エピソード1【不思議な椅子】①
ヒトミがいなくなってから1年後。
刑事を辞めた俺は『ペンションさくら』というところで働いていた。
山の上にそびえ立つそのペンションは、2階建てでメルヘンチックなログハウス風の建物。
ちなみに山には、鹿やキツネやタヌキなんかも、うろちょろしている。
まあ、たまに、道路や町に下りてくるおちゃめな動物もいるが、そこはご愛嬌と言ったところ。
そして、山のふもとには、コンビニが1軒だけ。
自然に囲まれたとてもいい所だ。
さぞかし、休日は人でごったがえすんだろうなと、働き出した当初はそう思っていた。
だが、この1年間、客は1人も来ていない。
原因はいたって簡単。
看板を出していないから。
見た目は、普通の別荘のよう。
もちろん、ペンションの宣伝なんか何もしていない。
客が来なくて当たり前だった。
実は、ここのオーナーが、親の莫大な遺産で経営しているペンション。
つまり、趣味でやっている道楽。
だから、別に客が来なくても構わない。
ただ単に、夢だったペンション経営をしてみたい……オーナーにとっては、それぐらいのものだった。
「あっ、雪だ」
午後5時15分――
俺はホウキでロビーの掃除をしながら、窓の外の粉雪に目を奪われていた。
まだ降り始めたばかりの雪は、小さくゆらゆらと落下し、地面を真っ白に変えようと頑張っている。
早く、きらびやかな白い世界に変えてくれよ。
俺は、生まれたての小さな白い妖精たちに向かって、ささやかなエールを贈っていた。
そして、俺は雪たちのダンスをしばらく見つめたあと、壁にかけてあるカレンダーに、チラッと目をやった。
「今日は12月25日か……」
そう。
今日はクリスマス。
俺にとっては、両親が亡くなった忘れられない大事な日だ。
「父さん……母さん……」
手に持ったホウキを、そっと壁に立てかけたあと、少しの間、掃除はストップ。
ゆらゆらと流れ落ちている真っ白な冬の妖精たちを眺め、両親との楽しかった思い出に浸っていた。
ごめんね、父さん、母さん。
大事な日なのに、家にいてあげられなくてごめんね。
ごめんね。
ごめんね。
心の中で、ずっとずっと、そうつぶやいていた。
――すると、その時。
ガチャ。
「すんません。部屋あいてまっか?」
え?
え? え??
俺は一瞬で、かの有名なメデューサに睨まれたごとく石化してしまった。
なぜなら、お客がやってきたからだ。
ドアを開けて入ってきたのは、黒いトレンチコートを着た男。
よれよれのグレーの帽子もかぶっている。
独特の関西弁が耳につき、お世辞にも男前とは言えない。
唇のぶ厚い、顔面偏差値の低い男だった。
し、しかし、本当にびっくりだ。
このペンションで働きだしてから、初めてのお客さんだ。
よ、よし! さっそく、お出迎えをしなければ!
「あ、あ、あの、、、」
俺は言った。
「こ、こちらに、に……」
…………って!
や、やばい!
やばい、やばい!
