6‐2

 しかし、いくら待っても千夏は戻ってこなかった。

 千夏はすぐ戻ると言って銀行へと向かったが、麦茶が入っていた直樹のグラスがスッカリ空になっても千夏が戻る気配は一向にない。入口の扉が開くことはなく、一人残された店内にただひたすら静かな時間が流れてゆく。

 千夏が向かった銀行は店のあるビルのすぐ向かいだ。銀行が混雑してるにしたってそこまで時間がかかるものではない。ただ待つことに痺れを切らした直樹はひとまず店の外に出て銀行の様子を見てみることにした。

 鉄でできた重苦しい店の扉を開けて外に出ると道路に面した廊下からすぐ向かいのビルが見える。一階にある銀行には多くの客が見えたが、そこに千夏らしき姿を見つけることはできなかった。しかし手すりから身を乗り出して自分がいるビルの一階へと視線を向けてみると、駐車場となっている一階の端の壁に千夏の姿を見つけた。

 しかしそこにいたのは千夏だけではない。千夏の進路を塞ぐように一人の男が立っているのが見えた。何か会話でもしているのか千夏の口が動いているのがわかるが街のノイズで声は聞こえてこない。しかしその表情が曇り、不機嫌な感情の中に千夏がいるのは間違いなかった。男は千夏により近付くとその肩を小突いた。千夏はそれを振り払ったが、今度はその表情にハッキリと怒りの感情が見て取れた。二人の様子はただ事ではない。

「どうしよう……」

 少なくとも良くないことが起こっているのは確かだ。ならば、もっと良くない何かが起こる前に千夏の元へと走らなければならない。しかしケンカや揉め事に関わった経験のまるでない直樹はその一歩が踏み出せずにいた。頭ではわかっていても足が動かない。

「とにかく……いかなきゃ!」

 直樹は歯を食いしばると自分の太ももに拳を叩きつけた。ここで助けにいかずにどうすると、拳で二度、三度と足を叩く。そして自分の気弱さを振り払うように走り出すと階段を駆け下りた。

 飛ぶように階段を駆け下りるとあっという間に一階へとたどり着き、駐車場の隅にいる千夏と男の後ろ姿が見えた。直樹はためらう隙すら作らないようすぐさま声を上げた。

「おい!」

 すると直樹の声に男が振り返った。男の身長は直樹と大差無かったが、Tシャツから伸びる太い腕とシャツの上からでもわかるガッシリとした体のせいで直樹よりずっと大きく見えた。ツンと立った短い髪で、鋭い目つきが直樹を捉える。

 振り向いた男の背後では直樹の存在に気付いた千夏がハッとした表情を浮かべていた。男は一瞬だけ直樹を見つめたかと思うとすぐに千夏の方へと向き直る。直樹は野良猫が通り過ぎた程度にしか思われていなかった。まるで相手にされていない様子にたじろぎそうになるが、もはや後戻りはできない。

「その子から離れろ!」

 直樹が力いっぱいの声を上げると、男は直樹に聞かせるように、わざと大きな舌打ちをしてみせた。

「……悪いけどあっち行っててくんねえ? 今さ、忙しいんだよ」

 しっかりと直樹の方へと向き直った男の表情は苛立っている。 

「あっちへ行くのはお前だ!」

 直樹の一言に男の表情が明らかに変わった。眉間にシワを寄せ、一瞬考えたかと思うと鋭い目で直樹を睨み、そのまま直樹の方へと歩き始めた。

 ゆっくりと近付いてくる男に直樹の体が緊張で硬くなる。もはやケンカとなることは避けられないだろう。しかしケンカなどしたことのない直樹は全身が硬直したままだ。徐々に近付く男を前に血の気が引いていくのを感じるばかりで、まるで体が動く気がしない。

 徐々に近付く男。その体が直樹にはますます大きく感じられた。しかし次の瞬間、千夏が駆け出したかと思うと男と直樹の間に立ちはだかった。

「やめて! 楠本君は関係ないでしょ!」

 不意に進路を塞がれた男が千夏を見る。

「知り合いか?」

「……クラスメイト」

 そう呟いた千夏の肩越しに男の視線が直樹へと飛んできた。

「クラスメイト君さ、悪いけどちょっと金貸してくんない? こいつが金貸してくれないから困ってんだよね」

「ちょっと、なに言ってんの! やめてよ!」

 すぐさま千夏が大きな声を上げるが、男が千夏の肩を掴んだ。

「ならお前が貸せよ、もうバイト代入ったんだろ」

 掴まれた千夏の肩を見て、ただすくむばかりだった直樹の体が思わず動いた。千夏の小さな肩に乗った男の大きな手を振り払おうと直樹の足が一歩前に出る。しかし直後に大きな声で千夏が叫んだ。

