エピソード8【必要な人】⑫


「なあ、ヒトミ……」


俺は、目の下のにじんだ涙を拭い、そっと尋ねた。


「俺が、おまえにもう1度会いたいって思ってたから……神様がチャンスをくれたのかな」

「ありがとう」


ヒトミは、ニコッと笑う。


「お兄ちゃん、そんな風に思っててくれたんだ」

「あぁ」


俺は笑みを浮かべ、力強く答えた。


「もちろんだよ」

「ありがとう……本当にありがとうね」


でも、とヒトミは話を続ける。


「多分、私がここにいるのは……私が神様に一生懸命お願いをしたから……1日遅れのクリスマスプレゼントかな」

「プレゼント……?」

「うん」


ヒトミは照れくさそうに、頭をポリポリとかいた。


「だって……」


ヒトミは言った。


「どうしても謝りたいことがあったから……」

「え……? 謝りたいこと……?」

「うん……」


ヒトミは、再び頭をポリポリとかき始めた。

そして、右手の人差し指で髪の毛をクルクル。


クルクル。

クルクル、クルクル。


あぁ。

懐かしい。

そう。

それは、ヒトミの癖。

何か言いづらいことがある時に、無意識にやってしまう癖。

そういえば、毛ガニ山へ合宿に行きたいって言い出した時も、髪をクルクル、クルクルやってたな。


何だよ。

何なんだよ。

まだ、何か俺に隠していることがあるのか?

全く、困った妹だ。

いったい、俺に何を謝ろうとしてるんだ?

俺が大事にしてたマンガ本を、実は古本屋に売ってしまったとか?

それとも、ベランダに置いてた観葉植物が枯れてたのは、実はおまえが何か関係あるのか?


