7‐2
何分走っただろうか、直樹を乗せて走り続けたバイクがようやく止まった。車だらけの国道を走っていたバイクはいつの間にか脇道へと入り、人通りも少ない住宅街の中にいた。止まったバイクのすぐ脇にはマンションがあり、マンションを囲う植え込みギリギリに寄せるように引越し業者のトラックが止まっているのが見えた。トラックの荷台にはウサギがダンボールを抱える可愛い絵がペイントされており、運転席にはその可愛い絵とは正反対のくたびれた男が座っていた。
バイクを降りた直樹はヘルメットを脱ごうとあご紐に手を伸ばすが、全身を振るわせたバイクの振動がまだ体に残っているようで上手く手が動かせない。柏木といえばそんな直樹を気にする素振りも見せず、バイクを降りると近くに停まった引越し業者のトラックへと歩き出した。
トラックへと歩く柏木に気付いたのか、運転席に座った中年の男が窓から顔を出して柏木に手を上げてみせた。男の胸には荷台と同じウサギの絵が描かれた名札が付いており、そこには山崎という名前があった。
「待ってたよ柏木君! いやーすまないねえ、急に呼び出したりして」
二人は顔見知りのようで、柏木は男に軽く頭を下げると辺りを見回した。
「……おやっさん一人っすか?」
「そうなんだよ、バイトの連中が逃げ出しちゃってさあ、参ったよ……」
山崎という名の引越し業者の男は困った様子で頭をかいた。
「いやね、今日は同じ大学だっていう三人組を連れてきてたのよ。顔見知りで組ませた方がチームワーク良さそうじゃない? ところがそいつら三人まとめて逃げ出しちゃってさあ……そんなことで団結されると思わなかったから参っちゃったよ。最近の子は根性無いっていうか、逆に度胸あるっていうか……」
疲れた表情の山崎はうんざりといった表情で二、三度頭を振った。
「いやホント、柏木君が来てくれて助かったよ。ありがとね!」
そう言って申し訳無さそうな顔をする山崎に柏木がとんでもないといった表情で顔を振ってみせた。
「そうだ、俺一人じゃ足りないかと思ったんでもう一人助っ人を連れてきたんスよ。おい、早く来いよ!」
ようやくヘルメットを外せた直樹に柏木が声をかけた。状況を飲み込めていない直樹は困惑した表情を浮かべ、言われるがまま二人の下へと小走りで駆け寄ってくる。
「おお、二人いればなんとかなりそうだ。じゃあ早速始めよう」
山崎は助手席の上に転がった作業着を手に取ると車を降り、駆け寄ってきた直樹に笑顔を見せた。
「いやー、君もありがとね。これがユニフォームだからまずはこれ着て。頼んだよ!」
直樹は山崎から作業着と軍手を受け取るが、いまだに自分の状況が飲み込めず、手渡された作業着をただポカンと眺めることしかできなかった。
「……あの、これって?」
すると柏木が事も無げに答えた。
「早く着ろよ、見ての通り今から引っ越しのバイトだから」
「ええええっ!」
柏木の言葉に思わず声が漏れる。わけもわからず連れてこられていきなり引っ越しのバイトと言われた直樹の表情は困惑を通り越して驚きに変わっていた。
「ちょ、ちょっと待ってください、俺、引っ越しのバイトなんて……」
直樹は引っ越しのバイトなどしたことがない。というよりもそもそもアルバイトの経験自体がない。いきなり引っ越しのバイトだと言われても、部屋の片付けでちょっとした荷物を移動するだけでもへこたれる自分が冷蔵庫や洗濯機を運ぶ姿がまるでイメージできなかった。
しかし直樹の戸惑いをよそに柏木は淡々としたものだ。
「ほら、時間無いんだから早く着ろよ」
「でも……引っ越しのバイトなんて経験無くて……」
「経験なんかいらねえよ。向こうの部屋の荷物をここまで運んでくる、それだけだ。……簡単だろ?」
「いや、簡単って……」
簡単だと簡単に言ってのける柏木との意識の差に思わず全身の力が抜ける。軍手をはめながら直樹を見ていた山崎がさらに追い討ちをかける。
「大丈夫大丈夫! 梱包はほとんど終わってるし、ダンボールをこっちに運んできてくれりゃそれでいいんだから。場所も一階だし何てことないよ。ドアノブに作業中って札のぶら下がってる部屋がそうだからよろしく頼んだよ!」
