エピソード7【ヒトコレ】②


本当なら、1分、1秒でも早く、しゃぶしゃぶ屋に向かわなくてはいけないのに。

なぜだろう。

でも、その答えは考えるまでもなかった。

俺は、父さんと母さんに見せたかったんだ。

『ヒトコレ』を見せたかったんだ。

天国にいる父さんと母さんが、ヒトミを見ているような気がしたんだ。

高校の制服を着て、嬉しそうにはしゃぐヒトミを見ているような気がしたんだ。

だから、ちょっとでも長く見せてあげたかったんだ。


ヒトミが、初めて高校の制服に袖を通した姿を。

ヒトミが成長した姿を。


1分、1秒でも長く、見せてあげたかったのかもしれない。

だが、虚しいことに、こんな俺の気持ちはヒトミには伝わっていないようだ。

クルクル回ってくれという俺のおねだりに対して、


「お兄ちゃん、変態みたいだよ」


と、軽く言い放ってきた。

ふう、全く。

兄貴のことを変態だなんて……


……え?

え? え??

へ、変態!?

ちょ、ちょっと待て!

お、俺がか!?

う~ん。

その言葉は、さすがにキツイ。

テンションのあがってた俺もさすがに『ど~も、変態で~す』と、ウキウキ気分ではしゃぐことは出来なかった。


「こら! おまえ、兄貴に向かって変態なんて言うなよ!」


俺は、少し本気目の口調で声を荒げた。

怒るところは、きちんと怒る。

うん。

我ながら、今度こそ完璧だ。


――しかし。


「は~い、すみませ~んぴょん」


ヒトミは、全く堪えていなかった。

はあ~……全く、こいつは……

……ん?

ていうか『すみませ~んぴょん』ってなんだ?

『ぴょん』ってなんだ??

よく見れば、2つの手の平を頭の上でクイックイッと動かしている。

あれは、ウサギの耳のつもりか?

いや、そうに違いない。

それに、膝から下をリズミカルに弾ませている。

あれは、ウサギのかわいいダンスのつもりか?

いや、そうに違いない。

う~ん。

これも『ヒトコレ』の一部なんだろうか。

う~ん。

まあ、なんでもいいか。

俺は、とりたてその仕草に対して触れることはなく、


「あっ、そうだ」


と話題を変え始めた。


「いとこの佳子姉ちゃん、結婚するんだって」

「ほんとに!?」


ヒトミは、ホッと胸をなでおろした。


「良かった~、もうすぐ40歳だから心配してたんだ」

「こら!」


俺は、再び声を荒げる。


「余計なこと言うな! 佳子姉ちゃんが年齢のこと、どれだけ気にしてたか知ってるだろ!」


俺は、ペチンとヒトミのおでこを叩いた。

全く。

女性が1番気にするのは、年齢なんだぞ。

もし、佳子姉ちゃんが今の話を聞いて、ちょっと機嫌が悪くなったらどうするんだ。

まあ、これで、ヒトミも気づいただろう。

相手のことを考えて、会話をするということを。


――しかし。


「は~い、すみませ~んぴょん」


先ほどと同じく、ヒトミは全く堪えていなかった。

はあ~……全く、こいつは……

……ん?

ちょっと待てよ?

ていうか、まただ。

また、例の『すみませ~んぴょん』だ。

さっきと全くポーズも同じ。


何だ?

いったい何なんだ、これは??


う~ん。ダメだ。

さすがに、2回目は聞かずにいられない。


「あのさ……」


俺は腕を組み、首を傾げながら尋ねた。


「それ、何なんだ? 流行ってるのか?」

「かわいいでしょ。私が考えたんだ」

「え? おまえが?」

「うん。友達も気に入ってやってくれてるんだよ」


ヒトミはそう言いながら、手でウサギの耳の形を作り、ピョンピョンと飛び跳ねていた。

そうか。

そうだったのか。

『すみませ~んぴょん』の発信源は、こいつなのか。


父さん。

母さん。

ちゃんと見てる?