ハハッ、早く言えよ。

お兄ちゃん、怒らずにちゃんと聞いてやるから早く言えよ。

俺は、そういう気持ちのまま、やさしい眼差しでヒトミを見つめていた。


するとヒトミは、髪をクルクルしながら、


「あのね……」


と静かに口を開いた。

だが、その直後、ヒトミの目から一筋の涙がツーっと流れ落ちた。

ヒトミは慌てて、さっきの俺と同じように、目の下に浮かぶ小さな涙を拭うと、無理矢理ニコッと笑顔を作り、話を続けた。



「これから……お兄ちゃんに、ご飯作ってあげられなくてごめんね……」



え……



「もっと美味しいハンバーグ作ってあげたかったのに……ごめんね……」



あぁ……そういうことかよ。

謝りたいことってそういうことかよ。


ホロリ――


くそっ……まいったな。

いくら強がっても我慢しても、俺の涙腺がまた活動し始めたじゃないか。


「ごめんね……」


何言ってんだよ……あれほどうまいハンバーグ、世界中探しても見つからないよ。


「それと……」


続けてヒトミは言った。


「シャツにアイロンをかけてあげられなくてごめんね……」


ヒトミ……


「お兄ちゃん、いっつもしわくちゃのまま着ちゃうから心配だよ」


何言ってんだよ……

大丈夫だよ。

これからは、頑張って自分でやるから。

だから心配するなよ。



ホロリ――

ホロリ、ホロリ――



くそっ……まいったな。

どんどん、どんどん、涙が出てくるよ。


「あとね……」


さらにヒトミは言った。


「おかえりって言ってあげられなくてごめんね……」


ヒトミ……


「私のために頑張って働いてくれるお兄ちゃんを出迎えるのが、ちょっとした楽しみだったんだ……」


何言ってんだよ……そんな嬉しいこと言うなよ。



ホロリ――

ホロリ、ホロリ――



あぁ。

もうダメだ。

俺の涙は、もう止まらないよ。


「そして……」


ヒトミは、俺と同じように大粒の涙を流しながら言った。


「そして、もう1つ……」


……




「花嫁姿を見せられなくて……ごめんなさい……」




そう言うとヒトミは、両手で目を押さえて、肩を震わせていた。

あぁ。

その震える肩を見ると、ヒトミの思いが痛いほど伝わってくる。

『ごめんね』

『ごめんね』

『お兄ちゃん、私のウエディングドレス姿を、すごく楽しみにしてくれてたのに』

『なのに、見せられなくて本当にごめんね』

そういう思いが、痛いほど伝わってくる。


ヒトミ。

あぁ、ヒトミ。

何言ってんだよ。

謝らなくていいんだよ。

何も謝らなくていいんだよ。

そうつぶやきながら俺は、ポタポタと流れ落ちる涙を抑えることができずに、その場にしゃがみこんでしまった。


あぁ、ヒトミ。

おまえは、なんて出来た妹なんだ。

最高の妹だよ。

世界中、どこに出しても恥ずかしくない最高の妹だよ。


俺とヒトミはお互い涙を流しながら、ただ、ただ過ぎ行く時間の流れに身を任せていた――


「あ~、すっきりした~ぴょん」


やがて、うずくまる俺を見つめ、ヒトミは涙をゴシゴシと拭って、微笑みながら喋り始めた。


「だって、お兄ちゃん、いっつも私の結婚の話するんだも~ん。けっこうプレッシャーだったんだよ」


そう言いながら、ヒトミはまた軽く飛び跳ねていた。

ぴょんぴょん。

ぴょんぴょん。

かわいらしい野うさぎのように飛び跳ねていた。

まるで、1回『ぴょん』と飛ぶたびに『1つの涙』が『1つの笑顔』に変わる魔法をかけているように。


変われ。

変われ。

全ての涙よ、笑顔に変われ。


そういう魔法をかけているかのように、微笑みながら飛び跳ねていた。

あぁ、ヒトミ。

おまえの姿を見てると、俺もなんだか笑顔になってくるよ。

そうだよな。

暗くなっちゃダメだよな。

こういう時こそ、明るく振る舞わなきゃな。

せっかく、おまえと一緒に居られる大切な時間なんだ。

お互いが涙のままじゃ、もったいないよな。

じゃあ、俺も自分に魔法をかけるよ。


変われ。

変われ。

全ての涙よ、笑顔に変われ。


そして、今の魔法が俺の心に効いたのだろうか。

俺は『ニカッ』と満面の笑みで微笑んだ。


ほら、どうだい?

俺も笑顔になっただろ?


ヒトミ……


ありがとう。

ありがとうな。

笑顔の大切さを教えてくれてありがとうな。


そして、約15秒――


2人で笑いあっていた。

言葉なんていらなかった。

だって、それだけで充分だから。

お互いの顔を見ているだけで、全てが分かり合えるような気がしたんだ。

だが、そう思ったのもつかの間のこと。

その幸せな時間は、長くは続かなかった。


「お、おい……ヒトミ……も、もしかして……」


俺の視線は、一点を見つめたまま、その動きを止めてしまった。

なぜなら、よく見ると、ヒトミの足先がスーッと消えかかっていたからだ。

いや、足先だけじゃない。

瞬く間に、膝の下あたりまでが消えていた。


あぁ。

どうやら、もう時間らしい。

ヒトミが天国に帰る時間が来たようだ。

だが、ヒトミは笑顔を崩さなかった。

おそらく分かっていたのだろう。

神様から与えられた奇跡の時間が、どれぐらいの長さかということを。

だから、心の準備は出来ている。

ヒトミの笑顔からは、そういう心の内が伝わってきていた。


あぁ。

嘘だろ。

嘘って言ってくれよ。

俺は、徐々にその姿を失っていくヒトミを見ながらも、目の前の出来事を受け入れられないでいた。

だが、これはまぎれもない現実。

神様がくれた1日遅れのクリスマスプレゼントは、そんなに長い時間は続かないようだ。


あぁ。

やっぱり、神様は意地悪だ。

ヒトミと一緒に居られる時間が、こんなにも短いなんて。

時間にして、わずか13分。

あぁ、短い。

短すぎる。

意地悪だ。

神様は意地悪だ。

あぁ。

本当に、あなたは意地悪だよ。


でも……ありがとう。

ありがとう、神様。


いくら意地悪だと思っても、やっぱりあなたには感謝の言葉しか浮かびません。

だって、わずかな時間でも、もう1度、ヒトミと会わせてくれたんですから。

ありがとうございます。

本当に、ありがとうございます。

俺は、そう思わずにはいられません。




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