流されて、たどり着く先。
7‐1
「ありがとね……」
日の沈み始めた街を歩く直樹の頭の中を千夏の言葉が何度も往復した。
千夏がバイトする古書店を出てからというもの、頭の中は千夏のことでいっぱいになっていた。家に向かうわけでもなく、あの時の楽しい瞬間を反芻しながら当てもなく街をブラついていた。たった数歩足を踏み出す間に千夏の顔が浮かんでくる。うつむいたまま視線を横に外し、照れた表情を浮かべる千夏の顔が頭の中いっぱいに広がる度に直樹の足が止まる。勝手にニヤけてしまう自分の顔を手で覆い、しばしその場に立ち尽くす。そんなことを繰り返すうちに気付けば直樹は見知らぬ景色の中にいた。しかしどこを歩いているのかなどお構いなしで、頭の中の幸せな記憶がこぼれ落ちないように直樹はただ目の前に伸びる道をゆっくりと歩き続けた。
ところが、そんな直樹の思考を邪魔するようにやかましいバイクの音が割って入ってきた。全身が震えるような低音を響かせた大型のバイクが信号に引っかかり、直樹のすぐ脇に停車した。
バイクの不快な振動が頭の中の幸せな記憶の邪魔をする。イラついた直樹は思わずバイクの方へと視線を向けたが、バイクにまたがったライダーの姿を見た瞬間に慌てて視線をそらした。イラついていたはず直樹の表情はライダーを見たその一瞬で動揺した表情へと変わっていた。
低い車体と太いタイヤのアメリカンバイクにふんぞり返るようにまたがったガッシリとした体型の男。ジェットヘルメットから覗くその顔には間違いなく見覚えがあった。ついさっき千夏がバイトする古書店の一階で出会ったばかりのあのいかつい表情を忘れるはずがない。信号待ちで直樹の脇に止まったバイクのライダーは先ほど出会った千夏の兄だった。
まさかの遭遇に直樹の鼓動がバイクの振動と同じくらい早くなる。とにかく直樹は気付かなかったフリをし、バイクの方に背を向けるとゆっくり歩き始めた。背中を丸め、景色の一部になるつもりで派手な動きはせず少しずつ静かにバイクから離れてゆく。
しかし直樹の努力は何の意味もなかった。
「おい!」
背後から聞こえたやたらと響く低い声に直樹の丸めた背中がピンと伸びた。千夏がアルバイトをする店の一階で聞いたあの声だ。その声は確実に直樹へ向けられている。しかし直樹はそれでもなおその声に気付かないフリをして歩き続けた。ゆっくりだった足の動きは忙しくなり、少しでも早くその場から離れようと気付けば早足に変わっていた。
だが次の瞬間、自分の意思とは無関係に直樹の体がクルリと回った。突然肩を掴まれ、強い力が直樹を引っ張る。抗う暇すらなく直樹の体が強制的に後ろを向かされると、そこにはあの男が立っていた。
顔を引きつらせる直樹とは正反対に男は事も無げな表情で直樹を見つめている。その鋭い目が直樹の顔をジッと見つめたかと思うと男が口を開いた。
「お前、千夏のクラスメイトだったよな? ……俺とさっき会ったの覚えてるか?」
全力で首を振って知らないフリをしたいところだったが、男の声をあれだけ無視しても捕まったのだからシラを切ったらむしろ事態が悪化しかねない。
「あ……えーと、確かあの、柏木……いや、千夏さんのお兄さん、ですよね?」
そうだと言わんばかりに、千夏の兄は満足げに頷いてみせた。
「何してんの? どっか行くとこか?」
「いや、別に……どこに行くってわけでも……」
千夏のことを思い出してニヤニヤ歩いていたなんて千夏の兄に言えるわけがない。直樹は曖昧な言葉で濁すしかなかった。
すると次の瞬間、千夏の兄は直樹の肩に手を回すと強引に体を引き寄せた。グッと近くなった千夏の兄の顔を前にして直樹の顔がこわばる。だが千夏の兄はさっきまでのどこか高圧的な態度とは違い、囁くように直樹に声をかけた。
