一幕 童子
出雲が去った後、信長も自身の城に戻った。
ドカドカと不機嫌を隠さず歩く信長に、臣下や侍女たちは恐れて遠くから様子を伺う。
それが、更に信長の苛立ちを加速させていた。
自室に入ると、目の前にあるものを順々に持ち上げては投げつけ、持ち上げては投げつける。
……八つ当たりだった。
暴れ、投げる対象が近くからなくなると、信長はそのままその場に蹲った。
手で顔を覆う。
けれども、指の間から床へと次々と水滴が落ちていく。
……あり得ないことで、あって欲しかった。
……信じたく、なかった。
本当は、ずっと前から疑っていたのに。
母の土田御前が、何やら怪しい動きをしているとの報告は、随分前から入っていた。
親元から離され育てられた信長にとって、愛や信頼なんぞ不可解なもの。
人は利で動くものというのが、彼の持論だった。
それ故に、彼は幼き頃より秘密裏に自らの手駒を増やすことに腐心していたし、彼らを使って家族親族の動向を探らせることもしていた。
だからこそ、早くから怪しい動きをしているというのは察知していた。
肉親の情など遠の昔に割り切っていると、そう思っていた。
けれども、本当は……ずっと決定的な事実を掴むことを恐れていた。
法師と土田御前の会話を聞いた後ですら、自分の都合の良いように解釈しようとしたほどに。
土田御前は、どういう訳か信長のことを自身の息子として認めていない。
信行が唯一の息子だと言って憚らないほどに。
つまり、法師に彼女が言った『我が子が城主を継ぐのに、禍根は少ない方が良い』とは、そのまんま信行が跡を継ぐのに、信長を綺麗に消したいと願っていたということを……頭では瞬時に理解していた。
けれども、心がそれを認めていなかった。
『きっと』、自分のことを息子だと影ながら認めていてくれたんだ。
『恐らく』、自分のために法師に何かを願ってくれたのだ。
そう、都合の良い妄想ばかりしてしまっていた。
「ぐっ………」
痛みの間隔が、どんどん短くなっている。
恐らく法師は明日の夜術を完成させて、自分は死ぬのだろう。
不思議と、死ぬことそれ自体に恐れはなかった。
つまらなかった人生だったな、そんな感想だ。
浅い息を繰り返す。叫ばないよう噛み締めた唇からは血が溢れ、口内は鉄の味がした。
震える手に力を込め、手近にあったものを握り締める。
ふと……。
何故、今こうも我慢しているのだろうかと、痛みに意識を朦朧とさせながらそんな問いかけを自身にする。
このまま抗わなければ、楽に死ねるかもしれないというのに。
それでも、こうして忍び耐えているのは何故だろうか、と。
死ぬのは、怖くない。
ならば、何故か。
考えても、分からなかった。けれどもただ、このまま死ぬのはつまらないとも思った。
自分が死ぬ理由を知らぬまま、ただ目を閉じ座したまま死ぬのは……とても、勿体無いことだと。
あの世というのがあるのであれば、あの世で知っておけば良かったと悔やむかもしれない。
例えそれが、知りたくなかった事実だとしても。
否……既に、絶望はした。
けれども、ないも同然の希望がチラチラと輝くから、よりその瞬間の絶望の色が濃く感じられるのが今なのだ。
どうせ死ぬのであれば白黒ハッキリさせれば良い。その方が諦めがつくというもの。
そしてできれば……死ぬ時には、出雲のあの美しい舞に送られたいと、そう思った。
八つ当たりをしてしまったが、あの舞は確かに美しかったのだ。
死への旅立ちには、良い餞別。
「明日の、夜……か」
決意を胸に、信長は呟いた。
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