欺瞞の国のアリス
猫屋梵天堂本舗
第1話 クリスマス・イブ
十二月。もうあと五日ばかりで一年が終わる。
ここはニューヨーク。
クリスマスの街だ。
生まれついてのニューヨーカーなら、クリスマスにその一年分の全ての労力と想像力をつぎ込むのが当たり前だ。
今日は朝から雪が降っている。ひらひら、ひらひら。道路にまで少し積もって、路面が白くなりかけている。行き交う車輪の跡がなければ、とうに純白の世界に変わっていただろう。
どこもかしこも、有名デパートやホテルの入り口から普通の家々まで、戸口のクリスマスツリーの高さと飾り付けを競い合っている。節電がどんなに声高に叫ばれようが、LEDは省電力だと開き直る連中がもっぱらだし、本物のキャンドルを惜しげもなく使っている家もいくらでもあった。
連なるマンションの窓からは、それぞれの家の飾り付けが輝いているのが見える。
渋滞で止まった車のフロントガラスには、視界を遮らない程度の奥ゆかしさで白いスプレーの雪の結晶が描かれ、車内のミラーには小さなガラスのリースがぶら下がっている。
キラキラ輝くクリスタルガラスのリースだ。曲がりくねった赤いリボンや緑の柊の葉まで、すべてが精巧な硝子細工で出来ている。
そのリースを指差して、車のフロントミラー越しに少女が笑った。
「それ、スワロフスキーのフラッグショップで買ったの? 本当に?」
後部座席を振り返り、助手席の女が笑い返す。
「そうよ。綺麗でしょう?」
「まあね。でも高そうだわ。八十ドルくらい?」
「残念、百二十ドルよ」
「マジで?」
「このくらい当たり前よ、ここはニューヨークだもの」
二人の会話に、ハンドルを握っている男は苦笑いを浮かべた。
「ケイティはまだ、ニューヨーカーになりきってないのさ」
「そりゃあそうよ、パパ。あたし、まだここに住んで五年だもの」
黒髪の少女は、軽く肩をすくめる。それから、思い直したように付け足した。
「でも、そのリースすごく綺麗よ。キャリーはセンスいいわ」
「ありがとう、ケイト」
助手席の女が、再び振り返って微笑みかける。
彼女は三十手前か、せいぜいちょっと出ているくらいだろうか。ちょっとした美人の類いと言っていいだろう。
肩までの金髪を縦に巻いて、白い面長の顔の両側をきららかに縁取っている。髪の根元が少し黒ずんでいるのは、彼女が生粋のブロンドではないことを示しているが、彼女の髪が作り物だと責めるものはいないだろう。今やこのアメリカで純粋なブロンドの美女を探すためには、かなりの上流階級のご令嬢を探さなければ無理だと誰もが知っているから。
ブロンドの女性は、華やかだが派手すぎない、品のいい化粧をしていた。
臙脂色のサテンのドレスに、少し暗めの赤い口紅が栄える。
彼女は白いツイードのコートをたたんで、パールホワイトのハンドバッグと一緒に膝に乗せていた。バッグにそっと添えた手の薬指には、小粒のダイヤモンドの指輪が輝いている。
見たところ、裕福とは言えないが、貧困に喘いでいるわけでもなさそうだ。
車も地味な黒の、ありふれたBMWだ。運転しているのは、クリスマスにはいささか地味すぎるダークグレーの背広に糊のきいた白いワイシャツ、きっちりネクタイを締めた、見るからにお硬い印象の四十男だった。
「パパ、このへんでいいわよ」
少女が後部座席から身を乗り出すようにして、運転席の男に言った。
「いや、教会まで送るよ。しかし、本当に一緒に来ないのか?」
「ええ。NYPDの刑事さんが、クリスマスに休めるなんて何年に一度だと思ってるの?」
運転席の男は、日焼けした精悍な顔に、またかすかな苦笑いを浮かべる。
それを無視して、少女は続けた。
「雪のクリスマスにフィアンセとディナーなんて、最高にロマンチックじゃない。キャリーとのデートを楽しんできて、パパ」
男は反論の余地を窺うように、わずかな間黙り込んだ。
その沈黙に耐えきれなかったのか、助手席の女が、少女の顔を見つめて言う。
「ねえ、やっぱり一緒に行きましょうよ、ケイト」
