「実は……、僕は記憶喪失なんです」

「…………それは、……いつごろからですか?」

 友希は少し、息を飲んで、真面目な顔になる。真也はそこまで真剣になられると逆に話しづらいと思ったが、彼女の配慮は嬉しかった。

「小学一年生になってすぐですから、もう随分前のことです。僕は病院で目を覚まして、その時には何も覚えていませんでした」

「何も……」

「正確には、日本語は覚えていました。リンゴは木から外れたら地面に落ちることも知っていましたし、その他も常識的なことは覚えていました。

 忘れてしまったのは僕が、僕じゃなかった頃の自分の性格や、目標、在り方、などなど。そういった……、なんというか物語のような部分だけです。身につけた技術や知識は完全に覚えていました」

 真也は思い出すように宙を見つめて話す。静かな川岸の道には真也の声の他に川を流れる水音と、時折吹く風が木々を揺らす音しか聞こえない。

「家族や友人などのことも完全に覚えていたんだそうです。目の前の人間が何という名前で、どのような人物で、自分とはどのような関係なのか。でも、その人物にどのような感情を抱いていたか、両親が、兄が、弟が、自分にとってどういう存在だったのかを覚えていなかったそうです」

 真也は両手を握りしめて、自分の膝を見つめながら話した。友希は真也の言葉に疑問を感じて尋ねる。

「そうです、ということは、そのことを覚えていないんですか?」

「はい。家族と、自分の意思で中途半端な記憶を封じる心象性魔導をかけてもらったらしくて、そのあとは綺麗さっぱり忘れていました。

 その後から始まったのが僕なんです。ただ、その後も時々記憶が消えることがあるんです。たぶん、その時は彼が目覚めているんだと思ってます」

「彼、ですか?」

 友希が尋ねた。友希は真也の方を見て、真也は自分の前の暗い道を見て話す。

「彼です。名前は知りませんし、どんな人物かもわからないですけど……、少なくとも僕のこの体で生きていたんですから、彼女ではなく彼ですね」

 もしトランスジェンダーでなければ、ですが、と真也は補足する。真也は少し笑みを浮かべたが、友希は笑えなかった。

「僕が意識を失ったとき、目が覚めるとたまに記憶が飛んでいたり、別の場所に移動していたりすることがあります。

 そのときは多分、僕の体の中に残ってる元自分が目覚めてるんでしょう」

 真也は横目で友希の顔を窺い見た。彼女は少し気まずそうに、しかしこの話題を曖昧にスルーしようとは考えていないようで、真剣な表情で悩んでいる。

 そんな友希を見て真也は心の蓋が少し開いたような気がした。

「……それが、それが時々怖いんです。どうしようもなく、恐ろしくなる。

 自分は誰なのかもわからない。体も他の誰かのものを奪って生きている。

 彼の家族も、友達も、誰もが僕のことを望んでない。みんな、僕を消したいんじゃないかってそう思えるんです」

「……、家族に会ったことは覚えてないんですよね?」

「ほとんどは。ただ、『何故私のことがわからないの?』とか、知らない名前で毎日毎日呼び続けられたり、そんなことは覚えてる」

 友希の辛そうな表情を見て、真也は口を閉ざそうとしたが、一度開いた口はなかなか閉じてはくれなかった。

「鏡を見るたびに、自分の姿を見るたびに、彼が自分を責めているような気がする。体を、僕の存在を返せって責められている気がする。

 でも、その方法もわからない。彼に体を返せるならそうしたい! 僕だって好きでここにいるわけじゃないんです!」

 真也は膝を見つめて叫ぶ。今まで何度も、何度も心の中で叫び、濃縮されていた言葉は、口に出すと少し楽になっていく気がして止められない。

「でも、本当は彼に返したくもない。僕だって、ここに生まれてここにいる。

 やりたいこともたくさんある。何より、僕は僕のことを……」

「……愛して欲しい?」

 言葉に詰まった真也の後を友希が補完する。しかし、真也は力なく首を横に振った。

「そこまでは望んでないですよ。せめて、憎まないで欲しい。僕が彼から存在を奪い取ったと思わないで欲しい。僕を否定して欲しくない。

 僕は誰かに僕を肯定して欲しい」

「真也さんは孤児院に家族がいると言っていましたよね? 彼らには少なくとも真也は特別な存在で、あなたを否定したりしないと思いますけど……」

 確かに、と真也は頷く。

「でも、僕は孤児院のみんなに本当のことを話していませんから。僕は親に捨てられてここに来たのではなく、親を失ってここに来たのでもなく、親を忘れてここに来たなんて言ってないんです。