「あのね、私のバイト代は都合の良いお小遣いじゃないの!」

 千夏は肩に乗せられた手を自分で振りほどくと、逆に男の肩を掴み、背中を向けさせる。

「ほら帰って! そんなにお金無いなら自分でバイトしたらいいでしょ!」

 男の背中をグイグイと押し始める千夏を見て一歩踏み出した直樹の動きは完全に止まってしまった。まるで怯まない千夏の様子と男のやり取りを見ていると二人がお互いのことを知っているように直樹には思えた。千夏を助けにきたつもりだったのに、直樹はただ二人の言い争いを眺めるだけの格好になってしまっていた。

「くそっ、いつもいつもケチ臭いんだよお前は」

 男は眉間にシワを寄せて険しい表情を浮かべてはいるが、背中を押す千夏に何をするでもなく、抵抗しようとはしない。歩道まで押し出された男は面倒臭そうに舌打ちをすると二人に背を向けて街の中へと消えていった。結局、直樹ではなく千夏が男を追い払ってしまった。

 去ってゆく男の姿が小さくなるのを確認すると千夏が直樹の方へと向き直った。眉を下げ、申し訳なさそうな表情をする千夏の顔が直樹の顔をのぞき込む。

「ごめんね、ビックリさせちゃって……大丈夫?」

「いや、全然大丈夫だけど……その、今の知ってる人?」

 すると千夏の表情がますます曇った。バツが悪そうに視線を落とすとポツリとつぶやいた。

「今の……私のお兄ちゃんなんだ」

「あれが!? ……あ、いや、ごめん」

 あまりに予想外の一言に思わず余計な言葉が口を突いて出てしまい、直樹が慌てた。

「別に謝らなくていいよ。確かに『あれが』って感じだもん……それよりごめんね、お兄ちゃん楠本君にまでお金借りようとして……あのバカ!」

「いや、それこそ別にいいけど……ていうか、お兄さんお金に困ってるの?」

 直樹の言葉に千夏が呆れた声を上げる。

「いつものことだよ。無駄遣いばかりしてるから私のバイト代が出る頃になるとああやってお金を借りにくるの。ほんと嫌になっちゃう」

 千夏はほとほと迷惑といった表情を浮かべて直樹を見つめたが、最後に一言付け足した。

「……ま、一度も貸したことないけどね」

 そう言うとようやく千夏の顔に笑顔が戻った。

「あはは、そうなんだ」

 千夏の笑顔を見てようやく直樹もどこか張り詰めていた緊張が解けたような気がした。

「お金貸してっていうのはお兄ちゃんの口癖というか挨拶みたいなものだから、あんまり気を悪くしないでね」

「いや、全然大丈夫だよ、気にしてないから安心して」

 千夏が見知らぬ男に絡まれてると思い二階から駆け下りた直樹。しかし結局は思い違いで一緒にいたのは千夏の兄だった。そのあまりにも気楽なオチに直樹はすっかり力が抜けていた。気を悪くするも何も、ややこしい出来事が起こらなかったことにただ安堵するだけでそこに悪い感情は何も湧いてこない。自分でもわかるほどに直樹は安心しきった緩い表情をしていた。

 しかしそんな直樹とは正反対に千夏は急に黙ってしまった。うつむいたかと思うと落とした視線が右に左に泳ぐ。

「……柏木?」

 直樹が声をかけても千夏は直樹を見ようとはしなかった。ただうつむくばかりで何も答えない。突然変わった千夏の様子に戸惑い、直樹の表情も曇る。場を繋ごうと必死で言葉を探すが、どんな声をかけていいのかわからなかった。

 すると、うつむいたままの千夏がつぶやいた。

「楠本君……その、ありがとね」

「え、なにが?」

 突然の言葉に直樹が聞き返すと、うつむいていた千夏の顔が上がり、その目が直樹を捉えた。

「私が絡まれてると思って助けに来てくれたんでしょ?」

「あ……」

 直樹は自分のしたことを千夏の口から再確認させられるとは思ってもみなかった。あらためて自分がしたことを思い返してみると急に恥ずかしさがこみ上げてくる。今度は直樹の方が視線をそらし、明後日の方を向いてしまった。

「えと、そうだね、そうなるのかな、はは……」

 直樹は自分の顔が赤くなってゆくのをハッキリと感じていた。それを悟られないよう、慌てて言葉を繋ぐ。

「それより俺、お兄さんって知らなかったから結構キツいこと言っちゃったけど大丈夫かな」

「大丈夫。お兄ちゃん三歩歩くと忘れちゃうから、楠本君の顔だってもう覚えてないよ、きっと」

「そうなんだ、それならよかった……はは」

 平静を装っても直樹の熱く、赤くなった顔は変わらない。気恥ずかしさから千夏の顔をまともに見られない。そんな直樹に千夏はもう一度同じ言葉を口にした。

「……ありがとう」

「……うん」

 直樹にはそう答えるのが精一杯だった。だが、直樹は心の中で叫んでいた。

(助けに行くのは当たり前じゃないか! 俺は柏木のことが好きなんだから!)

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