玄関は広かった。左右に回転式の靴箱があり、その右奥に傘置きが、左奥に簡易シャワー室が備えられている。海道町のビーチからは少し距離があるが、海から帰った時のためのものだろうか、と真也は推測した。

「真也さん、靴は空いている棚を一つ使ってください。他にランニングシューズなどの二足目以降も同じ棚において下さいね。もし二段目が必要なら相談してください」

「わかりました」

 そう言いながら友希は片脚ずつ膝を曲げて立ったまま両足の靴をそっと脱ぐと、回転棚を回して四足ほどの靴の隣に脱いだ靴を丁寧に置いた。

 返事をした真也も真似て靴を脱ぎ、空いている棚に靴を並べる。ついでに荷物からスリッパとランニングシューズを取り出して同様に並べた。

 玄関の上方は半円形の吹き抜けになっていて、四階まであるらしい特寮の各階の廊下の一部が見える。両端にある弧を描く階段を真也が見ていると、不意に友希がしゃがみこんだ。真也は友希の動作を目で追って、彼女の前にいる一匹の黒猫に気づいた。

「おかえり、友希」

 友希のものでも真也のものでもない、第三者の声が玄関に響く。真也は辺りを見渡したが、玄関のある一階にも、見える範囲の上階にも人の姿はなかった。

「ただいま、テトさん。紹介します。こちら、新入りの天神真也さんです」

「どうも、ご紹介に上がりました天神真也です。これからよろしくお願いします」

 真也は声に関しては一旦横に置き、友希に従って猫の前にしゃがんで自己紹介をした。黒猫はじっと真也を見つめている。

「テトさん?」

 友希が黒猫に問いかける。すると、黒猫は我に返ったように友希に視線を戻した。そして口を開く。

「やー、ごめん、ごめん。この子の精神がものすごいいびつな形してる上に、なにかに取り憑かれているみたいだったから、つい見とれてたよ」

「!? ……!?」

「……?」

 猫がその小さな口を開いてのたまう。真也は驚き尻餅をついた。

 普通はそうだろうが、真也は猫が人間の言葉を話すのを初めて聞いたのだ。真也は大げさに驚いてしまったことを恥じながら、黒猫のまえに座り直す。そして、自分の痴態を見ていた友希の方をうかがい見た。

 友希は黒猫の言葉の意味を考えているようで、首を傾げて沈黙している。真也は友希の思考が嫌な方向に向かっている気がして、彼女の気を逸らそうと猫に話しかけた。

「我輩は猫である?」

は女神だ、ただの猫じゃない。それに品種も違うでしょ……。この体は黒、あれはまだらじゃなかったかしら?」

 黒猫はやたら日本文学にくわしい。真也は猫の女神でテトという呼び名から、その正体にあたりをつけていたが、友希がまだ猫の言葉について考えているようだったので質問を続ける。

「もしかしてニヤニヤ笑いをしながら透明化できるとか?」

「できないから、消えれないから。ニヤニヤ笑いはできるかもだけど……。文学ネタはもういいわ……」

 ため息を吐く猫。その気になればニヤニヤ笑いくらいできそうだと真也は思った。

「ちなみに出典は?」

「ルイス・キャロルの『地下の国のアリス』よりチェシャ猫。さっきのは夏目漱石の『我輩は猫である』」

「テトさん物知りだなぁ……」

「伊達に数千年以上も生きてない」

 えへん、黒猫は胸を反らす。真也は友希が思考を打ち切って会話に参加してきたのでホッとした。真也は念のために確認をとる。

「今更ですがあなたは精霊ですか?」

「そう、お家の守り神のバステト」

「テトさんは優香ちゃんが飼ってる黒猫にきせ……、憑依してるんです」

「まて、友希。今、寄生していると言いかけなかったか?」

 女神バステトに凄まれて、友希はタジタジしている。……ということもなく、凄んだバステトさん、もとい黒猫は可愛らしさに磨きがかかっていた。

 友希は顔を背けて、目も逸らしてごまかす。

「ききき、きせいですよ。きっと……」

 が、全くごまかせていなかった。

「友希さん……、『の』が抜けています」

「!? 気、せいだよ、きっと。あはは……」

「オーイ……」

 真也がツッコみ、バステトさんが、さらにとぼける友希をめつける。

「ところでバステトさんは精霊の中でも、神霊クラスのスーパー凄い存在ですよね?」

「バカっぽい喋り方しなくてもいい。というかやめなさい。まぁそうだけど?」

 バステトさん、黒猫はまんざらでもなさそうに頷く。

 精霊とは空想が生み出すもので、精神界の中でイメージが集まって生まれる。

 特定のイメージが集まって、固まったものを心象塊イマジナリィ・ソリッドと呼び、その中でも、意志を持って行動するものを精霊という。神霊や悪霊、死霊など様々なものがおり、その全ては人間と空想の生み出す心象にすぎない。

