エピソード8【必要な人】⑧
「あっ!」
俺は、すかさず窓際の壁にかかってある時計に目をやる。
現在時刻は、午前0時08分――
つまり日付でいうと、12月26日。
そう。
この椅子は、ただの椅子。
何の能力も持たない、普通の椅子に戻っていた。
「えっ……ということは……」
俺は、ボソボソと口を開きかけた。
だが、一瞬早くオーナーが、青山さんに向かって話し始めた。
「青山さん……だから、あなたが喋ったことは……全部、自分の力なんですよ」
「え……?」
青山さんは、唇を震わせながら尋ねる。
「ほ、本当ですか……?」
「ええ……」
オーナーはやさしい笑みを浮かべ、コクリと頷く。
「本当ですよ」
「あぁ……」
彼女は、胸をなでおろしつぶやいた。
「よかった……」
青山さんは、少し安堵の表情を浮かべていた。
今までのように、緊張と罪悪感に支配されていた顔はどこかに消えうせていた。
そう。
すごく安らかな姿が、そこにあった。
その心の内はよく分かる。
自分の力で真実を話せたことが、やはり少なからず嬉しかったのだろう。
――そして、数秒後。
「斉藤さん……」
青山さんは言った。
「いくら謝っても、許してもらえるとは思っていません。でも、私は神様に感謝しています。ここで、こうしてあなたに巡り合わせてくれたことを……」
ピタッ――
あっ……
俺と青山さんの視線が重なる。
だがその瞬間、俺は反射的に2つの目を地面に向けてしまう。
どんな顔で向き合えばいいのか分からなかったからだ。
でも青山さんは、俺のその姿を気にするそぶりは見せなかった。
『私の思いを全て話します』
おそらく、そういう思いしか持っていなかったのだろう。
「そして、もう1つ……」
続けて青山さんは言った。
「私は……神様に感謝することがあります」
え……?
「それは……恋をする資格のなかった私が、あなたに恋をすることができたということ……」
青山さん……
「最後に……あなたに会えて幸せでした」
え……?
最後……?
俺は、その言葉が気にかかり、うつむいていた顔をフッと持ち上げた。
そこには、変わらず穏やかな笑みを浮かべている青山さんがいた。
そして、その姿を目にした瞬間――
ゾクッ――
え……?
ゾクッ――
ゾクッ――
え?
なぜだろう?
青山さんの微笑みが、なぜか俺の背筋を『ゾクッ!』と凍らせる。
ギシッ――
え……?
ギシッ――
ギシッ――
え?
なぜだろう?
その天使のような微笑みが、なぜか俺の心を『ギシッ!』と締め付ける。
な、何だ?
分からない。
何かは分からない。
だが、何か嫌な予感がする。
刑事の勘。
さらに、男の勘。
好きな女性の心の奥底を探ろうとする男の勘。
その2つが、今、確実に動き出している。
「妹さんには……」
さらに彼女は言った。
「ヒトミちゃんには……これから、ずっと謝り続けていきます……」
ゾクッ――
ゾクッ、ゾクッ――
「私が……」
ギシッ――
ギシッ、ギシッ――
「天国に行けたなら……」
ま、まさか……
ブルッ!――
ブルッ! ブルッ!――
強烈に蔓延し始めた猛毒のような空気を感じ、俺の全身は一気にブルブルと震え始めた。
すると、その時。
ガサッ――
青山さんは上着のポケットから、おもむろに何かを取り出した。
それは、キャップの閉まった小さな小さなガラスの瓶。
何だ?
何なんだ?
誰もが、その謎の小瓶に視線を走らせた。
だが、その正体を確認する暇もなく、
ゴクリ――
青山さんは、小瓶の中身を一気に飲み干した。
「あ、青山さん……?」
い、今のはもしかして……
「うっ!!」
や、やばい!
そう。
それは、一瞬の出来事。
青山さんは首を手で押さえ、いきなり苦しみ始めた。
「うっ! うぁ!!」
くそ!
何をやってるんだ!
俺は、慌てて青山さんに駆け寄ろうとした。
――だが、その瞬間!
「しまった!」
一足早く、目を見開いた岡本さんが彼女に飛びついた。
「何してんねん! 吐け! はよ吐け!」
さらに、
「青山さん! 青山さん!」
俺もすかさず、彼女の顔を覗きこむ。
だがそこには、グッタリとうなだれている青山さんの姿。
くそっ!
何だ!?
いったい、何を飲んだんだ!?
フワッ……
こ、これは!
俺の嗅覚に、ある匂いが飛び込んできた。
「あ、あぁ……」
ま、まじかよ……
おそらく、この状況をすぐさま把握したのは、俺と岡本さんだけだろう。
う、うそだろ……まさか、こんなことになるなんて……
そう。
彼女が飲んだのは、青酸カリ。
独特のアーモンド臭だから、岡本さんと刑事だった俺にはすぐに分かった。
あぁ。
どうしたら、どうしたらいいんだ。
青酸カリの致死量は0.2グラム。
数分で死に至る劇薬だ。
「救急車や! はよ救急車や!」
岡本さんを始め全員が、青山さんを抱きかかえて、奥の部屋へと消えていった。
岡本さんは、何か考えがあるのか? 出来る限りの応急処置を施そうとしているのか?
本当なら、俺も青山さんの側に寄り添っていたい。
彼女を助けるために最善を尽くしたい。
でも、俺は動けなかった。
その場から動けなかった。
頭の中で、今の出来事がリプレイのように繰り返されていたから。
全ての神経が、凍りついたような状態に陥っていたから。
そして、もう1つ体が動かない理由がある。
それは、この毒薬についての知識があったから。
処置の方法も少なからず分かっていたから。
青酸中毒の解熱剤――
それは、亜硝酸アミルの吸入や、亜硝酸ナトリウムの注射。
だが、このペンションにそんな設備が整っているわけがない。
そう。
果てしない絶望感。
それが、俺の体が動かない最大の理由だった。
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