二章 付高入学式

 朝、真也の意識(魔導学における脳内意識領域の最下層に位置する第六識としての『意識』ではなく、哲学における自身が自身であると認識できるの意味)、意識が覚醒した時、彼は見知らぬ部屋の慣れないベッドで眠っていた。

 普段なら、こんな異様な状況では目が冴えるばかりで眠れなかっただろう。しかし、昨日の午後は普段の午後より、かなり充実しすぎていたせいか、目を開くのにはなかなかの意思力が必要だった。

 目を開くと、まず飛び込んできたのは人の顔だった。女性の顔だ。

 金色の絹きぬのような髪が、彼女の睡眠時特有のツインテールの右サイド、彼女から見ての左サイドが真也のほおの真下を通って、真也の顔の後ろへ伸びている。彼女の髪は一メートル以上もあるわけではないので、必然的に真也と向かい合わせに見られる彼女の美しい寝顔は、真也の顔から三十センチほどの位置にあった。

 真也は昨日の夜、入学式である四月一日の前日に特寮にやってきた。急な寮の変更だったせいで、真也の新しい部屋にまだ寝具が届いておらず、やむなく真也は共用ベッドルームなる部屋で女子二人と一夜を共にしたのである。

 いや、普段なら断固阻止したはずだった。しかし、昨夜の彼は本当に疲れきっていて、断る気力もなくベッドに伏してしまったのだ。魔導の、特に情報性魔導の弊害の一つは、脳と精神を酷使してしまうことだろう。

 座標演算や、照準などは人工知能に任せていても、結局、魔導というものは人間の脳から精神を通して世界を改変する技能なのだ。

 即、爆睡したことからもわかるように、あんなことやこんなことは一切なかった。とはいえ互いに三人とも年頃の男女であることは事実である。真也の顔が赤面するのも仕方のないことだと言えよう。

「ふむ。この状況、どうしたものか」

 しかし、真也は慌てふためいたりはしなかった。そして、深呼吸をして、ベッドを抜け出そうとする。同年代の女子がいつの間にかベッドにいるという状況は孤児院出身の彼にとって日常だった。今回はいつの間にかではなく、最初からだったが。

 そこで、初めて彼は自分の背中と胸を圧迫する二対、四つの圧迫感に気づいた。胸にあたるそれは圧迫感が強く、背にあたるそれはやや弱い。

 真也は目を閉じて、行動の指針を決めるべく、思考をフル回転させる。一番に浮かんだ選択肢はこのまま今感じている感触を楽しみ続けるというものだった。

 もう一度深呼吸をして真面目に考え直す。そこで真也は、その感触を懐かしいと感じている自分に気がついた。

 もちろん、真也にはそういった男女間の経験はおろか交際経験すらないし、事情より、母親のそれにも縁がない。真也は女性の胸部に触れた経験などないのだ。男女間の仲が良すぎた孤児院でも流石にボディタッチを故意に行ったことはない。

 しかし、彼は確かに、過去に今自分が胸と背に感じている感触を深く味わったことがあった。

「ふむ?」

 真也は顎に手を持っていこうとして、手を動かせば確実にアウトな気がして、手を止める。そして、真也は高校入試中なみの集中力で記憶の捜索を開始した。

 胸と背を圧迫する感覚を元に、記憶の海にダイブして、過去から該当する感覚を検索する。真也の頭に浮かんだのは、孤児院での魔術師の兄弟姉妹と行っていた護身用の魔術訓練だった。

 ハプニングで誰かの胸に当たったことがあったのだろうか、と真也はさらに記憶を探る。そして、ついに真也は真実に行き着いた。

 真也は自らの意思で優香の顔に自分の顔を寄せていく。同時に手を彼女の胸部へ向けて移動させた。

 一応言い訳のために目は瞑っている。見た感じはよりダメな方向に向かっていたが、真也はそれに気づかない。真也の手が感じる柔らかかった感触は、近づくにつれて徐々に硬くなっていき、真也の体が優香の体に触れる寸前で、それ以上先へは進まなくなった。顔の方も同様である。

「って、やっぱり【軟性障壁ソフト・シールド】かよ! ちくしょー」

 叫び声とともに真也は起き上がった。その姿は体の両サイドに寝間着姿の女子二人が寝ているために勝ち組のように見える。しかし、残念ながら、真也が先ほどまで味わっていた柔らかさは決して人肌が生み出したものではなかった。

 【軟性障壁】とは、保護対象に接近するにつれて徐々にその対象に速度を奪っていく魔術のことだ。この魔術は主に、魔術を用いた戦闘訓練において味方を傷つけられない時や、実弾が早すぎて自分の【物理障壁】の強度が足りない時、跳弾が発生するのを防ぎたい時などに使われる。

