12‐3

 放課後、直樹はいつもの河川敷にいた。

 堤防の内側には災害時の輸送路となる幅広の舗装路が河口に向かって真っ直ぐ伸びており、時折ロードバイクが自転車を停めた直樹の脇を通り過ぎてゆく。舗装路の脇には人の背丈ほどもある葦原が広がり、川そのものは全く見えない。遠くにかかる橋の長さが川幅の広さを感じさせるが視界に広がるのは葦原ばかりで、いつ来ても川沿いを走っている実感はなかった。

 そしてこの見慣れた葦原の中には何度も足を運んだベンチがある。葦原をかき分け奥へと進むと現れるぽっかりと広がったレンガ敷きの空間。ミューという仔猫と、頭からバッグを被った奇妙な少女と過ごした空間だ。いつもの直樹なら何の躊躇もなくこの葦原へと足を踏み入れるが、少女の正体が木村美霜だと知ってしまった今、この先へと進むことには抵抗があった。もしもこの先に木村美霜がいたら、どんな風に接すればいいのかわからない。

 ひょんなことからこの葦原での付き合いが始まった直樹と少女。誰にも話したことのなかった千夏への思いを知られ、人の心に無神経に踏み入ってくるその態度に最初こそ苛立ちもしたが、いつしかこの場所で千夏のことや仔猫のミューについて話すことがずいぶんと楽しくなっていた。何者かわからない人物に自分の内面を知られる不快さが、誰かわからないからこそ話せる安心感へと変わるのにそう時間はかからなかった。そして関係が深まるうち、今度は知る必要のないはずだった少女の正体が気になり始めた。千夏のことについて親身になって相談に乗ってくれ、する必要のない勉強の面倒までみてくれた少女の存在が日に日に直樹の中で大きくなっていた。しかし実際にその正体を知ってしまうと、またしても直樹の思考が空回りをし始める。

 もしもこの先に木村美霜がいたら……

 頭の中でその状況を想像し、どんな言葉を発すればいいか考えるが、いくら考えても最初の言葉すら浮かんでこない。葦原の前にぼんやりと立ち、ただ時間だけが過ぎてゆく。そんな思考のループを繰り返すうち、気付けば日が傾き始めるほどの時間が経っていた。

 できることならこのまま立ち去ってしまいたい心境だったが、腹を空かしているかもしれない仔猫のミューの事を思うと中に入らないわけにもいかない。

 直樹は小さく息を吐くと葦原へとゆっくり分け入った。これだけ時間が経っても葦原の奥から木村美霜が出てくるはなかったのだから、そもそも木村美霜はこの場所には来ていないのかもしれない。今はその希望的観測にすがって足を進める以外になかった。

 いつもとは違い、一歩一歩慎重に、草をかき分けてゆっくりと奥へと進む。

 あと少し進めば草むらが突然開け、レンガ敷きの小さな空間が目の前に現れる。葦原に囲まれ、丸く切り取られたようなその場所にはポツンとベンチがあり、そこに腰をかけて仔猫のミューにエサをやるのが日常となっていた。しかし少女の正体を知ってしまった今ではその当たり前の光景が待っている保証はない。葦原の『向こう』が近づくにつれ、どんどん足が重くなる。そして、あとひとかきで葦原を抜けるという所まできて直樹は足をとめた。

(大丈夫、こんな時間までいるはずない……)

 自分に言い聞かせるように頭の中で同じ言葉を繰り返す。直樹は覚悟を決めたようにゆっくりと息を吐き出すと、わずかに残った草をかき分け、いつもの小空間へと足を踏み入れた。しかし足を踏み入れた直後、直樹の足は再び止まった。葦原を抜け、一気に広がった視界の中にポツンと見えるベンチ。そこには同じ高校の制服を着た少女の後ろ姿があった。いつもなら頭からバッグを被った奇妙な少女の姿がそこにあるはずだが、今そのベンチに座っているのは何を被っているわけでもない、長く黒い髪の少女だ。艶やかな黒い髪がかすかな風になびくその姿を前に、直樹はただ固まることしかできなかった。

