エピソード1【不思議な椅子】②
「あ、あの……」
「あ!?」
「いや、その……」
「なんや!?」
「い、いえ…………」
…………
俺は、そのままゆっくりうつむき黙り込んでしまった。
あぁ、まいった。
まいった、まいった。
誠心誠意の気持ちを込めた謝罪の仕方がよく分からない。
もちろんオーナーも俺と同じ、いやそれ以上だから、頼るわけにはいかない。
まいった。
まいった。
もう、どうすりゃいいんだよ。
地獄の淵に追いやられるとは、まさにこういうことだ。
まるで、目の前も背後も高い高い崖の上のよう。
もう、どこにも逃げ場所はない。
困った。
困ったぞ。
う~ん、やっぱり、もうこれしかないか。
とにかく、このお客さんの怒りが治まるまで、何と言われようがじっと耐えよう。
そうだよ。
どう考えても、これしか方法がないや。
そう思い覚悟を決め、グッと唇を噛み締めたその時、
「お客様、失礼いたしました」
天使のような救いの言葉が、俺の耳に煌びやかに飛び込んできた。
「申し訳ございません。この2人の無礼を心よりお詫び申し上げます」
さっそうとロビーにやってきて、深々と頭を下げるこの女性は、ここの従業員、ひろこちゃん。
知的なオーラを漂わせる雰囲気。
まだ22歳だが、ちゃんとしたホテル専門学校を卒業し、2年前からこのペンションで働いている。
ということで、年は下だが、仕事上は俺の先輩だ。
「実はですね……」
ひろこちゃんは申し訳なさそうな顔を浮かべ、さらに男に対して、ゆっくりと語りかけ始めた。
「当ペンションは開業以来10年間、1人もお客様はお見えになられていませんので、その対応に慣れていないんです。本当に申し訳ございませんでした」
ひろこちゃんは、もう1度、深々と頭を下げた。
俺は、その一連の流れを食い入るように眺めていた。
なんて! なんて完璧な謝罪と説明なんだ!
俺には到底、真似できない!
これが、接客というものか!
ひろこちゃん…………グッジョブ!!!!
俺は今のお手本を忘れないように、何回も繰り返し頭の中で復習していた。
そして、コートの男も俺と同じようにその説明にひきつけられ、じっくりと耳を傾けていた。
だが、俺は何か違和感を感じていた。
というのは、男はひどく驚いているようだ。
「ちょ、ちょっと、1つ聞いてええか……このペンションって……10年間、客が1人も来てないんか??」
男は両手を広げ上下に動かし、ひどく取り乱していた。
なるほど。
うん、うん。
確かに、それは気になるだろうな。
どうも、俺はここに長く居るせいか麻痺してしまって、客が来ないことに慣れてしまった。
だが、普通に考えればおかしいに決まってる。
いや、おかしいを通り越して、怪しいペンションと思われ始めている可能性があるな。
だが、ひろこちゃんは、男のうろたえる姿を全く気にすることなく、
「はい、その通りです」
と、満面の笑顔で話を続けた。
「だから、お客様は記念すべき人です。おめでとうございます」
「い、いやいや、ていうかな……」
コートの男は、さらに不思議そうに言った。
「なんで、今まで1人も来んかったんや?? そんなこと普通ないやろ??」
男は腕を組み首を左右にかしげ、このペンションに興味津々になっていた。
もちろんそれは、俺も大いに気になるところ。
いくら客が来ないことに慣れてしまった俺でも、この男の驚きはよく理解できる。
というのは、正直、10年間も客が来ていないというのは、俺も今初めて知ったからだ。
10年間、客が1人も来ない……普通のペンションなら、とうの昔に潰れているのは確実だ。
だが、さらに気になるのは、なぜ今日、いきなり客が来たのかということだ。
そっちのほうが、より気になるところだ。
すると、コートの男と俺の頭上に浮かぶクエッションマークを敏感に感じ取ったのだろうか。
ひろこちゃんは『コホン』とわざとらしく咳払いをすると、
「実はですね」
と、自信満々に喋り始めた。
「今までお客様が来なかったのは、看板がかかっていなかったからです。ということで、今朝早くに看板を取り付けたのでございます」
え?
看板?
確かに、このペンションの看板なんか見たこともない。
そうなの!?
ついに取り付けたの!?
まじか!?
それは、まじなのか!?
ダダッ――
俺は小走りで急いでドアを開け、外を確認。
「どこにあるんだろう……」
ちらほらと舞い落ちる雪の中を、首をキョロキョロと動かしてみた。
すると、
「あっ!」
あった!
ちょうど、ドアの真上。
確かに『ペンションさくら』と書かれた立派で大きな看板が掲げられていた。
さらに、ご丁寧に料金表示までしてある。
そういえば、俺は従業員でありながら、このペンションの値段設定すら知らなかったな。
いったい、いくらなんだろう?
俺は、看板に書かれた内容をじっくりと確認。
「え!?」
はぁぁぁぁぁぁ~~~~~!!!!????