 例えば、織田信長という存在を、人は想像するだろう。そして、その想像によって生まれるのが織田信長の死霊となる。そのため、その死霊は決してその人物の内面を持ち合わせてはおらず、あくまで人々の想像した姿で顕現する。

 真也の目の前にいる黒猫もバステトと言う神に対して人々が抱く偶像が具現化しているにすぎない。それでも神様に違いはないが。

「あのバステトさん……」

「あぁ、名前は真也だったね。わたしのことはテトでいいよ」

「では、テトさん、質問なんですが、テトさんを呼び出しているのはどなたなんですか? 神霊しんれいクラスのバステトさんを召喚するとなるとかなりの儀式と魔導師が必要だったはずなんですが……」

 精霊の持つ力の大きさはその精霊を信じている、知っている人間の意識の総量で決まる。そして精霊はその量によって強さのクラス分けがされるのだ。

 バステトはその中でもトップに当たる神霊クラスの上位に位置する存在だった。神霊とは、普通は大掛かりな儀式を用いて、初めて呼び出すことが可能になるほどの大物である。

 また、この精霊召喚術せいれいしょうかんのうなどは心象性魔導技能しんしょうせいまどうぎじゅつに属している。心象性魔導とは、魔力素上を伝わる心象波イマジナリィ・ウェーブを用いて世界を改変する能力のことだ。

 これに対して、現代魔術や現代魔法が属する情報性じょうほうせい魔導技能は、魔力素がその内部に記録する情報を用いて世界を改変する能力である。

 現代の日本皇国は情報性魔導の開発に力を注いでおり、精神性魔導の研究、開発はあまり盛んではない。

「テトさんは優香ちゃんが呼び出したの」

「正確には契約者が優香なだけで、足りないノウハウは幽霊のヤツが補っているのだがな」

 友希の説明をバステトが補足する。いい加減玄関から移動すべきなのか迷ったが、真也はそれ以上にバステトの口にしたワードが気になった。

「幽霊?」

「あぁ、真也は知らないだろうな。特寮の幽霊のことさ。光が差し込む暗い部屋に現れる金髪の少女の幽霊」

「まさか!? 百歩譲って目撃した人がいるとしても自律精霊では?」

 真也の疑問にバステトが答える。もっともその答えは真也の疑問をさらに深めただけだったが。

「それが、出くわしたら会話もできるし、結構いい人だしね……」

「やはり自律精霊なんじゃ……」

「ううん、違うよ。心象波は感じないし……。ノアさん人見知りでもないからそのうち会えると思うよ」

 友希はなおも幽霊について話す。どうやら悪霊の類ではなく普通に話せるような存在らしい。真也は幽霊について二人、いや一人と一匹に聞くのをあきらめた。

「まぁ出くわしたら詳しく話を聞くことにする」

「それがいいかもしれません。でも、ノアさん昔の話はしたがらないので、彼女の過去のことは聞いたらダメですよ」

「了解、覚えておきます」

 真也は友希の忠告に頷いた。

 因みに、自律精霊とは二人の目の前のバステトのような召喚精霊と違い、自ら現界する精霊のことだ。有名どころではサンタクロースなどがそれに当たる。西暦2150年代において、サンタクロースは実在の存在なのだ。

「では、中に案内する。真也、まず君を君の部屋まで送るよ」

「お願いします」

「私は先に食堂に行っています。優香ちゃんが晩御飯を作ってくれているはずなので、なるべく早く来てくださいね」

「急ぎます。では、テトさん、宜しくお願いします」

「ついてきて〜」

 真也は階段を登っていくバステトの後を追いかけて、荷物を抱えて階段を上がる。友希はそれを見送ってから食堂の方へ向かった。

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