エピソード1【不思議な椅子】③
「では、こちらにお名前と必要事項のご記入をお願いします」
「はいよ」
男は、名簿に記入をし始める。
俺は、書いている向かい側から、ちらちらと覗き見をして内容を確認。
名前は……岡本さんか。
年齢は……38歳。
職業は……公務員…………
へえ。
わりと固い職業の人なんだな。
見た目から想像すると、トラック運転手とかとび職って感じだけどな。
本当に、人は見た目では分からないもんだ。
俺は、そう思わずにはいられなかった。
「ご記入ありがとうございます。では、ご案内いたします」
俺はもう1度、丁寧にお辞儀をする。
ふう。
我ながら接客が初めてにしては、なかなかうまくできていると思う。
どうやら、この短時間でも少しは慣れたようだ。
ひょっとしたら、この仕事に向いているのかもしれない。
うん。
おそらく、そうかもしれないな。
「では岡本さん、こちらへどうぞ」
俺は、とりあえず部屋に案内しようとした。
実はついさっき、宿泊名簿を書いてもらっている時に、オーナーが俺の耳元で『201号室に連れてって』と言ってきた。
それぐらい自分で伝えてくれよと思いながらも、オーナーのテンパリ具合を考えたらその些細な事すら期待できないのは明らか。
ということで、俺は2階の部屋へ岡本さんをエスコートすることに。
――すると、その時。
ガチャ。
「お~い、部屋はあいてるか?」
暗くなり始めた神秘的な雪景色の中、ドアが開き1人の男性が入ってきた。
俺はすぐに分かった。
『部屋はあいてるか』と言ったことから、その男性がお客だということに。
男の風貌は、短髪で色黒の筋肉質。
身長は165センチほどだが、かなりのマッチョ。
趣味は筋トレじゃないのか?
そう思わせるような雰囲気をかもし出していた。
しかし、すごい!
すごいぞ!
1日に、しかもこの短時間で2人なんて、このペンションにとってはまさに奇跡だ。
看板の威力はすごい。
俺は、そう思わずにはいられなかった。
「このペンション、安いよな。さすがに予約無しじゃ無理か?」
筋肉質の男は、ぶっきらぼうに尋ねてくる。
そうだった。
1泊3食つきで2000円。
この安さが、お客をひきつける1番の要因だろう。
だが、こんな値段設定じゃ、お客が来るたびにこのペンションは財政が苦しくなるんじゃないのか?
繁盛すればするほど経営が悪化するというのもおかしな話だ。
でも、まあ、いいか。
俺はただのバイトなんだから、与えられた仕事をするまでだ。
よし。
とにかく、早くエスコートをしなくては。
「お客様、予約が無くても大丈夫ですよ」
俺は、少し慣れ始めた接客用の笑顔で言った。
「お部屋は、まだ空きがございますので」
「そうか。それは助かった」
筋肉質の男は、少し口角を吊り上げ、安堵の表情を浮かべた。
「山に登るのが趣味でここまで来たんだが、ちょと道に迷って困ってたんだ」
「そうだったんですか」
「あっ、そういえば……」
男は、思い出したように言った。
「来る途中にキツネを見かけたな。野生のキツネなんて、初めて見たぞ」
「そうなんですか」
俺は再び『待ってました』とばかりに自慢げに言った。
「この辺りは、色んな動物がよく出没するんですよ。明日は、違う動物が見れるかもしれませんよ」
「そうか。それは楽しみだ」
男は、嬉しそうに笑みを浮かべた。
山登りが趣味ということは、おそらく動物にも興味があるのだろう。
だから、自然に今のような笑顔がこぼれたんだろうな。
俺は、そう思わずにはいられなかった。
そして、さっきの岡本さんもそうだったが、どうやら野生の動物が見れるというのは、かなりポイントが高いようだ。
俺は1年もここに住んでいてすっかり慣れてしまったが、確かにお客さん側からしたら珍しいんだろうな。
よし。
看板に、新しく付け足そうかな。
『かわいい野生動物に会えるペンション』
という感じの文章なんかどうだろう。
うん。
我ながら、なかなかいいんじゃないかな。
このペンションのキャッチフレーズになるんじゃないかな。
おっと、そんなことを考える前に、早く宿泊名簿に記入してもらわなきゃな。
「では、お客様」
俺はお辞儀をしながら言った。
「こちらに必要事項をご記入ください」
「オッケー」
筋肉質の男は、名簿に記入し始めた。
そして俺はさっきのように、またちらちらと覗き見を開始した。
え~と、名前は……武藤谷……
へえ~。
『むとうや』さんと呼ぶのか。
年齢は……40歳。
職業は……
え??