その瞬間、俺の目玉がびよーんと飛び出しそうになった。
『1泊3食つき、2000円』
…………安い。
安すぎる。
ありえない安さだ。
さすが、世間しらずのボンボンオーナー。
利益を上げようとか、原価や人件費を考えた上での値段設定じゃないことは、誰の目にも一目瞭然だった。
これは、これから先、客が押し寄せるに違いない。
忙しくなりそうだ。
本気で接客の勉強をしなければ。
俺は、そう思わずにはいられなかった。
そして、ひろこちゃんはオーナーの手をギュッと握りしめ、
「ねっ、オーナー♪」
と、その場で円を描くようにスキップをしながら、胸の高揚を表し始めた。
「だから言ったでしょう。看板を取り付けるべきだって。ついにお客様がいらしたじゃありませんか」
「ほ、ほんとだね~」
オーナーはエプロンで眼鏡を何回も拭きながら、目をパチクリパチクリ動かしていた。
客が来たことに対して、まだ信じられないといった感じだ。
そして、そのやりとりを眺めていたコートの男は、
「ちょ、ちょ、ちょっと待て!! も、もしかして、今まで看板を設置してなかったんか??」
と、今日1番の慌てっぷりで尋ねてくる。
うん。分かる。
分かるよ、その気持ち。
俺は、男の気持ちがよく分かる。
普通、看板を設置しない店というのは、穴場的存在の知る人ぞ知る人気店ということになる。
誰も知らない店で宣伝も何もなく、見た目もいたって普通だと、それはただの『家』である。
例えて言えば、パンを買って食べてみたら、
『うわっ! 中に白アンが入ってる! 袋には何も書いてなかったのに!』
ということである。
要するに、最低限のことは表示しなくてはいけないということ。
『ここはペンションですよ~』とアピールする必要がある。
まっ、そういうことだ。
そして、男の『なぜ看板をつけなかったのか』という疑問に答えたのは、やはりしっかり者のひろこちゃんだった。
「当ペンションはオーナーのこだわりで、開業以来1度も看板を取り付けていなかったのです」
なぜなら、と、ひろこちゃんは言った。
「自然と調和したログハウス風の外観が汚れるからという考えでそうなったのです」
へ~、なるほど。
そんな理由があったのか。
だが、聞こえはかっこいいが、経営者としては大失格だ。
さすがは、金だけはあるスーパー箱入りオーナー。
確実に何も考えていないのだろう。
続けて俺は、さらにひろこちゃんの言葉に耳を傾けた。
「ですが、ここは、やはりペンション……お客様が大勢押し寄せてこそ、この建物は喜ぶというもの……」
そこで、と、ひろこちゃんは言った。
「考えに考えた結果、試験的に、つい先日から『ペンションさくら』という看板を取り付けたのでございますのよ。オホホホホホ~~~」
オホホホホホ~~~~~~~ホホ~~~……ホホ~~~~……
ひろこちゃんの意味の分からない上品な高笑いが、しばらくあたり一面にこだましていた。
おそらく、これは高等テクニック。
お客様を和ますためのテクニックに違いない。
俺は、そう思わずにはいられなかった。
そして、その横でオーナーは、ひたすら愛想笑いをするばかり。
全く。
どっちがオーナーで、どっちが従業員か分かりゃしない。
俺は、そう思わずにはいられなかった。
そしてコートの男は、
「ハア~……」
がっくりと肩を落とし、ため息を吐き出した。
「お前らは、看板も上げずに客商売をしとったんか。俺もえらい所へ来てもうたもんやわ」
ガックシ――
男は、頭を抱えて呆れ顔を浮かべていた。
おそらく、それは後悔によって引き出された表情。
『なぜ、俺はこんな所に来てしまったんだ』と自分を責めているようにも感じ取れた。
ま、まずいな。
うん、これはまずい。
このペンションの印象が、さらに悪くなり始めてるな。
とにかく、一生懸命もてなさなくては。それが、今の俺に唯一できることだ。
「あ、あの!」
俺は慌てて精一杯の笑顔を作り、慣れない接客をし始める。
「お、おカバンお持ちします。本日、お泊りでよろしいですよね?」
「そやな……」
男は、下を向き腕を組みながら言った。
「まあ……このペンション大丈夫なんやろかっていう若干の不安はあるが……もう日も暮れるし、今から山を下るのも大変やしな……」
「そ、そうですよね」
「あっ、そうや」
男はポンと手を叩き、思い出したように言った。
「ここに来る途中に、タヌキに会ったで。この辺って、野生の動物、けっこうおるんか?」
「はい!」
俺は『待ってました』とばかりに答えた。
「他にも、キツネや鹿なんかもいますよ。たまに、ふもとの町や道路に顔を出すこともあるんです」
「へえ~、そりゃ、ほんまええとこやな。ほな、明日は鹿が見てみたいな」
「ハハ。運がよければ見れますよ」
「まあ、とりあえず、今日と明日、よろしく頼むわ」
「ありがとうございます!」
俺は、地面に頭がつきそうなほど、深々とお辞儀をした。
ホッ。
とりあえず、泊まってくれるっぽいな。
すっかり、機嫌は直っているようだし。
良かった、良かった。
せっかく、こんな所まで来てくれたのに、嫌な思いをさせたんじゃ申し訳ないしな。
じゃあ、さっそく、宿泊の手続きをしなくちゃな。
俺は、ロビーの奥にあるミニカウンターの引き出しから、宿泊名簿を取り出した。
もちろん、この宿泊名簿に触ることも初めての経験だ。
置き場所を忘れてなかったのが、奇跡のように感じてしまうから不思議で仕方がない。
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