ケイトと呼びかけられた女の子は、しかし、その言葉を予測していたようだ。
「キャリー、気をつかってくれるのは嬉しいけど」
「教会でボランティアなんて堅苦しすぎるわよ。ティーンの女の子が過ごすクリスマスじゃないわ」
「パパと、パパの恋人とディナーの方が、よっぽど堅苦しいわよ」
と、言ってから、少女はまた悪戯っぽく肩をすくめ。
不意に、真顔で自分の前に座っている二人を見た。
「ごめん、皮肉じゃないの」
彼女は少し申し訳なさそうに俯いてから、思い直したようににっこりと笑う。
「教会のボランティアって言ったら、そりゃあ堅苦しく聞こえるけど、友達がみんな来るのよ。パパたちが思ってるよりずっと賑やかで楽しいの。モーリーもグリフも来るって言ってたし」
その名前に、助手席の女が敏感に反応した。
「グリフって、あのグリフィン・ライオット?」
「そうよ。スクール・カーストの王様」
当たり前のように少女が頷く。
「あなた、友達なの?」
「まあね。親友ってわけじゃないけど」
「あんな子がどうして、クリスマスにボランティア?」
「点数稼ぎでしょ。アメフト、アイスホッケー、バスケ、陸上って、いろんな大学からたくさんスカウトが来てるって言ってたもの。品行方正なところを見せたいんじゃない?」
「未来のNFLかNBAプレイヤーね。あなた、付き合えばいいのに……あ、ごめんなさい、お父さんの前でこんな話」
「いいのよ、気にしないで。それに」
少女はそれが癖なのか、また軽く肩をすくめながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「彼、あたしあんまりタイプじゃないの。それに、グリフにはちゃんと彼女いるし」
「そうなの?」
「ええ。サラよ。サラ・ゴールド。知ってる?」
「知ってるわ。綺麗な子よね」
「そうそう。美人な上に性格も頭もいいのよ、サラって。本当に、天使みたいな女の子。あたし、最初から戦う気も起きないわ」
少女は銃を突きつけられたかのように両手を挙げて、完全降伏の意を分かりやすく示した。
父の職業がニューヨーク市警の刑事でなくとも、その意味は十分伝わっただろう。
とりなすように、助手席の女が言う。
「あなただって、とっても綺麗よ、ケイト」
「ありがとう。でも、あなたほどじゃないわ、キャリー」
ケイトと呼ばれている少女は、当たり前のように答えた。
年齢は十六歳。それにしては、いささか大人びているというより、達観しているようにさえ見える態度だ。しかし、少女の複雑な過去を知っている人間なら誰でも、彼女のそうした様子もまた、ごく当然の成り行きとして受け入れられることだろう……と、運転席の男が少女の過ごしてきた壮絶な人生を思い、重苦しいため息をつきかけたとき、ケイトは明るい声で呼びかけながらリアウィンドウを下ろした。
「あ、マッケンジーさん、おはようございます!」
「やあ、おはようござんす、ミス・ケイト」
教会の前の路地を箒で熱心に掃いている初老の男は、少女に気づくと穏やかな笑顔で答えた。
背の高い黒人の男で、前髪にはいくらか白髪が混ざっている。清潔そうなシャツの上に古着らしいエアージャケットを丸めた背中に羽織って、空気も凍てつくような寒さと戦っていた。しわの刻まれた穏やかな顔つきは、いかにも人の良さそうな、満面の笑みで飾られている。少し南部なまりのある話し方なのが、ちょっとした挨拶だけでも分かった。
「どうも、おはようござんす、ヘイワースのご夫妻」
彼は運転席の男と助手席の婦人にも、にこやかに軽く会釈する。
彼はさすがに、生徒を車で送ってきた保護者が夫婦なのか、まだ婚約中なのか、そんなことまではあずかり知らぬようだ。少女の父親は苦笑いとも照れ隠しともつかないような微笑で挨拶を返した。
「やあ、ミスター・マッケンジー」
「パパ、ここでいいわ」
車から降りようとする彼女を、運転席の男は静かに、威厳のある態度で押しとどめた。
「いや、神父さんに挨拶くらいしないと失礼だろう」
「そう?」