 ベンチに座る少女が何者なのか考えるまでもなかった。木村美霜以外に考えられない。

 草をかき分け、この場に現れた直樹の気配に気付いた少女がゆっくりと振り返る。ただ固まることしかできない直樹の目に飛び込んできたその姿はやはり同じクラスの木村美霜だった。

 ただ困惑の表情を浮かべる直樹とは正反対に、美霜はどこか落ち着いていて、直樹が来るのを待っていたかのようでもあった。

 言葉を待つように美霜の瞳がジッと直樹を見つめている。今にも逃げ出したい気持ちだったが、もはやどうすることもできない。直樹は軽く右手をあげ、苦笑にも近い笑みを見せた。

「……どうも」

 そう言って引きつった表情をする直樹を前に、美霜はただ静かに佇むだけだった。

 言葉も無く、二人の間に気まずい空気が流れる。しかしそんな二人とは関係無しに、仔猫のミューが直樹の足にすり寄ってきた。ニャーとひと鳴きすると直樹の足に爪を立て、手にぶら下げたコンビニの袋に鼻を近付ける。ミューは足を這い上がる勢いで体を伸ばし、もはや二本足で立ち上がっているような状態だ。

 困った様子で直樹がコンビニの袋を高く掲げると、ようやく美霜が口を開いた。

「ご飯はさっきあげておいたよ」

「あ、そうなんだ……じゃあこれはしまっておいた方がいいか……」

 直樹は教科書やノートで窮屈なカバンの中に猫缶を無理やり押し込んだ。エサを欲しがるミューの立てる爪が足をチクリチクリと刺激する。

 こんなやり取りはこれまでに何度もしていたはずなのに、目の前にいるのが頭からバッグを被った正体不明の少女ではなく、クラスメイトの木村美霜という事実は直樹を緊張させた。いつもならここからいくつもの言葉が出てくるのに、今は何一つ浮かんでこず、すぐにまた二人の間には沈黙が訪れる。そんな中、仔猫のミューだけが楽しそうに直樹の足元を転げまわる。二人はただ黙ってミューの姿を眺めることしかできなかった。

 ミューが仰向けに転がって両手を広げる。遊んで欲しい時にするポーズのミューに直樹が手を伸ばすと、待ってましたとミューがその手にしがみつく。そんな様子を美霜は何も言わずただジッと眺めている。そしてひとしきり直樹の手に遊ばれたミューが思い出したかのように美霜の元へと走り出す。ベンチの前に一旦座り込み、体をニ、三度振ったかと思うとベンチへと飛び乗り、そのままベンチに腰掛けた美霜の膝へとさらに飛び移る。美霜がミューの喉を指でそっと撫でるとそのまま美霜に体を預け、膝の上に転がった。ようやく遊び疲れたのか、ミューは美霜の膝の上で丸くなり、目を細めた。

 ミューの様子をただ黙って見守る二人だったが、膝の上で眠るミューの鼻筋を撫でながら、美霜がようやく口を開いた。

「こうやって話すのって初めてだよね……」

 学校では話す機会などまるでなかったが、美霜の声には聞き覚えがある。この間の勉強会の時にカバンを被らずに勉強を教えてくれたあの少女の声だ。バッグを被った時のくぐもった声ではなく、優しく、可愛らしく、控えめな声にあの時の勉強会の記憶が蘇ってくる。

「もう……知ってるんでしょ?」

「まあ……うん」

 何の話か聞き返すまでもなかった。あのバッグを被った猫女が木村美霜であることはもはやわかりきった事実としてそこに存在していた。

「まさか千夏ちゃんがここに来るなんて思わなかったからビックリしちゃった……ミューが連れて来ちゃったみたいだね」

 そう言ってミューの頭に手を添えると、美霜の白く細い親指がミューの額を撫でた。その心地よさにミューの目はますます細まった。

「楠本君は知らないと思うけど、私が楠本君を知った時も同じだったんだよ」

「同じ?」

「私、前からここでミューにエサをあげてたんだけど、いつものようにエサをあげにきたらミューが見当たらなくて……どこだろうって探していたら、誰かがここに向かってきてるのに気付いて、思わず隠れちゃったんだ」

