を震わせ、ひときわ強く義父の体にしがみついた。
「ありがとう、パパ。本当に感謝してる。あたし、パパのこと大好きよ」
「私も大好きだよ、ケイティ」
「知ってるわ、パパ。でもね」
と、彼女は言葉を切り、涙をこらえた目で義父を見つめて言った。
「今は、パパにはキャリーが必要なのよ。そういう時期に来たの」
「違う。私には、二人とも必要なんだ」
チャールズ・ヘイワースはそうはっきりと言い切ってから、改めて義理の娘の目を見つめ返した。
「ケイティは、キャリーが嫌いか?」
ケイトは傍らの女性をちらりと見ながら、小さく首を振った。
「ううん、そんなことない、大好きよ。キャリーは、すごく優しくて、素敵な人だと思ってる」
少しお世辞も入っているかもしれない。だが、彼女はそれでも……正直に自分の気持ちを話そうとしているように見えた。
「ただ、今はまだ、ママって呼べる自信がないの」
そして、その口から出た言葉は、実際誠実そのものだった。
刑事という職業でなくとも分かる。十六歳の少女が、血のつながっていない三十六歳の女性を母親と呼ぶのは、簡単なことではないはずだ。ましてや、少女は父親とすら血がつながっておらず、そして……実の両親や姉妹の記憶もある。何より、彼女の家族は殺されたのだ。
父と娘として暮らしはじめてからですら、まだ五年しか経っていない。当たり前の反応だった。
だが、チャールズも父親として、出来るかぎりの誠実さで答えた。
「そのうち、自然と受け入れられる時期が来るさ。親子になったのはたった五年前だが、私は君を本当の娘だと思っているし、ケイティもそうであってくれていると信じている。だからいつか、キャリーのことも……母親だと」
「チャーリー、いいのよ、そんなこと」
恋人の言葉が終わるのを待ちきれなかったのか、キャロラインは彼を軽く両手で押しとどめ、それからその手で、少女の細い肩を抱きしめた。
「ケイト、わたしのこと、ママなんて呼ばなくていいの。そう思ってくれなくてもいいわ。わたし、あなたのお母さんにはなれないかもしれない。ううん、きっとなれないと思う……でもわたし、それでもいいの」
彼女は大きな目から涙をぽろぽろこぼしながら、何度も繰り返した。
「いいのよ……いいの。本当にいいのよ。わたしにとっては、あなたは自分の娘以上の存在よ、ケイト。あなたは、わたしが愛する人の大切な娘なんだもの。わたしにとって、あなたは何よりも大切。チャーリーと同じくらい大切よ」
「ありがとう、キャリー」
ケイトはされるがままに抱き寄せられ、キャロラインのふっくらとした胸元に自分の顔を埋めた。お互いに相手の体温を感じる距離というより、これはもっと力強い接触だった。
はじめ、硬直したように女の体に埋もれていたケイトだったが、やがて……少女自身も両腕を上げて、目の前にあるあたたかな塊を抱きしめた。生きている人間の肉、成熟した女の体を。
そうして、女と少女は、短い時間抱き合っていた。ほんの一分か、それにも満たないほどの数秒だったかもしれないが、今ここにいる三人には十分なだけの時間だった。
「これで分かっただろう? 生きている人間とだって、幸せな思い出をたくさん残せる。とてもたくさん。思い出しきれないくらいに」
「ええ、パパ。分かったわ」
チャールズ・ヘイワース……義父の言葉に、ケイト・ヘイワースは素直に頷いた。
それから、義父の恋人から体を放しつつ、純真な天使のような微笑みを浮かべて言う。
「キャリーも、本当にありがとう。パパが好きになった人があなたで、本当によかった」
「そんなこと言わないで。泣いちゃうじゃないの」
そう言うよりも早く、キャロラインの目からは一筋の涙が流れ落ちていた。
「キャリー、大好きよ」
「わたしもよ、ケイト」
二人はもう一度強く抱き合い、それからぱっと身を離した。
もうティーンエイジャーのケイトにとっては、これから義母になろうとする女性と抱き合って泣くなど、自分でも信じられないくらい恥ずかしい行為だったのだろう。少女は耳まで真っ赤に染まり、再びソファーの方へと逃げようとした。
このふたりなら、きっとうまくやれる。
チャールズ・ヘイワースは、刑事としてではなく、ただ一人の男の勘で、そう確信した。
そこでひとつ、娘に向かって笑いかけ、いま一番効果的な助け舟を出した。
「それで、ケイティ。ミスター・コロンバスのケーキはとっておいてくれたんだろうな?」
「もちろん!」
チャールズに言われて、少女は寝そべりかけたソファーから立ち上がり、足早にキッチンへと向かった。
「ほら、ちゃんと三人分だよ!」
彼女が冷蔵庫から取り出したのは、つい先ほどケイト自身が冷蔵庫に収めた茶色い紙袋だ。
少女は細心の注意を払ってその袋を開くと、中からはいかにも美しい、そしてクリスマスらしい、各種のベリーとチョコレートクリームのタルトが三切れ、白い粉砂糖の輝きとともに姿を現した。
「パパ、お皿とフォーク!」
「これでいいかな」
「いいわ、オーケー」
義父の差し出した小振りなケーキ皿に、ケーキサーバーなど使わず、器用にキッチンナイフでケーキを一つずつ取り分けながら、ケイトは未来の義母にも的確な指示を飛ばした。
「キャリー、カフェオレ作って! ミルクと砂糖ザブザブのやつ」
「あら、ケイトはダイエット中じゃなかったの?」
「クリスマスにダイエットって口にするやつがいるぞ! パパ、逮捕しろ!」
「容疑が確定する前に、私も砂糖ザブザブにしてもらおうか」
「オッケー!」
「まあ……」
と、キャロラインは声を出して笑った。
「本当にそっくりよね、あなたたちって」
「親子だもん、ねえ」
「なあ」
親子の会話に、キャロラインは目を細めて笑った。
「うふふ」
実際、このケーキには、甘くてあたたかい飲み物が合いそうだった。
外の寒さを忘れさせるようにあたたかい、この世の現実を忘れてしまうくらい甘い、そんな飲み物が。
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