少女は素直にそれに従おうとしたが、ウィンドウを操るボタンに駆けた手を止めて、冷たい風が吹き込んでくるのにもまったく気にした様子もなく、向かい側の歩道を歩いてくる同世代の女の子に向かって窓から身を乗り出した。
「あ、おはよう、サラ!」
「おはよう、ケイティ!」
「調子はどう?」
「いいわよ、そっちは?」
「絶好調よ、あたしはいつも完璧!」
「知ってるわ、ケイティ」
渋滞の車の列の屋根越しに、二人の少女は大声で互いの名を呼び交わしながら、大人から見たら大袈裟なくらい両手を振り合った。
それからようやく、歩道の少女は運転席の男に気づいたのか、行儀のいいお辞儀をした。
「おはようございます、ヘイワースおじさま」
「おはよう、サラ」
彼女が先ほど話題に出たサラ・ゴールドだ。
「待ってて、サラ!」
後部座席の少女は、それだけ言うと、父とその婚約者に制止する隙すら与えず、車のドアを開けて外に駆け出した。渋滞の車の間をするすると身軽にすり抜けて、反対側の歩道まで走り抜ける。
「サラ、会えて嬉しい!」
彼女は友人を軽く抱きしめてから、その姿に惚れ惚れしたように言った。
「サラ、そのドレスすごく可愛いね!」
サラ・ゴールドは、確かに噂通りの美少女だった。輝くばかりのストロベリーブロンドに白いカチューシャが可愛らしい。卵形の顔に、左右対称の、このニューヨークの空そっくりの青い目と、リンゴのような赤い唇が微笑んでいる。
「ありがと、ケイティ。でもこの格好、教会にはちょっと派手すぎたかなって」
そう恥ずかしげに言うサラは、実に愛らしかった。輝く金髪から見え隠れする、アクアマリンカラーのクリスタルの大きなイヤリングと揃いのネックレスだけでも彼女の美貌を引き立てるのにはじゅうぶんだった。さらに、その白く長い首から下へと連なっているのは、上品だが流行の最先端でもある、アレクサンダー・マックイーンのベージュのツイードのロングコートだ。
裾から、ライトブルーのフレアードレスの裾が見え隠れする。間近で見れば、真珠貝のようなサテンの生地に細かくタックを取った、実に丁寧な仕立ての服であることが分かるだろう。コートと同じブランドだろうか。
まるで、雑誌から抜け出てきたかのような姿だ。
サラの控えめな笑顔を、ケイト……車から降りた少女は、もう一度うっとりと眺めた。
「そんなことないよ、ほんとに似合ってるし可愛いよ! クリスマスだもん、華やかな方がいいに決まってる。ていうか、あたし地味過ぎ?」
ふと我にかえったように、ケイトは改めて自分の姿を見直した。
確かに、クリスマスには地味と言えるかもしれない。黒のダッフルコートにダークグリーンのニットのワンピース。アクセサリーも小さな金の十字架以外はなしだ。靴も、普段学校に履いていっているのと同じ黒のローファーだった。
「ううん、いいと思う。ケイトは何もしなくても素敵だもの。それに」
と、言いかけて、サラは通りの向こうから駆け寄ってくる影に気付いた。
「……あ、グリフ!」
すかさずケイトも笑顔を作って言う。
「グリフおはよう!」
「おはよう、サラ、ケイト!」
二人の少女から親しげに呼びかけられ、それ以外の人々からは崇拝にも似た憧れの視線を送られているのは、真っ白な歯を持つ快活そうな若者だった。自転車から降りた彼は、短く刈り込んだ金髪と整った顔立ちを太陽のごとく輝かせながら少女たちへと近づく。
すらりと背の高い、均整の取れた筋肉の持ち主で、細身のデニムにコンバース、ヤンキースのスタジアムジャケットという、いかにも恵まれた都会っ子、生まれも育ちもニューヨークという出で立ちだ。彼はそつなく、反対車線にいるケイトの車にも目を留め、軽く会釈して挨拶する。
「おはようございます、ヘイワースさん、ロックウェルさん」
「おはよう、グリフィン」
運転席の窓から、男は……ニューヨーク市警の刑事であるチャールズ・ヘイワース、すなわちケイトの父は、満足げに頷き返した。
なるほど、スクール・カーストの王様というのはこういうものか。