「よし、行くぞ!」
柏木の大きな手が直樹の背中を音が鳴るほどの勢いで叩いた。もはや諦めるしかなく、直樹はうなだれたまま引っ越し作業の行われている部屋へと重くなった足を引きずった。
(なんでこんな事に……)
直樹の頭の中を同じ言葉がループし続ける。しかし考えたところで状況は変わるわけでもない。
柏木に続くようにエントランスを抜け、廊下へと向かうと目的の部屋はすぐに見つけることができた。ドアノブにプレートがぶら下がっており、作業中という文字と共に直樹が着させられた作業着にも描かれているウサギのマークが見える。先を歩く柏木が扉を開けて中に入ると直樹もそれに続いて部屋へと入った。柏木の背中越しに見えてきた室内はすっかり片付いており、玄関から入ってすぐの部屋にはウサギのマーク入りのダンボールが傾き始めた日差しを浴びて無造作に並んでいる。
「だいぶ片付いてるな、これなら早く終わりそうだ。……とりあえずお前はそこのダンボールを運んじゃってくれよ。冷蔵庫とか棚みたいな大物は俺とおやっさんでやるから」
「……はい」
直樹はため息交じりに小さく返事をすると、キッチンの方を覗き込む柏木の脇を抜けてダンボールの並ぶ部屋へと入った。部屋には空っぽになった棚やオーディオボードが見え、その前に大小様々なダンボールが転がっている。背の高い棚には何も残っていないが、何も残っていないぶんその中にあった物が全て目の前のダンボールに詰まっているのが容易に想像できる。無造作に積み上げられた目の前のダンボール群は直樹をうんざりさせるには十分すぎる量だった。
直樹は一際大きなため息を付くと一番小さく見えた五十センチ四方のダンボールを抱え上げてみた。
「……重っ!」
あまりの重さに直樹の顔が歪んだ。さほど大きくないからと選んだはずなのにその重さは想像以上だった。直樹はよろけながら玄関まで歩くと、ひとまずダンボールを床へと降ろした。ダンボールには中身について書き込む欄が設けられており、そこに目をやると中身は本と書かれている。たかが本ですら箱に詰めるとここまで重くなるのかと直樹はその場でうなだれた。玄関で靴を履き、恨めしそうにダンボールを眺めると、直樹は覚悟を決めて再び本の詰まったダンボールを抱え上げた。その重さに顔をしかめると、よろよろとトラックの待つマンション前へと歩き始める。四角い箱の重みが直樹の全身を下へと引っ張る。なんとか逆らおうと体に力を入れるが、まるで自分の体がしなやかさの消えた棒のように感じられた。
ギクシャクと不恰好に体を動かし、少しずつトラックへと向かって歩く。そしてやっとトラックが見えてくると荷台に寄りかかって携帯で電話をしている山崎の姿が見えた。依頼主との通話なのか、返事をする度に山崎の頭がペコリと下がる。
「ええ、今ちょうど積み込みを行ってます。はい……梱包は先ほどの打ち合わせ通りに進めてますんで、完了したらまた連絡を入れますので、はい……それでは一旦失礼します」
山崎は切った電話にまで頭を下げると携帯をポケットに押し込み、よろよろと歩いてくる直樹に笑顔を向けた。
「お、来たね。とりあえずダンボールの荷物は車の脇にでも置いといて。まず先に大物を荷台の奥へぶち込んじゃうからさ」
「……はい」
山崎の笑顔とは対照的に直樹は引きつった表情で返事をするのがやっとだった。ダンボールを地面に置き、ようやく両手が箱の重さから解放されたが、マンションの方へと歩き始める直樹の足取りは相変わらず重い。
「その調子でじゃんじゃん頼むよ!」
背後から聞こえる山崎の声は軽快だが直樹の足取りは重くなる一方だった。
「なんでこんなことに……」
直樹が足を引きずるようにゆっくりと歩き、ようやく部屋の前までたどり着くと玄関に柏木の姿が見えた。洗濯機を一人で抱え上げ、体をよじりながら狭い玄関を器用に通り抜けている。
「よっ……とっ……」
洗濯機を抱え狭苦しい玄関から廊下へと抜け出ると柏木が小さく息を吐いた。腰を軸にして子供の背丈ほどはありそうな洗濯機を抱えており、直樹からは腰を落として踏ん張る足と洗濯機を抱える腕だけが見えた。サイズの小さな作業着の中にはちきれんばかりに収まった柏木の太い腕が洗濯機をわずかに揺すりながらゆっくりと直樹の方へと近付いてくる。
