第5話 幼なじみ アナスタシア伯爵夫人の話


 幼い頃の彼は、とても泣き虫でしたの。

 今の彼からは想像できないでしょう?

 早々に王宮官吏に取り立てられ、仕事をこなす、出世間近とも言われるエリートが、泣き虫だなんて。

 そうですわね、昔に比べれば、随分と大人しくなってしまいましたわ。

 同時に、とても面倒な人間になった。

 恋は盲目……言い得て妙ね。笑ってしまうほどに。


 わたくしは、アナスタシア・バークリー。伯爵夫人ですわ。

 生家の屋敷が近かったこともあって、彼――ジョセフとは幼馴染みのような関係にあります。


 ジョセフの両親である、コール夫妻を表す言葉を一つ上げるなら、「対立」という一言が一番よく当てはまるのでしょう。

 二人は屋敷の中で顔を合わせることもなく、ひたすらお互いの存在を無いものとしておりました。

 その殺伐とした夫妻関係が撒き散らす重苦しい空気に、幼いジョセフは耐えられなかったのです。


 一人の愛人を寵愛し、奥方に目も向けないコール子爵。

 その事実に気付かないふりをしたまま、それでも振り向いてもらおうと死に物狂いで息子たちに教育を施すコール夫人。


 二人はきっと、不幸だったのでしょう。


 ジョセフが少年になった頃。視察のために領地へと赴く道すがら、二人を乗せた馬車は崖の底に吸い込まれ、戻ってくることはありませんでした。

 空の棺桶を前に、二人の息子は一筋の涙も流さないまま、無表情で送り出しました。


 泣き虫であったはずのジョセフは、その日から変わってしまいました。

 穏やかな笑みを張り付けた、壊れた人形へと成り下がったのです。

 家のためと働くその姿は、なにかに追われているようでした。

 ひたすらにどこかへ逃げようと、もがいているようでした。

 それでも正気を保つことができたのは、信念からなのか、義務感からなのか、それとも、他の何かがあったのか。

 わたくしには、分かりません。


 あなたもきっと、不幸なのでしょう。





 ジョセフ・コール子爵が、春を見つけたらしい。


 わたくしがその噂を聞いたのは、バークリー家の庭園に、美しいチューリップの花が咲いた頃。

 麗らかな春の日差しが降り注ぐ中、気難しそうに眉を寄せた夫――エリック様が紅茶の入ったカップを置いた。


「相手は、メリッサ・ウェイン男爵令嬢だそうだ」

「まあ、メリッサ様ですの?それはまた……難儀なんぎですわね」


 思わずわたくしも眉を寄せた。よりにもよって、ウェイン男爵令嬢……才色兼備の女性官吏とは……。


「これでまた派閥争いが加熱しそうなんだよ。王宮中がざわついていたよ。なんでも、水面下でアウラ侯爵令嬢との縁談が進んでいたらしくてね」

「まさかジョセフ様は、アウラ侯爵家との縁談を蹴って、ウェイン男爵令嬢を迎えようとなさっていると? ……なんて愚かな……」


 頭痛がする。



 貴族社会には派閥が存在する。そんなことは世の常だ。

 この国には大きく二つの派閥があり、均衡しながらも、お互いにいがみあっている。


 そのひとつは保守派である。

 国王陛下を敬い、お支えし、時には諌め、正しく国を導こうとする派閥だ。

 こちらに属する貴族には旧家が多く、歴史と誇りを胸に国に仕えようとする志を高く持っている。

 その中でもアウラ侯爵家は、保守派筆頭であるチャーチル公爵家に次ぐ強い力を持つ。

 ちなみに、わたくしの嫁いだバークリー家と、ジョセフが当主であるコール家もこちらに属している。


 そんな保守派と対立するのが、革新派である。

 こちらには、いわゆる成り上がりの新興貴族が多く、古くから続く政治体制を捨て、新たな未来のための、新しい体制を確立しようとする考えを持つ者が集っている。

 こちらに属し、最近めきめきと力を伸ばしてきたのがウェイン男爵家であり、娘すら王宮に送り込んだということで、革新派のみならず、保守派からも一目置かれるやり手である。


 さらに言えば、この中間に位置する中立派という派閥もあるのだが、こちらの勢力はそう強くはなく、保守派に限りなく近いところがある。

 その実、わたくしの生家も中立派に属してはいたが、ほとんど保守派であるかのように扱われていた。



 ここまで言えば、わたくしたち夫婦が眉を寄せた理由も分かろうというもの。


「いや、ウェイン男爵令嬢は、コール家には嫁ぐことはできないのではないかな」

「え?」


 顔を上げると、エリック様は庭園を見つめながら、重く口を開いた。


「ジョセフの叔父上が大変お怒りになっているそうだよ。急遽、隠居していた領地から馬を飛ばして来るらしい。……無理矢理にでも縁談を進めようとする気なんだろうね」

「ですが、保守派と革新派が手を結ぶという、友好としての縁談ということにはできませんの?派閥争いの緩和になりますわ」

「外聞としては成立するだろうが……子爵家としては旨みが無さすぎるんだよ」


 エリック様は ふう、と息を吐ついて、片手で目を覆った。


「彼の叔父上は当時、保守派の鑑とも呼ばれた人なのだよ? ウェイン男爵家は商人上がりの新興貴族だ。それだけでも旧家としての血を汚すつもりか、などと言って嫌がるだろう。それに加えて、メリッサ嬢は聡明だ。王宮に務め、ある程度のパイプも情報も持っている。保守派側の情報をみすみす渡すことにもなりかねない。さらに、唯一の旨みである 派閥争いの緩和も、叔父上にとっては嫌がらせ以外の何物でもない。……メリッサ嬢がコール家に入る利点など、ひとつもないんだよ」

「……わかっていますわ。貴族社会に政略結婚はつきもの。仕方のないことですわ」


 低い声でそう言うと、目元から手を外したエリック様がこちらに手を伸ばした。

 机の上で組んだ両手にそっと重ねて、緩く包み込む。


「その点、私は幸運だね。こうして愛しい人を迎えられた」


 にっこりと微笑む彼に見惚れる。

 頬がじんわりと熱を持つのが分かった。と同時に、わたくしの口元にも笑みが浮かぶ。


「その通りですわ……お慕いしております、エリック様」

「私も同じ気持ちだよ、シア」


 手を引かれ、エリック様の膝の上に座る。

 彼に体を預け、頭を肩に寄せた。

 足元が浮き立つような幸福と共に、胸の隅に巣くう不安を見つける。


 恐らく、これから一番辛い思いをするのは、彼女なのだろう。


 ジョセフ……どうか、愛を間違えないで。


 園には、綺麗な黄色のチューリップが、心許なさそうに揺れていた。





 嘘よ


 あの子が自殺だなんて、ありえないのよ


 あの子は愛されるべき人なのに


 これから愛を勝ち得るはずだったのに


 どうして


 どうして



 どうして?


 苦しいわ


 助けて


 痛いの


 駄目よ


 この子だけは


 この子だけは駄目よ!

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