エピソード6【恋をする資格】③
いや、待てよ。
ひょっとしたら、話題は何でも良かったのかもしれない。
あぁ、そうか。
可能性が0パーセントでも告白するのか、それともしないのか、自分の中ではっきりするまでの間、逃げられるなら。
揺れ動く俺の気持ちが、どちらかに決心がつくまでの間、逃げられるなら。
チャンスの神様のプレッシャーから少しの間、逃げられるなら。
話題は、何でも良かったのかもしれない。
うん、そうだ、おそらくそうだな。
だからだろう。
俺は無言の時間を作らないかのように、さらに続けて喋り始めた。
「世話がかかるけど、かわいい妹ですよ」
俺は、さらに喋る。
「あいつがいると、毎日がすごく楽しくなるんですよね」
「いいですね、兄妹って。私は、1人っ子だったから羨ましいです」
青山さんも、さらに喋る。
「ヒトミさんは、いいお兄さんを持って幸せだと思いますよ」
「だといいんですが」
「ヒトミさんは、おいくつですか?」
「18歳です」
俺は、そのあとにこう付け足す。
「生きていたら……」
その時だった。
「え……?」
青山さんは突然、目を丸くして驚いた。
当然だ。
こんな答えは、想像もしていなかっただろう。
おそらく、彼女が想像していたのはこんな感じに違いない。
『18歳です。今は、高校3年生なんです』
『18歳です。最近、バイトを始めたみたいなんです』
『18歳です。近頃、オシャレに目覚めちゃったみたいなんです』
今の会話の流れだと『18歳です』のあとに続く言葉は、こういう類を想像して当たり前だ。
そして実を言うと、その言葉を発した俺も、自分自身に驚いていた。
まさか、ヒトミのことをこんなに詳しく話すなんて、数分前までは全く思ってもいなかった。
なぜだろう。
やはり、青山さんには全てを話したい。
なぜだろう。
あぁ、そうか。
青山さんのことが好きだからか。
いたって簡単なことだな。
だったら、話そう。
青山さんには全てを話そう。
俺が好きになった人なのだから、隠さず全てを話してしまおう。
「実は……」
俺は食事用テーブルの椅子に座り頬杖をつくと、静かに話し始めた。
「1年前の12月19日に、この山のふもとで事故にあったんです」
「事故……?」
「ええ……」
俺は言った。
「ひき逃げでした」
「え……?」
青山さんは再び大きく目を見開き、さらに息が止まったかのような驚きの表情を見せていた。
何も言わずに、しばし驚くのみ。
無理もない。
こんな重い話をされたら、一瞬、思考回路が麻痺してしまうだろう。
だが、しばらく言葉を失ったあと、その硬直が少しやわらいだようだ。
視線を地面に落としたまま、青山さんは一言だけつぶやいた。
「そうなんですか……」
「ええ……」
俺は、窓の外に積もった雪景色に目を向ける。
「今日みたいな綺麗な雪の日じゃなくて、その日は土砂降りの雨だったんです」
だから、と俺は言った。
「今でも雨が降ると、あの日のことを思い出す時があるんです」
「そうなんですか……」
「ちなみに……」
俺は、弱々しくつぶやく。
「犯人は……まだ、捕まっていません……」
「そうなんですか……」
「ええ……」
あぁ。
悲しい。
俺は自分でそう言いながら、すごく悲しくなった。
そして青山さんも同じく、巨大な、巨大な悲しい気持ちに襲われているようだ。
よって、お互い言葉が出ない。
よって、沈黙が訪れる。
そう。
それから、その場には、数十秒の無言の時間が到来した。
たった数十秒なのに、何時間にも感じるような長い長い沈黙。
まるで、永遠に続くかのような沈黙だった。
だが、やがて青山さんが、
「あの……」
ソファーに座りうつむいたまま、両手で顔を覆いながら言った。
「すみません……辛いことを聞いてしまって……」
しかし、青山さんは、それ以上何も喋らなかった。
というよりも、やはり喋れなかったんだろう。
きっと、いや、確実に。
悲しみが大きすぎて、連続して言葉が出てこない。
そんな感じだった。
『ごめんなさい。私は、これ以上喋れません』
彼女の全身から沸きあがるオーラが、まるでそう訴えかけてくるようだった。
あぁ、ダメだ。
もう、青山さんに気を使わすわけにはいかない。
