エピソード2【トンボとなめくじ】①
――あれは、去年の12月19日。
穏やかな晴天だったが気温が低く、吐く息がすぐに白くなるような、すごく寒い日だった。
「じゃあ、お兄ちゃん、行ってきます」
長めのマフラーをぐるぐるっと首に巻きつけたヒトミは、大きなバッグを持って朝早くに出かけようとしていた。
そう。
例の、あのイベント。
お手玉クラブ『タマタマクルリン』の合宿に行くためだ。
数日前に『行ってきていいよ』という約束をしたから、普通なら笑顔で『行ってらっしゃい』と言うところ。
でも、俺は言えなかった。
どうしても言えなかった。
なぜかというと、それは夢を見たから。
なんだか、悪い予感がする夢を見たからなんだ。
「なあ、ヒトミ」
俺はパジャマ姿のまま、コーヒーを片手に尋ねた。
「合宿なんだけど……やめるわけにはいかないのか?」
「え?」
ヒトミは目を丸くして驚いた。
「どうして?」
「いや……なんだか、夢見が悪くてね」
「ふうん」
ヒトミは首を傾げながら言った。
「どんな夢を見たの?」
「いや、その……」
俺は、コーヒーをそっとテーブルに置き、小さくつぶやいた。
「トンボとなめくじが……」
「え?」
「一緒に遊んでる夢なんだけど……」
「トンボとなめくじ? 何それ?」
「いや、だから……」
「アハハハ! お兄ちゃん、面白い~!」
ヒトミは、ケタケタと笑い始めた。
当然だ。
トンボやなめくじが夢に出たぐらいじゃ、何の理由にもならない。
でも、俺は何かの本で昔、見たことがあった。
西洋では、トンボやなめくじは不吉な生き物らしい。
だから。
だからなんだ。
そのことが、やたら頭に引っかかっていた。
片方だけならまだしも、両方いっぺんに夢に現れたんだから。
私はトンボだよ。よろしく。
私はなめくじだよ。よろしく。
と、夢の中で丁寧な自己紹介をしてきたんだ。
だから。
だからなんだ。
朝起きてからずっとずっとその夢が、俺の頭から離れなかった。
でも、そんな説得力のない出来事だけで、ヒトミが到底、納得するわけがなかった。
「あのね、お兄ちゃん」
ヒトミは、馬鹿にしたように笑いながら言った。
「そんなことで旅行をやめるわけないじゃない。ずっと楽しみにしてたんだよ」
「いや、でも……」
「何?」
「い、いや……」
あぁ。
どうしよう。
どうしたらいいんだ。
俺は、言葉が出てこなかった。
確かに、そんな夢だけじゃ理由として弱すぎる。
それは、俺にもよく分かっていた。
分かってる。
分かってるさ。
だが、俺にも譲れないものがある。
それは、刑事の勘。
古いと言われるかもしれないが、俺は自分の刑事としての勘を信じていた。
その勘が、ずっと俺の頭の中に訴えかけてくる。
止めろ。
止めろ。
旅行に行くのを止めろ。
そう強く訴えかけてくる。
だから。
だからだ。
俺は1つの決断をした。
それは、自分の勘を信じるということ。
ヒトミに嫌われてもいい。
土下座して頼み込んでもいい。
旅行に行くのを中止にさせよう。
俺の頭の中には、もうその考えしかなかった。
「とにかく」
俺はヒトミの両肩をつかんで、真剣な眼差しで言った。
「旅行はやめてくれ。悪いことが起きる予感がするんだ……だから、やめてくれ」
俺は懇願しながら、さりげなくヒトミのカバンを奪い取ろうとした。
分かってくれ。
お兄ちゃんの気持ちを分かってくれ。
そういう気持ちを精一杯込めて、ヒトミの心に話しかけていた。
だが、やはり説得力のなさからか、俺の気持ちは全く届かなかった。
「ちょっと、やめてよ!」
ヒトミはマフラーをほどきながら、怒りをあらわにし始めた。
「何なのよ!」
ヒトミは言った。
「何で、そんなに合宿の邪魔をするのよ!」
「何でもいいから中止にしてくれ! 分かってくれ!」
俺も、少し熱くなり始める。
「とにかく今日はやめよう! 合宿なんて、いつでも行けるんだからさ!」
「ダメよ! 来年は大学受験で、部活の合宿している暇がなくなるんだから!」
「頼むよ!」
俺は険しい顔を浮かべ、大声で叫んだ。
「今度、お兄ちゃんが温泉にでも連れてってやるから!」
だから、と俺は言った。
「合宿なんか行くなよ!」
俺は必死だった。
絶対、行かせない。
どんな手を使ってでも行かせない。
もう、そういう思いしか持っていなかった。
――すると。
「あっ……」
あんなに怒っていたヒトミが、急にクスクスと笑い始めた。
「分かった。寂しいんでしょう。私がいなくなるのが」
「ヒトミ……」
俺は、すかさず軽く首を横に振る。
「そんなんじゃない。夢でトンボとなめくじが出たからだって言ってるだろ」
俺は、うつむき加減でそっけなく答えた。
あぁ。
今思えば、この対応が一番いけなかったんだろうな。
この時の俺は、ヒトミの気持ちに全く気づいていなかった。
トンボとなめくじが悪い出来事を予言する生き物だと、正確に伝えることしか頭になかった。
だから。
だからなんだ。
『寂しいんでしょう?』と聞かれたのに、愛想なく『そんなんじゃない』と言ってしまった。
それは、何の温もりもない言葉。
それは、妹に対する愛情が全くこもっていない言葉。
ヒトミは本当なら『俺は寂しいんだよ』って言って欲しかったんだろうな。
でも俺は、そんな気持ちには全く気がつかなかったよ。
だからだろう。
そのことが、ヒトミの怒りに再び火をつけたようだ。
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