「あの……大丈夫ですか? 手伝います?」
近付いてくるほどに柏木の抱える洗濯機の大きさを実感し、思わず直樹から言葉が漏れた。しかし直樹の言葉に柏木は軽く首を振ってみせた。
「いや、こっちは平気だからダンボールの方を頼むわ」
そう言って脇を通り抜ける柏木の表情は大荷物を抱えているにも関わらず穏やかなものだった。特に辛そうな素振りも見せず、一歩一歩確かな足取りで洗濯機を運んでゆく。気付けば直樹は玄関前で一人取り残されてしまった。
仕方なしに玄関から部屋と上がり、直樹はダンボールの転がる部屋へと足を踏み入れた。ダンボールが一つ減っただけの部屋にはいまだ無数のダンボールが転がっている。直樹は箱の中身を示すダンボール表面の記入欄に目をやり、先ほど重かった『本』ではなく『食器』と書かれたダンボール箱に手を伸ばした。しかし持ってみればその箱も十分に重く、直樹はまたしても顔をしかめた。しかし直樹の頭に先ほどの洗濯機を抱えた柏木の姿が頭をよぎった。あれだけ巨大な荷物を一人で抱えて歩く柏木に比べ、小さなダンボール一つでへこたれている自分の姿が急に情けなく思えてならなかった。無理矢理に連れてこられたのだからと渋々荷物を運んでいる自分の姿は柏木の頼もしい姿とはあまりに対照的だ。
直樹は重さのあまり一旦床に戻した食器入りのダンボールを再び抱え上げた。とにかく目の前に転がる荷物を運び終わらないことにはここから解放されることはない。直樹は覚悟を決め、ダンボールを抱えてトラックへと歩き出した。抱えたダンボールの重さに腕が引っこ抜けそうな感覚を覚えつつも、さっきよりもずっと早い足取りでトラックへと向かう。するとトラックの前ではすでに柏木が先ほどの洗濯機をトラックへと積み込み終えていた。
「おやっさん、奥の部屋にあったでかい棚は窓からっスか?」
「あれは玄関じゃ通らないだろうし窓からだね。先に押し込んじゃいたいし、次は二人であの棚をやっつけちゃおうか」
荷台に乗り込んだ柏木と山崎は毛布で覆った洗濯機をロープで固定しながら次の荷物について話していた。話しながらもてきぱきと作業する二人になるべく気付かれないよう、直樹はそっとダンボールをトラックの脇に置くとそそくさと部屋の方へと歩き始めた。
「あんま無理しなくていいからな、大きいのが終わったらそっちも手伝うから」
トラックに背を向けた直樹に、まるで疲れた様子のない柏木の声が聞こえてきた。
「いえ、大丈夫です!」
反射的に強がりの言葉が口をついて出た。たかが箱を二つ運んだだけで気遣われた自分の格好悪さが直樹はたまらなく恥ずかしい。振り返って柏木たちの顔を見ることもできず、直樹は早足で荷物の待つ部屋へと向かった。
(せめて数だけでも……)
予想外に思い知らされた自分の不甲斐なさに悔しさがこみ上げる。直樹はダンボールの転がる部屋に飛び込むと手近な箱を手に取り二つ積み重ねた。柏木のようにはいかずとも、一つでも多くの荷物を運んでその差を少しでも埋めたかった。無理矢理に連れてこられたからとか、そういうことを理由にしたところで自分のみっともなさを帳消しにはできない。今はとにかく一つでも多くの荷物を運ぶしかなかった。
直樹は中身も確認せぬまま重ねた二つのダンボールを抱え上げる。その重みに耐えかねて顔が歪むが、腰を落とし、ゆっくりと玄関まで運ぶ。靴を履き直して再び箱を持ち上げると再び顔が歪む。しかし直樹は廊下をこちらに向かって歩いてくる足音に気がつくと息を止め、平静を装った。すると直後、新たな荷物を運びにやってきた柏木の姿が見えた。直樹は苦しさを隠し、まる辛くないといった穏やかな表情を崩さずに柏木とすれ違った。まるっきりやせ我慢だったが、今はこうして強がることでしか自分の情けなさを誤魔化すことができなかった。
そしてただひたすら、黙々と荷物を運び続けた。
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