どうしよう。
一瞬でテンパってしまった。
当然だ。
初めての客なんだから。
しかも、俺の前職は刑事。
接客業なんかやったことはないし、何を喋っていいかも分からない。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
時間にしてわずか数秒だが、俺がひたすら困り果てていると、
「なあ、せやから、部屋あいてまっか?」
男は、顎の下の無精ひげを掻きながら、さらに尋ねてきた。
そしてその言葉を聞いたことによって、俺の緊張は早くも完全なるピークに達した。
も、もう限界だ。
このお客を接客する自信が全くない。
早く、早く、助けを呼ばなければ。
「オ、オーナー!」
俺は慌てて叫んだ。
「オーナー! お客様ですよ!」
俺は、精一杯の声を張り上げた。
すると奥の部屋から、このペンションの主人、鈴木オーナーが陽気に小走りでやってきた。
「いらっしゃいまっせ~!」
オーナーは、満面の笑みを浮かべ、手を広げながら言った。
「クリスマスの今日のこの良き日に、ようこそ『ペンションさくら』へ! 私がオーナーの鈴木で~す!」
オーナーは、年は35歳。
見た目はメガネをかけていて、笑顔の素晴らしい韓国俳優のよう。
完璧に、1人息子で甘やかされて育ってきたボンボンだ。
だが、さすがはオーナー。
やはり、接客業は慣れている。
素晴らしい、素晴らしいぞ、オーナー。
俺は、輝きを放つオーナーの後姿を、尊敬の眼差しで眺めていた。
――しかし。
「斉藤ちゃん、斉藤ちゃん」
「何ですか?」
「あのね……」
オーナーがクルッと振り返り、俺の耳元に小声で尋ねてくる。
「この人は、何の用でここに居るの?」
「は、はい……?」
ん? どういうことだ?
オーナーは、新聞の勧誘かなんかと思っているのか?
ん~……分からない。
オーナーの頭の中が分からない。
「い、いや、あの……」
俺は少し不思議に思いながらも、小声で丁寧に説明する。
「あちらの方はお客様ですよ。今日、宿泊したいっておっしゃってます」
「え……?」
オ、オーナー?
「……」
「あ、あの……」
な、何だ?
何だ、何だ??
オーナーの顔が、一瞬で青ざめていくぞ。
まるで、特上の青いペンキで塗られていくように、どんどん顔面蒼白になっていく。
分からない。
全く意味が分からないぞ。
俺は首を傾げながら、今の状況がどういうことなのか整理し始めていた。
すると、そんな俺とオーナーに向かって、
「なあ、せやから、部屋はあいてんのかって聞いてるんやけどね」
黒いコートの男は、再び尋ねてきた。
「どうなんや?」
「しょ、少々、お待ちを、、、、、」
ど、どうしよう!
どうしよう、どうしよう!
「オーナー! 早く接客をお願いします!!」
俺は、メガネ韓国俳優の肩を揺すりながら、耳元に小声で必死に訴えた。
――すると。
「あ……あ……」
オーナーの顔は、緊張でカチコチに固まり始めた。
もう、鈴虫ほどの小さな声すら出せる状態ではない。
誰の目から見ても、その異変は明らか。
まるで頭の上から接着剤をドバッとかけられたように、その場から1ミリも動けなくなっていた。
「オ、オーナー……?」
俺は、なんだか嫌な予感がした。
背筋が凍りつくような気持ちの悪い悪寒がゾクゾクッと走った。
そして、その予感は現実のものとなる。
「あ、あにゃにゃにゃ!!!!」
いきなり、オーナーの口からとんでもない言葉が飛び出し始めた。
「あ、あにょ、お、おへにゃ、は、は、へ、へ、へ……あ、あ、あい……あい~~~ん…………」
……っな!
「あ、あい、あい、にょ、にゃゃゃゃゃ~~~~~」
でえぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~!!
引くぐらい超緊張してるぅぅぅぅ~~~~~~~~!!!!!!
どうやらオーナーは、俺以上に接客に対して恐怖心を持っていたようだ。
しかし、ひどい! いや、ひどすぎる!
俺は自分の目を疑った。
オーナーなんだから、もちろん接客のプロだと思っていたが、違う意味で予想を大きく超えていた。
ひどい。ひどすぎる。
さっき注いだ、尊敬の眼差しを返して欲しい。
俺は、目のやり場に困りしどろもどろになっているオーナーを見ながら、本気でそう思っていた。
そして、完全にパニックになったオーナーに、険しい視線を送りながらコートの男は、
「なめとんのか! おんどれらは!」
と大声で怒りを爆発し始めた。
ま、まずい、ついに怒り出した。
いや、待てよ、そうなるのも当たり前か。
だって従業員2人ともが、接客能力ゼロなんだから。
逆に言えば、よく我慢してくれたほうかもしれない。
と、とりあえず謝らなくては!!
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