一幕 童子
また会おうな、そう言って出雲はどこかへと去っていった。
吉法師はその言葉に答えることもしないまま、ただただ座り続けた。
日が傾き、稲穂が赤く照らされる。その頃になってやっと彼は立ち上がると、帰路へついた。
「信長様!一体どちらにいらっしゃったのですか!」
屋敷に戻った途端、男に怒鳴られる。
彼の名前は平手政秀、吉法師……もとい信長の守役であった。
喧しいとでも言うかのように信長は顔を顰めると、ずんずん自室へと進む。
「信長様!」
「……五月蝿いぞ、じい。町に面白き舞手がおった故、見ていただけだ」
信長の口から面白い舞手という言葉が出てきたのが余程意外だったのか、平手は暫し呆けていた。
「舞とは、風流なものを……。ですが……」
「すべきことは済ませておる。何か問題でも?」
尚も言い募ろうとした男の言葉を遮り、冷たく信長は言い切る。
「……。結構にございます。しかし、その舞手、もしや間諜かもしれません。以後、一人でお近づきにならぬよう」
「分かっておる」
信長は自室に戻ると、どかりと座った。
適当に転がっている書を取ると、パラパラと捲る。……けれどもすぐに飽いたのか、それを放るとその場に寝転がった。
『なあに、シケた顔をしているのさね』
ふと、頭の中に出雲の声が蘇る。
「ぐっ……」
その瞬間、まるで臓器を鷲掴みにされたような鋭い痛みが左胸に走った。
呼吸も浅くなり、脂汗が額に滲む。
震える手で左胸を抑え、幾度か深呼吸を繰り返してやり過ごす。
ここ最近、ふとした時に襲う身体の不調。断続的に自身を襲うそれは、けれども僅かな時を我慢すれば何事もなかったかのように元通りになるのだ。
……そういえば、と痛みに顔を歪めながら信長は思いだす。
今日は出雲という風変わりな者に会い、かなりの時間を共に過ごしたが、その間痛みを感じることはなかったと。
いつもの痛みが襲う間隔から考えるに、一度や二度痛みを感じても良いものを。
「……ふん」
痛みが落ち着いた頃に、ぐりぐりと眉間の皺を揉むと、信長はそのまま寝入った。
彼の名前は、織田信長。幼名、吉法師。
尾張国の古渡城主・織田信秀が嫡男。
既に元服を済ませ、名を信長と改めていたが、そこは織田家の次期当主である。
名をそのまま明かすのは憚られ、幼名を出雲に名乗ったのだった。
……本人が未だ吉法師という名の方に、馴染みがあるというのもあるが。
幼き頃より信長は、ここ那古野城城主として暮らしていた。それが、嫡男としての務めなのだとか。
実の母・土田御前や兄弟と離れ、次期当主らとして学ばなければならないことを学び、そして城主としての務めをはたす。
そんな日々が、繰り返される。
……くだらない。実に、くだらない。
それが、信長の思いだった。
当たり前のように淡々と過ぎる毎日には、何の面白みもなく辟易する。
最初の方こそ新たに学ぶものが多く、目を輝かせることもあったが……既に、信長は屋敷にあるありとあらゆる書物は読み切っていた。
一度読めば忘れることはなく、諳んじて言えてしまう。
つまり信長の頭の中には、織田家が保有する数多の書物があるのと同じだ。
それ故に、平手の寄越す課題は信長にとっては酷く退屈なものだった。
次第に、軍記など解釈や講釈の違いを討論し合うのも一興とかつての彼は考え流ようになったが……真新しいそれを出す者などなく、それも飽いていった。
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