 真也が障壁に気付いたのは過去に何度も孤児院で行った、この魔術を用いた兄弟姉妹との魔術戦闘訓練のおかげだった。知らぬが仏、知らぬ方が幸福だと考えるなら、訓練のせいだったと言うべきなのかもしれない。

 因みにこの、【軟性障壁】は、通常の障壁魔術と違い、面ではなく空間を改変対象にした魔術に当たる。魔術は一般に点の改変よりも面の方が、面でよりも空間を改変する方が難しいとされる。

 つまり、【軟性障壁】は通常の障壁魔法より難易度が高いのだ。そのような魔術を、前五識がほぼ閉ざされている休眠状態で維持しているのは流石、御三家、裏三家の子女といえるだろう。

 もっとも、この時の真也は虚しさにメンタルをやられおり、そこまで考える余裕はなかったのだが。彼の胸と背にまだ心地よい感覚が残っている。今はそれが真也の虚しさを一層強くしていた。

「そりゃ、期待するわ! 女子と同じベッドで寝てたらな!」

 なおも叫ぶ真也の隣で、彼の声で目が覚めたのか優香が目をこすっていた。

「……おはよう。真也しんや、朝からハッスルしてるわね……」

「ぎょああぁぁぁぁぁあぁああ!?」

 眠そうなままで優香は真也に痛恨の一撃を放つ。真也の羞恥心は叫び声を聞かれていたことで臨界点を超えた。真也は耐えられなくなって部屋ら逃走する。

「むにゃ、お休み。眠い。本当、なんでだろう? 眠い」

 優香は寝ぼけた瞳を擦って、再びベッドに倒れこんだ。



 真也は部屋を出て早速道に迷っていた。特寮の廊下には見取り図がないのだ。

 昨夜の夜遅くに寮に入ってからまだ十二時間も経っていない。その内、真也が寝ていたのは二、三時間ほどだ。

 どうやら流石の優香でもバステトを常に現界させておくことはできないようで、彼女の黒いシルエットは見当たらない。ナビを失った真也は途方に暮れながら歩き続けた。

 特寮は洋風の建物だ。廊下の所々には有名な絵画や銅像の(恐らくは)レプリカが配置されており、さらに壁にも時々謎の紋章が描かれていたりする。

 真也は歩き疲れて、手近な部屋の中に入って椅子に腰掛けた。真也は昨夜、寝る前に、ネームプレートのかかっていない部屋は自由に出入りしていいという許可をもらっている。

 暗い室内で真也はカーテンを開き窓の外を見た。時刻は五時半。まだ外は薄暗い。L字をしているこの本館の庭では一人の青年が刀を振っていた。

 素振りではない。広い庭を縦横無尽に駆け回りながら仮想の敵と戦っているようだった。真也は視力がいい。真也の目は三階下の青年の右耳の上に装着されたブレフォンを捉えていた。

 ブレフォンを使えば本当に敵が現れる。ただ、そのまま人間を再現すると脳への負担が大きすぎるので、簡易化したモデルを使うのが普通だが。それでも手にかかる抵抗などを除けば、まるでゲームが現実になったかのような感覚でトレーニングできる。真也はそれを見つめながら、どうすれば下に行けるかを考えていた。

 日の出の時刻が過ぎ、徐々に日が昇り始める。陽光がカーテンの隙間から部屋の中へ薄く差し込んで来た。光はゆらゆらと部屋の中で揺れる。

 真也はそれを眺めていたが、やがて何かがおかしいことに気づいた。部屋の中の光が徐々に明るくなっているのだ。もちろん、日が昇れば明るくなるのは当たり前だが、微妙にそのスピードが速すぎた。

 真也は深呼吸をしてからカーテンを閉じた。否、閉じようとしたのだ。が、そこで背後から何者かにカーテンにかけた右手首を掴まれた。

 真也は部屋に入った時にドアを閉めている。開いた音はしなかったし、何より、彼の手首を掴んだ腕は透けていた。徐々にその手の力は強くなり、透けていた腕が確かな形を持ち始める。真也は恐る恐る振り向いいた。その目は固く閉ざされている。

「デデデデデデデターーーーー!?」

 そして、ダッシュで闘争を図った。

 真也は魔術師の中でも希少な能力を持っていた。それは『情報視覚』と呼ばれるもので、現実の視覚を介さず、『世界の記述』から直接情報を読み取る能力である。真也は通常の魔術に加えて、そんな地味な特殊スキルの才能も持ち合わせていた。

 真也は幽霊にその視覚を向けないようにしながら全力でドアへ向かって走る。が、真也は次の瞬間ドアに全力で激突していた。遠くにあった筈のドアがいつの間にか目の前に位置している。

 衝突の衝撃で真也は意識を失った。

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