ハンサムでスポーツマン、きちんとした躾と教育と、ついでに歯列矯正を受けさせる程度の財産のある家の息子。
グリフィン・ライオットは、アメリカ人が好むアメリカ人らしい若者だった。男らしさ、雄々しさ、勇敢さ、そういう優れた資質を持っている。ついでに白人だ。
「サラをちゃんとエスコートしてやらないとな」
「そうします」
そつない受け答えも、曇りのない笑顔も合格点だ。彼なら、ケイトの言うとおり、メジャースポーツのスカウトがよだれを垂らすのも理解できる。
「お願いですから、あんまりからかわないで下さい、チャールズおじさま」
その傍らに寄り添うサラ・ゴールドもまた、好感の持てる少女だった。見た目が美しいだけなら、ニューヨークには探せば女優やモデルを志望する小娘がいくらでもいるだろう。だが、この子はそういう、薄汚れた世界とは縁がないように見えた。何につけ控えめで、言葉遣いも振る舞いも実に品がいい。
まあ、それはそうだろう。彼女の生まれたゴールド家は、億万長者のたむろするこのニューヨークでは地味かもしれないが、その実は製薬会社を経営し、大病院の株を所有している、そこそこの資産家だった。何の不自由もない生い立ちをしてきた人特有の、おっとりした雰囲気がサラの周囲を犯しがたい障壁のように覆っている。
実に美しい少女だ。
「ほっとした顔してるわ、チャーリー」
「何が?」
助手席の女……婚約中のキャロライン・ロックウェルに微笑みかけられて、チャールズは不審そうに眉をしかめた。
しかし彼女は、特に気にした様子もない。当たり前のように笑顔のままで、車のウインドウ越しに、楽しげにさえずりあう少年少女たちを眺めた。
「ケイトが普通に高校生活を送れてるって実感できたんじゃない? 付き合ってるお友達も、とっても素敵だし。そうね……あなた流の言い方なら、あの子たちは『まとも』よ」
と、そのとき、ケイトたちの一団に、少し遅れて合流してきたのは、痩せっぽちでチビの男の子……瓶底メガネに刈り上げのぼさぼさ頭、半ズボンにハイソックスという、いかにも勉強はできるがモテないタイプの少年だった。
だが、彼のことも、少年少女たちは楽しそうに迎え、続けてハグする。
「モーリー、来てくれて嬉しいわ」
「ありがとう、サラ」
「お前は来ると思ってたよ」
グリフィン・ライオットが拳を作って、ひ弱そうな男の子の肩を小突いた。
「誘われたら断れないよ、グリフ」
「あたしもあたしも! パパはカノジョとコンコルドでデートなのよ、あたし一人で冷えたチキン食べるくらいなら、ここでみんなとケーキ食べたいじゃない?」
ケイトの言葉に、モーリスと呼ばれたガリ勉少年は恥ずかしげに頭をかいた。
「みんなと一緒なら楽しいよね」
子供たちの笑い声が弾ける。
こんな寒さも吹き飛ぶような響きだった。
実際、冷えきった空気の中ではしゃぎあう子供たちの姿は、まるで絵本の中のもののように無邪気で、きらきらと輝いて見えたものだ。
「あの男の子もケイトの友達なの、チャーリー?」
車のウインドウ越しにその様を眺めながら、助手席の女が訊ねた。
「ああ、そうだ。彼はモーリス・タートルズ、優等生だよ。スポーツの方はからきしだが」
チャールズは自分の知るかぎりの知識で頷く。
モーリスは本来ならスクール・カーストでは最下層の存在の、ガリ勉で冴えないヒョロヒョロ野郎だが、学校の王様であるグリフィン・ライオットが親友扱いしているせいで、友人の中から浮いてはいない。学業の方は全ての面でオールAで、しばしば彼の娘であるケイトも宿題を手伝ってもらっているようだ。教師たちの覚えも良かった。悪い噂など聞いたこともない。
そもそも、少年の両親はどちらも教師であり、家族全員が敬虔なカトリックだ。モーリス自身の夢も、学校教師か神父という地味なものだそうだ。そういう、いかにも頭のいい、ついでに無害で目立たない学生が娘の友人というのも、悪いことではない。
「友達、か」
少年少女たちと教会の掃除夫がにこやかに会話しているのを遠巻きに眺めながら、ニューヨーク市警の刑事チャールズ・ヘイワースは、かすかに笑った。