 美霜は膝の上のミューに視線を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。

「そしたら……この場所に楠本君がやってきたの」

 美霜の言葉に当時の記憶が蘇ってくる。学校帰り、河川敷の道で見かけた仔猫。その姿を追って葦原へと足を踏み入れたあの日だ。葦原の先にあったぽっかりと開けた空間。仔猫にとっての秘密基地のように思えたその場所は、木村美霜にとっての秘密の空間でもあったのだ。

「私ね……自分の正体がバレて、本当はホッとしてるんだ」

 空を見上げた美霜の前に青空が広がった。葦原を撫でる風が美霜の髪も揺らす。

「なんだかバカらしくなっちゃった。どうして正体を隠すようなことまでして、楠本君と千夏ちゃんの恋を応援してるんだろう、って」

 そう言うと再び視線を落とし、膝の上で丸くなるミューの背中を撫でつけた。ミューを触りながらも、美霜の視線は落ち着かない様子で泳いでいる。唇を何度も噛みしめ、次の言葉を探している。

「ねえ……隠れて覗いているのがバレたあの時、もしそこにいたのが袋を被った変な子じゃなく、もし、もしもクラスメイトの木村美霜がそこにいたら……楠本君はどうしてた?」

「……どうしてたって?」

「こんな風に今になって私が誰か知るんじゃなく、もっと早くハッキリしてたら、もしかしたら……もっと違ってたのかな、って」

 うつむいたまま直樹の方すら見ずにつぶやいた美霜を前に直樹は言葉を探すが見つからない。

言わなければならない、伝えたい言葉はたくさんあったが、直樹自身、それをどう言葉として表現したらいいのかわからず、なかなか言葉が出てこない。

「あはは、そんなのわかんないよね!」 

 美霜が上ずった声をあげ、大袈裟なほどに笑ってみせた。しかし表情こそ笑ってはいたが、その瞳はどこか寂しげだった。

「あの時……」

 直樹がようやく言葉を口にした。深く息を吸い込むと、ゆっくりと言葉を続ける。

「あの時、草むらに隠れてる人影を見つけて追いかけた時、もしその先に木村がいたとしても何も変わらなかったというか、何も起こらなかったと思う」

「そっか……そうだよね」

 直樹の言葉を聞いた美霜はポツリとつぶやくと、また上ずった声で笑ってみせた。

「私と楠本君、クラスで話したことだってなかったんだもん、あの時顔を合わせたって、そりゃ、だから何って話だよね……私、なんでこんなこと聞いてるんだろ、バカみたい」

 無理して笑った美霜の表情は硬い。直樹から視線をそらすようにうつむくと、膝の上のミューに目をやった。

「待ってくれ、ちゃんと聞いてくれ。俺はあの時、あそこにいたのが木村じゃなく、頭から袋を被った変な女の子がいてくれてよかったと思ってる。最初は誰かもわからなくて頭にくることのが多かったけど、ここで柏木の事やミューのこととかたくさん話したり、俺のわがままで勉強教えてもらったり、そういう事の積み重ねが自分の中で大きくなってて……なんというか、そういうのがあった上で木村のことを知ったから……だから今の気持ちがあるというか」

「……今の気持ちって?」

「……」

 美霜の問いかけに直樹の言葉が詰まった。

 伝えたい言葉はある。今すぐ伝えたい気持ちがあった。しかし、それを実際に口にしてしまうだけの勇気が出ない。直樹の頭の中は同じ言葉が何度も行ったり来たりするばかりだ。

 二人の間に訪れる沈黙──うつむいたままの美霜は膝の上のミューを抱きかかえると突然立ち上がった。

「帰るね……」

 直樹の方へと目をやることもなく美霜は背中を見せた。

「ミューは私が連れて帰って育てるよ。ずっとここにいていいわけないし」

 美霜は唇を噛みしめた。

「そうだよ、ずっとこのままでいいわけがない……」

 消え入りそうなほど小さな声で美霜がつぶやくと、抱きかかえた腕の中でミューも小さく鳴いた。美霜はミューをよりしっかり抱え直すと葦原へと歩き始めた。

「待ってくれ! 明日もう一度ここに来てほしい! 初めて会った日をもう一度やり直したいんだ!」

 直樹の言葉に美霜が振り返ることはなかった。

「もう一度って……何も変わらないって言ったのに?」

「だから変えたいんだ! これから!」 

 直樹の声が青空に響いた。

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