「……実はさ、ちょっと頼みがあるんだけど聞いてくんない?」
かすかに笑みを浮かべたその顔に直樹は嫌な予感がした。千夏のバイト先で金を貸せと言われたあの光景が頭をよぎる。このあと千夏の兄の口からどんな言葉が出てくるのか直樹には容易に想像できた。
「あの、お金なら全然持ってないですよ。……その、ボクもお金に困ってるくらいなんで」
「なんだよ、金持ってねえの?」
「……はい」
直樹は貸す金が無いことをアピールして先手を打ったつもりでいた。しかし、まるで直樹のその言葉を待っていたかのように千夏の兄の口がニヤリと曲がった。
「そうか、ちょうどよかった。なら俺と一緒にバイトしねえ?」
「……は!?」
予想外の言葉に直樹の表情が固まる。だが千夏の兄はまるで気にしていない。直樹とは正反対に嬉しそうな表情で語り始めた。
「いや、実は急なバイトが入ったんだけどさ、人が足りなくて困ってたんだよ。金に困ってるならちょうどいいじゃんか、一緒に来いよ」
「いや……でもそんな急に言われても……」
すると千夏の兄の表情が一気に険しくなる。
「なんでだよ、お前金に困ってんだろ? それとも金が無いってのは嘘だったのか?」
「いや、そういうわけじゃないですけど……」
千夏のバイト先で会った時と同じ鋭く威圧的な目が直樹を捉える。直樹は顔をそらし、縮こまることしかできなかった。
「今からどこかへ行くわけでもないんだろ?」
「え……あ、それはその……」
金は無い、どこかへ行くつもりだったわけでもない。――直樹がこれまで口にした言葉は全てが裏目となっていた。なんとか千夏の兄の誘いを断る口実を考えるが、直樹の思考はただ空回りを続けることしかできなかった。
「金が無くて暇なら断る理由はないだろ、行こうぜ!」
千夏の兄は直樹の肩に腕を回すとそのまま強引にバイクの方へと直樹を歩かせる。
「いや、あの……」
僅かに体に力を入れて抵抗してみるが、もはや直樹にはどうすることもできなかった。ただ戸惑いの表情を浮かべたままバイクの元へと連れていかれ、ヘルメットを渡される。
「ほら、乗れよ!」
バイクにまたがった千夏の兄が直樹を促す。
(なんでこんなことに……)
渡されたヘルメットを被りながら、直樹の頭の中を同じ言葉が何度も行ったり来たりする。しかしもはや覚悟を決めるしかなく直樹は言われるがままバイクへ乗るしかなかった。恐る恐るシートにまたがると、ピカピカに磨かれた銀色のエンジンの振動が伝わり、直樹の全身を震わせる。
「背もたれ無いからしっかり掴まっとけよ!」
千夏の兄がそう言ったか言わないかの瞬間、バイクが急加速した。直樹は仰け反りそうになるのを必死にこらえ、千夏の兄の体にしがみ付いた。
猛烈な加速が収まったかと思うと渦を巻く風が体の脇を抜け、景色があっという間に後ろへと流れてゆく。初めてバイクに乗った直樹は流れ行く景色も頬に受ける風も楽しむ余裕は無く、とにかく振り落とされぬよう、千夏の兄の腰に回した手に力を込めることしかできなかった。
するとわずかに首を後ろに向けた千夏の兄が叫んだ。
「そういや名前聞いてなかった! なんていうんだ?」
「楠本っていいます!」
風を切る音に負けないよう、直樹が全力で叫んだ。
「俺は柏木! ……って、千夏のクラスメイトなんだから名字くらい知ってるか!」
千夏の兄は笑い声を響かせながらますますバイクを加速させた。
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