「もうニューヨークに来て五年だ。友達くらい出来るさ」
「たった五年よ」
助手席の恋人の言葉に、彼は軽く頭を振った。
「そうだな。そうかもしれない」
確かに、たった五年だ。
大人である自分たち、いくつもの事件を毎日、毎時間、ひたすら追いかけている刑事にとっては、五年という年月はそれほど長いものではなかったかもしれない。いや、むしろたくさんのことがありすぎて、仕事に追い回され続けて、家族を大切にするための時間を無理して作らなくてはならない程度には忙しかった。
だが、あの子は違う。
キャロライン・ロックウェル……彼の恋人であり、感謝祭の日に婚約指輪を贈った女性は、美しい顔に沈痛な表情を浮かべて俯いた。
「あの子がどれだけ大変な目にあったか、わたしも分かってるつもりよ」
「ああ。本当に……本当に、大変だった」
「だからこそ、心配なんでしょう?」
「そうだな」
チャールズは素直に頷いた。
彼が恋し、先日プロポーズしたばかりの女性は、かつては殉職警官の妻だった。派手な銃撃戦やギャングとの争いで、あるいはちょっとした事故で、このニューヨークでは簡単に警官が死ぬ。しかし、遺族はそう容易くは割り切れない。そんな辛い思いをした彼女を、死んだ夫の同僚として慰めているうちに、チャールズは自然とキャロラインの心に寄り添い、愛するようになっていた。
「わたしたちはみんな、大切な家族を失ってる。だからこそ、分かり合えるし、辛さや悲しみを分かち合うことも出来るわ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、気が楽になるよ」
チャールズはもう一度頷いたが、言葉とは裏腹に、表情は少し曇っていた。
あの子、ケイトが……たった五年前、まだ十一歳になったばかりの頃に、どんなに恐ろしい目にあったか。
それを思えば、今こうして、舞う粉雪の中で友達と笑っている彼女を見守っているのが、まるで奇跡のように思えた。
少年少女たちが通っているイーストエンドの、治安のいい区画に設けられた「ラングレーアカデミー高校」は、新興校ではあったが、古き良き時代を彷彿とさせる雰囲気のある学校だった。もともとはこの場所にあった軍需工場を改装した建築だと言うことだが、第二次大戦中のきな臭い空気は完全に払拭されている。講堂や教室が設けられている二階建ての本棟から、張り出した両翼にそれぞれ図書館と体育館があり、その図書館と渡り廊下続きでカトリックの教会が併設されている。講堂の奥には細長いシルエットの時計台もあった。
極端な富裕層というわけではないが、しっかりした身元の子供が通っているので評判がいい。進学率も高く、スポーツにも力を入れている、典型的な新興校だ。
「いい高校に進めて良かったよ」
「本当にね」
近いうちに夫婦となるであろう車中の二人が笑い交わしたときだ。
学校の正門から少し奥に下がったところにある質素な教会から出てきた人影に、子供たちは口々に挨拶した。
「おはようございます、神父様!」
「おはようございます、皆さん」
年齢は二十五か、もう少し若いだろうか。柔和な顔に物静かな笑みをたたえて、子供たち一人一人に優しく挨拶をする姿は、若くてもさすが神父というところか。
その頃には、渋滞の車の間をうまく抜けて……というより、NYPDの身分証を見せつけて、チャールズの車は学校の正門前に横付けされていた。
神父は車の窓を覗き込みながら微笑む。
「ヘイワースさん、おはようございます」
「おはようございます、ラドクリフ神父」
チャールズは車から降りると、できるだけ堅苦しくならないように挨拶した。
「ご紹介します。こちらは、私の婚約者の、ミス・キャロライン・ロックウェルです」
「初めまして、ミス・ロックウェル。私はジャック・ラドクリフと申します、こちらの学校の礼拝堂の司祭で、スクール・カウンセラーも兼任しています。よろしくお願いいたします」
