エピソード2【トンボとなめくじ】②
「もういいよ!」
ヒトミはマフラーを床に叩きつけ、さらに激しく怒鳴り始めた。
「いい加減にしてよ! トンボやなめくじに、私の合宿を邪魔されちゃたまらないわよ!」
そして、乱暴な足跡を響かせ玄関に向かうと、急いで靴を履き始める。
ダメだ。
ダメだ、ダメだ。
もう、俺の言葉を聞く耳は持っていない。
止められない。
止められない。
もう、俺にヒトミは止められない。
「…………」
俺は妹の剣幕に圧倒されて、ただ見ているしかできなかった。
そして、ヒトミは玄関のドアノブに手をかける。
ガチャ――
ドアが小さなきしむ音を奏で、少しだけ開いた。
あぁ。
行ってしまう。
ヒトミが行ってしまう。
俺の心に、小さな穴がポカンと開いたような感覚が襲ってきた。
するとヒトミは、俺に背を向けたまま、
「お兄ちゃん……」
小さな声で言った。
「明日の夕方には帰ってくるから……」
待ってくれ……
「ちゃんと電気を消して、火の元を確かめて寝るんだよ……」
ま、待ってくれ!
「じゃあね」
バタン!――
ヒトミは、激しい音を響かせドアを閉めると、逃げるように飛び出していった。
口調は、さっきまでとはうって変わって穏やか。
だが、相当怒っているのは間違いない。
今のドアの閉め方を見れば、それは簡単に分かる。
「ヒトミ……」
止められなかった。
もう、家の中にはヒトミの姿はない。
「あぁ……」
ストン――
俺はリビングの椅子に座り込んで頭を抱えたまま、しばし呆然としていた。
ヒトミが行ってしまった。
ヒトミが行ってしまった。
そのことだけが、グルグルと頭の中を駆け巡っていた。
だが、5分ぐらい経った時だろうか――――
さっきまでのやりとりが嘘のように、俺の心は落ち着きを取り戻していった。
ハハ。
俺は、何を夢ごときでムキになっていたんだ。
刑事の勘も大事だが、どうかしている。
しまった。
しまった。
あぁ、ヒトミに悪いことをした。
徐々にそういう気持ちに変わり始めていた。
大丈夫。
大丈夫。
何もない。
不吉なことなんか何もない。
トンボなんか恐くない。
なめくじなんか恐くない。
よく考えれば、ここは東洋。
トンボもなめくじも、縁起が悪いのは西洋。
何も問題はない。
全く。
何をやってたんだろう。
「あ~あ……」
俺は少しぬるくなったコーヒーを飲みながら、ボリボリと頭をかきむしった。
ムキになって恥ずかしいやら、ヒトミに対して申し訳ないやら、よく分からない気持ちで頭をかきむしった。
――これが、去年の12月19日の朝の出来事。
朝もやがかかった晴れわたる朝の出来事。
ヒトミ……
ごめん。
ごめんよ。
今になって、毎日のように後悔してるんだ。
やっぱり、俺が止めていれば。
怒鳴りつけてでも、殴ってでも止めていれば。
刑事の勘を信じていれば。
ごめん。
ごめんよ。
お兄ちゃんはな、寂しいんだよ。
お前がいなくなって本当に寂しいんだよ。
父さんと母さんを交通事故で亡くしてから、お前をずっと守ってきたのに。
まだ、お前が幼かった頃から、ずっとずっと必死で守って生きてきたのに。
なのに……どうして、お前は……
どうして。
どうして。
どうして。
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