はじめから、もう一度。

13‐1

 空は今日も青かった。

 高校のそばを流れる川沿いの道を直樹は自転車で走っていた。

 身長の数倍はあろうかという大きな堤防を乗り越えるとその内側には災害時に物資を運ぶための舗装路が整備してあり、遥か先の海まで続いている。普段は車の入ってないこの舗装路は生徒たちの帰り道として最適で、直樹だけでなく多くの生徒がそれぞれの家を目指して自転車で走り抜けてゆく。

 どこまでも続く舗装路は終わりが見えず、その道沿いには葦原が続き、横を向いても川すら見えない。いくら自転車をこいでも遠くにかかる橋は近付いてこず、何一つ変わらない景色が直樹をうんざりさせた。

 変わらない景色を眺めてどれくらい経ったろうか、重いペダルを回していると舗装路の端に仔猫の姿を見つけた。家で猫を飼っている猫好きの直樹にとって野良猫は格好の遊び相手だ。仔猫を驚かせないように離れた場所に自転車を停めると、その場にしゃがみ込んで仔猫に目をやった。

 仔猫はまん丸の目で直樹を捉え、ピンと張った耳を直樹の方へと向けている。

「おいで!」

 家でも猫に話しかけているせいか無意識に仔猫へと声をかける直樹だったが、仔猫はそれを無視して跳ねるように葦原へと飛び込んだ。仔猫の勢いの良さに葦原が揺れる。直樹のことなどお構いなしで葦原の奥へと入っていく仔猫の様子に直樹は慌ててそれを追いかけた。

「おーい、待てってば」

 仔猫が揺らす葦を見逃さないように、一瞬足を止めては一歩、止めては一歩と仔猫を追いかける。そしてそれを繰り返すうち、直樹の視界が突然広がった。どこまでも続くように感じられた葦原はいきなり終わりを向かえ、目の前にレンガ敷きの空間が現れた。四方をぐるりと葦原に囲まれた円形の空間の中央にはベンチがポツリと置かれ、外の世界から忘れられたように、ただそこに静かに存在していた。

 直樹が追いかけていた仔猫はそのレンガ敷きの空間を跳ねるように駆け回り、慣れた様子でベンチに飛び乗った。

「なるほどね、ここがお前の住まいってわけだ」

 仔猫を驚かせないよう静かにベンチへと近付いた直樹は仔猫の横にそっと腰掛けた。辺りを葦原に囲まれた空間はとても静かで、顔を上げると視界いっぱいに青空が広がる。その心地良さを味わっていると、その邪魔をするかのように仔猫が直樹の手に飛び掛ってきた。前足で抱きつくように直樹の腕に絡みつき、すでに鋭さのある牙で直樹の腕に噛み付いてくる。

「痛い、よせよ痛いってば!」

 直樹の言葉など無視で腕への攻撃を止めない仔猫であったが、直樹のズボンのポケットから不意に聞こえてきた電子音に慌てて飛び退いた。ベンチから落ちそうなほどの勢いで直樹から離れると、丸くした目でジッと様子をうかがっている。

「大丈夫、ほら携帯だよ、携帯。メッセージが届いただけだって」

 ポケットから取り出した携帯を仔猫に見せてみるが、携帯が何かもわからない仔猫はただ目を丸くするばかりだ。

 直樹はそんな仔猫を相手にするでもなく、携帯に表示されたメッセージに視線を落とす。スマートフォンの画面には母からのメッセージが表示され、『猫缶、漂白剤』とだけ書かれていた。ただのお使いメールにうんざりした直樹がため息をついてメッセージを閉じると、ベンチの端まで逃げ出していた仔猫が直樹にまとわりつき、さっきまでの警戒した表情とは正反対の好奇心いっぱいの目で携帯の画面を覗き込んでいた。その仔猫の様子を見て直樹がニヤリと笑みを浮かべた。

「なんだよ、もしかしてこいつが気になるのか?」

 直樹はスマートフォンのホーム画面を仔猫に見せ付けた。そこには頭からバッグを被った奇妙な少女の姿が写っていた。

「バッカみたいだよな、こいつ。頭からこんなの被ってさ。これで猫だって言うんだぜ……」

 人ごみの中で辺りを気にすることもなく堂々と立った姿の少女は、直樹がショッピングセンターで呼び出しを受けた時に撮った一枚だ。

「こんな変な格好のまま人の恋愛に図々しく首を突っ込んでくるし、生意気だし、失礼なことばっかり言ってきやがって、ほんとどうしようもない奴だよ……」

 そう言いながらも直樹は画面から目を離せずにいた。手にした携帯をジッと見つめるその表情は穏やかだ。

「でもさ……思ったよりもずっと良い奴だった」

 そう言うと、直樹は体をのけぞらせて空を仰いだ。視界いっぱいに広がる青空はどこまでも続き、風が揺らす芦原の音が直樹の耳をくすぐる。直樹は青い空に向かって大きく息を吸い込んだ。

「ああ、こんなヘンテコな写真じゃなく、バッグなんか被ってない、本当の姿が映った写真が欲しいな! 意外と可愛いし、ずっと眺めてられると思うんだよな!」

 ひときわ大きくなった直樹の声が辺りに響く。しかしすぐにまた、葦原の揺れる音だけが響く静かな時がやってきた。その静けさに直樹はどこか満足げだった。

「って、なんだよ、お前もう興味無いのかよ……」

 さっきまで好奇心いっぱいに携帯の画面を覗き込んでいた仔猫も気付けばベンチの上で体を伸ばし、退屈そうに何度も体を転がせていた。

「ま、お前にはこっちのがいいか……」

 直樹がバッグに手を伸ばし、中に手を突っ込むと仔猫の耳がピンと立った。ガサゴソと騒がしくなった直樹の方へと向き直ると、膝に前足をかけてバッグの中を覗き込む。

「これが欲しいんだろ?」

 バッグの中から現れた猫缶に仔猫はますます勢いづいた。猫缶を手にした直樹の腕にしがみつき、猫缶に顔を近付ける。思わず腕を高く伸ばすが、仔猫も真似して体を伸ばし、猫缶から目を離そうとしない。

「慌てるなって、うちの猫用に買ったやつだけど、せっかくだからひとつやるよ」

 待ちきれずにまとわりつく仔猫を手で払いながら、直樹は器用に猫缶を開けた。ベンチの上に敷いたコンビニの袋の上に猫缶の中身をあけると仔猫がまっしぐらにエサへとむさぼりついた。

 エサに夢中の仔猫の背中を軽く撫でると仔猫のシッポがピクリと跳ねる。体に触れる度、リズミカルに動くシッポが可愛らしく、それを眺めながら直樹は仔猫がエサを食べ終えるを待った。

 食べ盛りの猫にとって小さな猫缶などあっという間だった。出されたエサをペロリと平らげると、まだないのかと、直樹の体にまとわりついてエサの匂いを探すが、それを振り払った直樹がわざと大きな音がするよう服を払いながら立ち上がると、驚いた仔猫はバネのように飛び跳ねて直樹から遠ざかった。

「さあエサはおしまいだ、もう帰るよ」

 立ち上がった直樹は仔猫に向かって手のひらを閉じたり開いたりして別れの挨拶をしてみせると元来た葦原へと歩き始めた。

 身長ほどもある葦原を手でかきわけ無理矢理に体を押し込んだが、直後にひょいと顔だけ覗かせると仔猫に向かって声をかけた。

「そうそう、エサを貰った恩返しがしたいならいつでも大歓迎だぞ、待ってるからな!」

 最後にそう言い残し、直樹は葦原の向こうへと姿を消した。

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