よほど目が悪いのだろうか、神父は瓶底のような丸眼鏡の向こうから、笑みを湛えた目でこちらを見てから、深々と頭を下げた。
ジャック・ラドクリフ神父は、たいそう整った顔立ちの、実に清廉な印象の若者だった。少し癖のある長い金髪を後ろでまとめ、黒い司祭服をゆったりと着て、金の十字架を下げているだけの姿だが、この冷たい風の吹き渡る雪空だというのに、不思議と、少しも寒そうには見えなかった。
中規模の高校ともなると、生徒の保護者会の力はかなり強い。イーストエンドはカトリックの強い地域だが、リベラルや無心論者からの突き上げも強いだろう。そんな土地柄からか、日頃から、学生の親の世代との対話には慣れているのかもしれない。ラドクリフ神父は実に自然ながら慇懃な態度で、チャールズ・ヘイワース刑事と、続いてその婚約者と握手を交わした。
「初めまして、神父様。キャロライン・ロックウェルです、よろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」
チャールズは刑事の癖で、つい相手の手を見、握手した時の感触を確認する。手には人間の生活が出るものだ。キャロラインと握り交わしたラドクリフ神父の右手が、短く爪の揃えられた綺麗なものだったことに、妙な安心感を覚える。ほとんどしわがなくつるりとしていて、静脈だけが日焼けしていない肌に浮いている。聖職者らしい手というものがあるならば、こういう手のことだろうと彼は思った。
「チャーリーとは、近いうちに……結婚しますの」
そんな視線など気づいていない様子で、キャリーの手短な自己紹介にも、神父は穏やかに頷き返すだけだ。
「それはおめでとうございます」
言葉は少なかったが、それがむしろ高潔に映ったのだろうか。キャロラインは感嘆したように呟く。
「神父様でスクール・カウンセラーだなんて、本当に立派なお仕事ですわ。でも、そんなにお若いのに……」
いかにも保護者らしい疑問にも慣れているのだろう、神父は慣れた調子で答えた。
「ええ、仰るとおり、私は若輩ですから、頼りなく見えるのはごもっともなことです。ですが、世代が近い相手の方が、生徒さんたちも他愛もないことをお話しになりやすいのも確かなことだと思いますよ」
と、彼は司祭服の内ポケットから財布を取り出し、ラミネート加工された数枚の身分証明書や資格免許証を、ポーカーのカードのように広げて見せた。
「ご確認くださって結構ですが、私は、カトリックの神父としての資格のほかに、心理学と精神医学の博士号と、ソーシャルワーカー、スクールセラピスト、心理カウンセラー、医師の資格を所得しています。私自身はカトリックですが、生徒さんやご家族の宗教や信条にはこだわりません。私のところには、毎日プロテスタントのお子さんも、ムスリムやブッディストのお子さんも、無宗教のお子さんも相談にいらっしゃいますよ」
「あたしみたいなゾンビとバンパイア大好き悪魔崇拝主義者にも優しい、いい神父様よ」
と、不意にケイトが軽口を挟むのを、チャールズは父親らしいというより、刑事らしい厳格さでたしなめた。
「悪い冗談はやめなさい、ケイティ」
「はぁい、パパ」
素直に引き下がりつつも口元を尖らせている少女を見ながら、ラドクリフ神父は眼鏡の向こうから、いかにも穏やかな笑みを浮かべた。
「ヘイワースさん、私にもそういう時期はありました。若さは無邪気さです、どうか叱らないであげてください」
「そうかもしれないですね、神父さん。よく兄が私にこぼしていたものですよ、自分が若い頃は、ロックは悪魔の音楽だ、なんて言われたとね」
「同じことを、私も父から聞かされましたよ。今では自分が、マリリン・マンソンだのレディオヘッドだのを教育上よろしくない音楽だと思っていますが、ケイトさんに言わせれば、そのあたりのバンドはもうとっくに古いのだとか」
世代の違いを感じつつも、チャールズはそうやって時代が流れていくものだと痛感した。
思わず苦笑いを浮かべたチャールズに、神父はやはり静かな口調で、ゆったりと付け加える。