会社経営!?
うわっ!
すごい!
この人は、ビジネスの才能がある人なんだ。
第一印象は、格闘家やアスリートみたいなのに。
やはり、人は見た目では分からない。
俺は、そう思わずにはいられなかった。
「ご記入ありがとうございました」
宿泊名簿を受け取った俺は、慣れた角度でペコリとお辞儀をする。
「では、お部屋は2階の202号室になります」
もちろん、この部屋割りも、ついさっきオーナーが俺に耳打ちしてきた。
いったい、オーナーはこれから先、どうやってペンション経営をしていくつもりなんだろう。
とりあえず、接客の基礎を早急に勉強する必要があると思うが。
まあ、いいか。
経営者に対して、下っ端バイトの俺が口を出すことでもないしな。
まあ、なんとかなるだろう。
でも、我ながら、今の一連の流れは完璧な接客だ。
これからもっと経験を詰めば、ペンションの従業員としてひろこちゃんのレベルに到達できるんじゃないだろうか。
俺は少し天狗になりながら、そんなことを考えていた。
すると、その時、岡本さんが、
「しっかし、今日はほんま疲れたわ。1日中歩き回って足が棒のようや」
そう言うと、
「よいしょっと」
ストン――
近くに置いている椅子に、おもむろに腰をかけた。
椅子に座ると、岡本さんは背もたれに体を預けて『フ~』と気持ちよさそうに息を吐き出した。
ああ、そうか。
かなり疲れてるんだな。
しまった。
お茶菓子でも用意しておくべきだったな。
うん。
次からはそうしよう。
お客様をロビーで出迎える時は、お茶やおしぼりなども用意して精一杯もてなそう。
そんな感じで、俺はペンションの従業員として、今回の反省と次からの改善点を見出していた。
――すると、その時!
「あっ! 椅子に座った!」
え!?
どうしたんだ!?
バッ――!!
俺は、慌てて後ろを振り返った。
なぜなら、俺の背後にいたオーナーがいきなり大声を張り上げたからだ。
しかも、椅子を指差したままブルブル震え、目を大きく見開いて驚いている。
大きな驚き。
かなり大きな驚きだ。
いったい、何を驚いているんだ?
俺には、オーナーの驚きの表情が全く理解出来なかった。
「ど、どうしたんですか??」
俺はオーナーの肩をポンポンと叩いた。
そして、まさにその瞬間だった。
「う、うう…………」
え!?
え!? え!?
バッ――!!
俺は、再び体の向きを慌てて180度ひるがえした。
なぜなら、椅子に座っている岡本さんの様子がおかしい。
頭を抱え小さなうめき声をあげ、誰の目にも異変が感じられていた。
「お、岡本さん、大丈夫ですか??」
俺は、今度は岡本さんの肩をポンポンと軽く叩いた。
すると岡本さんは、俺を気にかけることなく、
「あぁぁぁぁぁぁ~~~!!!!!!!」
勢いよく両手で天を仰ぎ、
「ケッ!!!!」
と、怒り顔で喋り始めた。
「なんやここは!! 無茶苦茶なペンションやないか!!!!」
え!?
「ほんま2千円やなかったら絶対泊まってへんわ!! オーナーもあほそうやし!!!!」
う、うわっ。
すごいことを言ってる、この人。
いきなり大声で不満をぶちまけ始めたぞ。
岡本さんの怒りの声は、もの凄くハラハラドキドキしてしまう内容だった。
俺は、その場から一歩も動けないまま、オーナーを横目でチラッと見た。
もちろん、オーナーもその場から動けず、ただ立ち尽くしていた。
だが、その顔は少しムッとしていた。
やはり少なからず、悪口を言われていることに対して、腹立たしさがあったのだろう。
ということは、オーナーもプライドを持ってこのペンションを経営しているということだろうか?
いや、今はそんなことはどうでもいい。
問題なのは、すっかり和やかになっていた岡本さんが、なぜいきなり怒り始めたのかということだ。
分からない。
全く分からない。
俺は、自分の脳みそをフル回転させて考えても、全く今の状況が飲み込めなかった。
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