 誰だって、僕が彼の人生を奪った上にある存在だと知ったら僕を認めてはくれない。だから、隠して、偽って、僕は僕だと嘘を吐いてきたんです」

 真也は言葉を吐き出して、顔を上げた。口元には自重気味な笑みが浮かんでいる。涙はない。真也は自分のために泣くこともしない。泣きたいのは彼の方だろうと、その彼に泣くこともさせずに自分に泣く資格はないと、そう思っているのだ。

「……、私は……、いや違います。これは同情です。きっと責任を持って言える言葉じゃないと思います。すみません。

 でも、言うだけ言います。私は、昔のあなたを知りません。彼を知らないんです。私は少なくとも、知らない誰かより、目の前の真也さんの方が大切です」

 友希は真也の顔を見てそう言った。

「でも、これは同情です。真也さんが可哀想だと思ってしまったから零した言葉にすぎません。

 ただ、一つ、言えるのは……。……どうしようもなく利己的な、自己中心的なことですが、真也さんは、今、私の身の上を嘘偽りなく話せる唯一の存在です。

 私はずっとそういう友人が欲しかったんです。

 父はいない。母は私を造った人間。上の兄は家を捨て、下の兄さんは母親に…………、すみません、忘れてください」

 真也の笑みは止まっていた。友希の話に聞き入ってしまう。

「とにかく、真也さんは私が今、唯一真実を話せる人です。

 今まで、ずっと小学校でも、中学でも、優香ちゃんにも、特寮のみんなにもずっと、ずっと秘密にしてきました。

 優香ちゃんのことを話してもらった時も、何も言えませんでした。それで、特寮にルールを作って、ずっと一人で秘密を抱えて…………」

「特寮のルール?」

 真也は、言葉に詰まって、震える両手を握りしめて何も言えなくなった友希に尋ねる。友希は少し、驚いたような顔になってから答えた。

「真也さんにはまだ教えてませんでしたね。特寮には私たちが作った鉄のルールがあるんです」

「鉄のルール……」

 真也は自重気味に笑いながら呟く友希の言葉を繰り返す。友希は頷いて言葉を続けた。

「はい。その人が指定した秘密には幾つかの例外を除いて開示することを求めない、ということです。

 私たち、六家、御三家と裏三家の人間は、一つ屋根の下で暮らしていくには秘密が多すぎます。

 いつか、どこかでボロが出る。でもそれに気づいたとしても互いにそのことについて言及しないことが特寮のルールなんです。

 私たちの代までは不文律だったのですが、私と優香ちゃんたちで成文化しました」

「つまり、優香や他の人にも詮索されたくない秘密があるということですか?」

「そうとも限らないでしょう。ただ、優香ちゃんはおそらく……。いえ、わかりません。でも、おそらくみんな何かの秘密を抱えていると思いますよ」

 友希は寂しそうに足を揺らす。そして真也の照れるように顔を真也の逆へ向けて言った。

「でも、私はそれが辛かったんです。ですから、真也さんに話せたときは本当にホッとしました。胸のつかえが取れた、という感じです。

 だから、真也さんには私にとって大切な人です。唯一私の秘密を知っていてくれる人。私が、罪悪感をもって接しなくていい唯一の人になったんですから。だから、いなくなられても、元の誰かの戻られても困ります」

 そんなひどく利己的な心情を友希は真也に吐露した。真也はやや複雑そうな、

でも嬉しそうに答える。

「僕も同じですね……。誰かに話したくても話せないのは辛いです。だからさっき友希さんに話したんだと思います」

 そして、真也は友希の方を見て笑顔で礼を言う。

「だから、なんであれ、友希さんの力になれてよかった。少なくとも僕は友希さんの秘密を知っている間はあなたにとって掛け替えのない存在でいられる。

 僕は僕がいる意味を見つけられます。だから……、ありがとう。友希さん」

 笑う彼の目から涙が一筋流れて彼の膝に滴った。

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