「ただ、子供たちが何かに影響を受けやすいのは確かです。ですから、私のようなスクール・カウンセラーが必要になるのでしょうね。まだ迷いの多い生徒さんたちの日々の悩みを聞き、相談に乗るのが私の仕事です。やりがいのある仕事だと思っていますよ」
「素晴らしいわ。神父様だって、まだ学生でも可笑しくないお年なのに」
キャロラインが賞賛の声を上げたが、神父はごく当たり前のように頷いた。
「飛び級は便利で合理的なシステムです。私は十三歳でミシガン高校に入れました。十五でハーバードに進学して……ですが、ある日……十七の誕生日の夜、夢で天啓を受けました。神の言葉を伝えるべきだ、と」
彼は敬虔な祈りの表情になり、軽く眼鏡の奥の目を伏せると、まるでここがミサの一場面でもあるかのように荘厳な様子で、しかしつまびらかに語った。
「翌朝にはハーバード大学に退学届を出して、何のつてもないのにバチカンに行っていましたよ。そこで親切にしてくださった司祭様のお陰で、ローマの聖ピエトロ神学校に中途入学できました。そこで三年、寝る間を惜しんで勉学に励んで、ようやく今の立場になりました。その後一年ほど日本のナガサキにおりましたが、こちらへ赴任のお話を頂いて、帰国を……」
と、そこまで言ってからラドクリフ神父は顔を上げ、目の前の二人ににこやかに笑い直した。
「ああ、いえ、これは下らない長話でしたね。私の経歴くらい、ヘイワース刑事なら簡単にお調べにられるのに」
「そんなことをするつもりはありませんよ、神父さん」
「どうぞ、お気になさらず。刑事さんというお仕事がどういうものか、私でも分かっているつもりです。もし少しでもご不審に思うところがあれば、何でも仰ってください。私に答えられることであればお答えしますし、必要な書類をご用意することも、すぐにできます」
「本当に、何から何まで、お気を遣わせて申し訳ない」
心から済まなさそうな表情を浮かべたチャールズに、神父は穏やかな口調で付け加えた。
「どんな親御さんでも同じですよ。私の言い方が悪かったですね、言葉足らずでした。刑事さんだろうと、お医者様だろうと、サラリーマンの方だろうと、ご自分のお子さんはご心配でしょうし、私のような若い神父、というより、経験の少ないカウンセラーでは頼りないのも当然のことですから。実際、もう何度か興信所の探偵さんや、衛生管理センターの方までいらっしゃいました」
何も隠し事はないという様子で、若い神父は冗談めかして笑った。
確かに、ラドクリフ神父の経歴は完璧すぎるほど完璧だったが、神父としてはもちろん、スクール・カウンセラーとしても若すぎるのは事実だ。しかし、彼を雇い入れた以上、高校側も提出された資料や書類の数々を調べ上げたはずだし、それで何の不審も出てこなかったからこそ、彼は今ここで仕事をしている。
「いえ。あなたは立派な聖職者だ、ラドクリフ神父。話してくださってありがとう」
チャールズ・ヘイワースは、長い警官としての経験から、こうした中流から上流の仲間入りを狙う教育機関が、職員の採用にどれほど細心の注意を払うか知り尽くしている。
たったひとつの傷が、こつこつと作り上げてきた信用というダムを決壊させるのを、校長や理事長、あるいは保護者会の代表といった連中は何よりも恐れている。
ここで働いているというだけで、この男の身分は十分すぎるほど清廉潔白なはずだ。
チャールズは神父と手袋越しに形式的な握手を交わしてから、教会の敷地内を見回した。
「今日は、うちのケイティがこちらでボランティアをするそうなのですが……」
「ええ、そうです。私が生徒の皆さんにお手伝いをお願いしました」
教会の敷地、前庭と呼ぶには狭苦しいアプローチには、ボンベを使ったガスコンロが据え付けられ、大きな鍋でシチューの仕込みが始まっていた。生徒たちが不慣れな、あるいは荒っぽい手つきでにんじんやジャガイモを鍋に投げ込んでいく。