ヒトミは、こんなにユーモアのある子に育ってるよ。



「ぴょ~ん、ぴょ~ん、ぴょぴょんのぴょ~ん」



え?




「ぴょっぴょっぴょんの、ぴょぴょんのぴょ~ん」




ヒトミは、俺の周りをさらにノリノリで飛び跳ねていた。

う、う~ん……

父さん。

母さん。

だ、大丈夫だよね?

お、俺の育て方は間違ってないよね?

俺は不安になりつつ、その光景を眺めていた。

『ヒトコレ』の番外編を、首を傾げたまま眺めていた。

う~ん。

まあ、いいか。

これぐらい愛嬌があるほうが、世の中うまく渡り歩けるだろうし。

ねっ、父さん、母さん。

まあ、そういうことにしといてよ。

そして俺は、ヒトミのウサギダンスを見ながら、あることを考えていた。

多分、佳子姉ちゃんの結婚が話題に出たからだろう。


「結婚か~」


俺は、明るい未来を頭の中で描きながら喋り始めた。


「ヒトミは、いつ結婚するんだろうな~。やっぱり、お姫様みたいなウエディングドレス着るのかな~」

「はぁ~!?」


ヒトミは目を見開き、ポカーンと口を開けて驚いた。


「お兄ちゃん、何言ってんの!?」

「いやね、だからさ~」


俺はニヤニヤと笑みを浮かべ、ヒトミの肩をポンポンと叩いた。


「早くウエディングドレス着て、さっきみたいにクルクル回って見せてくれよな」

「バ、バカじゃないの!」


ヒトミは、呆れながら声を荒げる。


「全く! これから、やっと高校に入学するっていうのに気が早すぎるよ! ド変態!」

「はっ!?」


ド、ド変態だと!?


「こら! ド変態ってなんだ! ド変態って!」


全く、こいつは。

口の聞き方がなっていないな。

よしっ。

お仕置きしてやる。


「お兄ちゃんに向かって、なんてことを言うんだ!」


俺は笑いながら、再びヒトミのおでこをペチペチと叩き始めた。


ペチペチ!


「いった~い!」


ペチペチ!


「やめてよ~!」


俺が叩くたびに、ヒトミは、


「いやだ~!」


ペチペチ!


「すみませ~んぴょん! ぴょん! ぴょんぴょん!」


と、両手でおでこをガードして、笑いながら飛び回っていた。


そして気づくと、時計の針は、すでに7時を越えていた。

もう、完璧にしゃぶしゃぶ屋には遅刻だ。

でも、いいんだ。

いま、この瞬間がすごく楽しいから。

すごく居心地がいいから。

すごく幸せだから。

だから、しばらくの間、俺たちは笑い合っていた。

まるで子犬のように、ずっとずっと、じゃれ合っていた。


あぁ。

この頃が懐かしいな。

なぜか『ヒトコレ』の日のことは、今でもよく覚えているんだ。

あぁ。

この日は、楽しかったな。

すごく楽しかったな。

でも――


ヒトミ。

あぁ、ヒトミ。


おまえは、もういないんだよな。

おまえのウエディングドレスは見れないんだよな。


父さん。

母さん。

ごめんなさい。

ヒトミのウエディングドレス姿、楽しみにしてたよね。

天国にいる父さんと母さんも楽しみにしてたよね。

天国から、その姿を見るのを楽しみにしてたよね。


ごめんなさい。

見せてあげられなくてごめんなさい。


俺は、ヒトミを守ってやれなかったよ。

ヒトミに未来を与えてやれなかったよ。


決心したのに。

父さんと母さんが亡くなってから、ずっとヒトミを守っていくって決心したのに。

あいつがお嫁に行く日まで、俺の手で立派に育ててみせるって決心したのに。

そう決心したのに。


父さん。

母さん。


ごめんなさい。


ごめんなさい。






ごめんなさい。









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