そう思った俺は、
「あ、あの」
この場の空気を変えるように、少し明るめに喋り始める。
「僕、去年まで刑事やってたんですよ」
「そうなんですか……」
青山さんは、ゆっくりと顔を持ち上げた。
まるで、クレーン車に吊り上げられるように、徐々に重力に逆らい、その美しい顔が持ち上がってきた。
俺は、続けて口を開いた。
「でも1年前に刑事を辞めてからは、このペンションで働いているんです」
「そうなんですか……」
「少しでも……ヒトミが、最後にいた場所の近くで過ごしたかったんです」
「そうなんですか……」
青山さんは、そう言うと再びうつむいてしまう。
そういえば、彼女はさっきからほとんど同じ言葉しか喋っていない。
『そうなんですか……』と言うことしかできないようだ。
悲しみのあまり、同じ言葉しか出てこないようだ。
悲しみの感情というのは、恐ろしい。
脳内にある莫大な量の言葉さえも奪ってしまうんだから。
おそらく、その中で唯一、口から吐き出すことを許された言葉が『そうなんですか……』という言葉だったんだろう。
そして、今、気づいたことがある。
彼女のその目には、少し涙がにじんでいた。
ずっとうつむいていたから、よく分からなかった。
だが、さっき一瞬だけ、その顔がクレーンで吊り上げられた時に、ようやく気づくことができた。
あぁ。
彼女は、涙を流している。
涙を流してくれている。
俺は、嬉しかった。
青山さんが、俺の話に感情移入してくれたから。
ヒトミのことを思って涙を流してくれたから。
あぁ。
やはり、この人は素晴らしい女性だ。
やはり、俺はこの人が好きだ。
俺は、そう思わずにはいられなかった。
そして俺もじわじわと、ヒトミとの楽しかった思い出がどんどんと蘇ってきていた。
「青山さん……」
俺は笑顔で口を開いた。
「今日……12月25日は、何の日か知ってます?」
「え?」
青山さんは、少し指で涙を拭って答える。
「え~と……クリスマスですよね?」
「はい。正解です」
俺は、ニカッと少しおどけたような笑顔を見せた。
それを見た彼女も、おもわずニコッと笑って見せてくれた。
良かった。
少しは、空気が明るくなった。
「実はですね……」
俺は、さらに明るい口調で話し始めた。
「僕は、クリスマスは大嫌いなんです」
「え? そうなんですか?」
「はい。でも……」
俺は言った。
「クリスマスは、僕たち兄妹にとって大事な日なんですよ」
「大事な日?」
「今から4年前のクリスマスの日に両親が事故で亡くなって……」
それから、と俺は言った。
「ヒトミと2人でずっと一緒に生きてきました」
「そうなんですか……」
「ええ」
そして、と俺は言った。
「僕は、1つ決心したことがあるんです……」
青山さんは、真剣に俺の話を聞いてくれていた。
俺は、さらに話を続けた。
「それは……」
さあ。
続きを話さなくては。
「それは……」
どうした?
彼女は、俺の話を待っている。
早く、話を続けろよ。
俺は、自分にそう訴えかけていた。
――しかし。
キュン。
キュン、キュン。
あれ……?
チク。
チク、チク。
あ、あれ……?
キュン。
キュン、キュン。
チク。
チク、チク。
あぁ。
ダメだ。
やっぱりヒトミのことを考えると『キュン、キュン』と胸がいっぱいになってくる。
おまけに針で刺されたように、心に『チク、チク』とした痛みも感じてしまう。
あぁ。
ダメだ。
涙が出そうになってくる。
ヒトミ。
お兄ちゃんはな、おまえがいないとやっぱりダメみたいだ。
いくら、好きな人ができても、関係ないみたいだ。
あぁ、あの頃が懐かしいよ。
ふと、頭に浮かんだのは、おまえが高校に入学するちょっと前のあの日のことなんだ。
父さん。
母さん。
ヒトミが高校に入学した時、少しだけあいつが大人になったように見えたよ。
父さんや母さんが生きていても、同じように見えたのかな?
あいつの高校の制服姿……父さんと母さんにも、見せてあげたかったよ。
見せてあげたかったよ。
見せてあげたかったよ。
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