またその一角では、翌日のバザーのために集められたのであろう様々な日用品が、まるでゴミ集積場のようにうずたかく重なり合っていた。この学校の卒業生だろうか、ボランティアらしき若い女性が二人、生徒たちに野菜の切り方を教えたり、古い雑誌や書籍と衣服を選別したりしている。
神父は教会に次々と集まってくる生徒たちを微笑みながら眺め、手短に今日のスケジュールを教えてくれた。
「今日は、これから正午まではホームレスの皆さん向けの炊き出しの準備を。それから夕方まで、恵まれない子供たちや老人ホームなどの施設を回って、クリスマスの晩餐とプレゼントをお届けします。六時からこちらの礼拝堂でミサを行いますから、八時過ぎにはご自宅に帰れると思いますが……それでも親御さんはご心配でしょう。お嬢様のことは、タクシーで送らせます」
「神父様、パパとキャリーは明日のお昼までコンコルド・ホテルのスイートでゆっくりするの。あたしはおミサが終わったら歩いて帰る」
高校から自宅のマンションまでは歩いて二十分ほどの距離だ。しかし、チャールズは義理の娘に、有無を言わさぬ調子で言いつけた。
「タクシーを使いなさい、いいね、ケイティ」
「はぁい、パパ」
その会話を横から聞きつけたらしい、グリフィン・ライオット……スクール・カーストの王様にして未来のスーパースターが親しげに声をかけてきた。
「ケイティ、まさか、クリスマスの夜に一人なの?」
「そうよ。あたしはラスト・サムライを見るの。トム・クルーズ最高!」
「そいつは最高にクールな過ごし方だな、ついでにミッション・インポッシブルを見る時間もある」
「でしょ? サイコーにクールよ」
ケイトは自信に満ちた様子で笑い返した。
「見終わったらこっちに回して」
「オーケー。サラと見るにはロマンチックじゃないけどね」
彼女の答えに、グリフィンはかすかな苦笑いを浮かべて首を振った。
そういうささいな仕草一つとっても、グリフィン・ライオットは完璧な若者だった。決まった恋人はいても、簡単に一線を越えるようなタイプではない。両親が熱心なカトリックだという話は、刑事としてではなく父兄会の情報としてチャールズの耳にも入っていたが、グリフィンもしっかりした考え方の持ち主のようだ。
義父が友人の値踏みをしていることになど気づいてもいないのか、ケイトは生き生きとした様子で、教会の前のアプローチを掃除しながら訊ねていた。
「神父様、明日のバザーは何時から?」
「十一時からですよ。準備から参加する人は十時には集合。二時まで頑張れば、ミスター・コロンバスのケーキが届きます」
神父の答えに、ケイトは大袈裟なくらいの歓喜の声で、友人たちに呼びかけた。
「マジで! ちょっとみんな聞いた? コロンバスさんのケーキだって!」
「そりゃ明日も来なきゃいけないよね、ケイティ」
いかにも大人しげなモーリス……ほとんど影が薄い、ガリ勉少年が、恐らく今日初めて発したまともな言葉にも、ケイトは満面の笑顔で頷いた。
それから彼女は、義父とその婚約者の方へと向き直って、自信たっぷりに言い放つ。
「コロンバスさんのケーキは、言っちゃあ悪いけど、コンコルド・ホテルのデザートの百倍はイケてるから。パパとキャリーの分もお土産に持って帰ってあげるわ。だから、安心して楽しんできて」
「分かった」
チャールズは苦笑いを浮かべて、完全降参とでも言うように軽く肩をすくめた。
確かに、ケイティの言う通りなのかもしれない。ニューヨーク市警で働いている人間が、こんなにも美しい婚約者と、コンコルド・ホテルのスイートでクリスマスの一夜を過ごす機会など、この先一生、少なくとも退職するまでは訪れないだろう。
そんな素敵な一夜をプレゼントするために、ケイティがこうして笑ってくれているのなら。
「ケイトの気持ちに甘えるよ。ありがとう」
それが家族というものだ。
「じゃあ、キャロライン、行こうか。ラドクリフ神父、娘をよろしくお願いします」
チャールズの言葉に、神父はにこやかな笑みで頷いた。
「はい。メリークリスマス。神のご加護を」
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