柏木と、そして柏木の。

6‐1

 翌日、直樹は隣町の駅にいた。

 千夏と会うためのプランがあるわけではないし、実際まだ会いに行くと決めたわけでもない。しかし気になる気持ちが直樹を自然と隣町へ向かわせていたようで、気付けば隣町のよく知らない景色の中に直樹は立っていた。

 ロータリーから真っ直ぐ伸びる大通りの両脇にはいくつもの雑居ビルが立ち並ぶ。どのビルにもファストフードの店やコンビニが入り、歩道の脇に賑やかな看板が並ぶ。この並びのどこかに銀行があり、その向かいに千夏が働く古本屋があるはずだ。しかし直樹は視線を宙に向け、万が一にも銀行を見つけないようにした。もし銀行を見つけてしまえば千夏の働く店の前まで行ってしまうかもしれない。そして、もしそこで千夏に会ってしまったらどんな顔をしていいかわからない。

 直樹は何をしにきたのかもよくわからないまま、駅前のロータリーでぼんやりと立ち尽くすことしかできなかった。

「……なにしてんだろ、俺」

 ロータリーから真っ直ぐ伸びた道をただぼんやりと眺めるうち、自分のしていることが馬鹿らしく思えてきた。千夏に会う勇気もないのにこの場にいても意味がない。

 しかし、いいかげん帰ろうと思ったその瞬間、不意に直樹の肩が叩かれた。思わず振り向くと直樹の顔が一瞬で硬直した。そこに立っていたのは千夏本人だったのだ。いつもの人懐っこい笑顔が直樹のことを嬉しそうに見つめている。

「か、かか、柏木っ!?」

 千夏の方から声をかけられるなんて全く考えていなかった。唐突に現れた千夏のアップに直樹の声が裏返った。

「あれ? そんなにビックリさせちゃった? 驚かせるつもりじゃなかったんだけど……」

 直樹の驚きと戸惑いが混じった複雑な表情は千夏にも伝わっている。あまりの動揺ぶりにむしろ千夏の方が困惑しているようだった。

 こんなにも慌てていては自分がここに来た「理由」を悟られてしまうかもしれない。直樹は隙間を埋めるように慌てて口を開いた。

「あはは、なんだ柏木だったんだ。……いきなり誰かに声をかけられるなんて思ってなかったから必要以上にビビってしまった」

 あくまでもいきなり声をかけられたのが原因だと装ってみるが、慌てる直樹の顔を覗き込んだ千夏がいたずらっぽく笑った。

「ほんと? 実は見られちゃマズイ現場を見られちゃったとかそういうのだったりして……」

「なっ、んなわけないじゃん。マズイ現場も何も、俺、駅から出てきて立ってただけなんだし」

「あはは、それもそっか」

 正直やましい。ただ駅前で立っていただけというのは事実としても、直樹の頭の中にはずっと千夏がいて、街の中をぼんやりと泳ぐ視線は無意識に千夏の姿を探していたのだから。

「でも何でこんな所にいるの? 楠本君の最寄り駅ってここなの?」

「いや……俺はその、今日は欲しいCDがあってちょっとそこの店まで……」

 直樹はとっさに視界の隅にあったCDショップの看板を指差した。すると千夏は特に疑う様子もなく、なるほどといった感じでうなずいてみせた。

「それより柏木こそどうしてここに? 単なる帰り道?」

「私? 私はこれからバイトなんだ」

 話をごまかそうと話を振っただけなのに、直樹が知りたくてたまらなかったことが千夏自身の口から飛び出した。聞くなら今しかないと、直樹は急に思い出したような口ぶりで訊ねてみた。

「バイト? ああそっか、そういや古本屋でバイトしてるって言ってたね。この辺にお店あるの?」

「うん、すぐそこのビルにお店があるんだ。ほら、あそこ」

 千夏はロータリーから伸びた道の奥を指差してみせた。そのビルは歩いてすぐの距離だ。

「へー、駅から近いんだ。たしか専門書みたいなのばっかりなんだっけ?」 

「……ちょっと見に来てみる?」

「え、いいの!?」

 予想外の千夏の言葉に直樹のぼんやりとした目がひと際大きく見開いた。

「楠本君さえ良ければ遊びにきて! うちのお店お客さん全然来ないから退屈なんだもん。楠本君が来てくれるんなら大歓迎!」

 どんな口実で店に行くかを必死に考えていた直樹は千夏の方から誘われるだなんて考えてもみなかった。

「そっか、じゃあお邪魔してみようかな……」

 直樹は心の中の喜びを悟られないように気持ちを抑えながら控えめにつぶやいた。するとそのささやかな呟きを千夏の大きな声が遮った。

「あ、でもCD買いに行くところだったんだっけ?」

 ここへ来た理由としてとっさについた『嘘』のことなどスッカリ忘れていた。千夏にCDのことを言われ、直樹の声が慌てる。

「いやっ! それは今度で大丈夫! 別に今すぐ必要なわけじゃないし、なんだったら帰りにでも寄ってくから気にしないで」

「そう?」

「えーと、お店どこって言ったっけ? ほら、行こ!」

 CDの話を続けても嘘が増えていくだけだ。直樹は千夏が口を開くよりも先に歩き始めた。すると千夏も小さな歩幅の足をちょこまかと動かして直樹を追いかける。

「向こうに銀行見えるでしょ、あの向かいにあるのがうちのお店の入ってるビルだよ」

 千夏の話したビルは目と鼻の先だった。わずかに歩いただけで二人はそのビルの前へと辿り付いてしまい、直樹には隣を歩く千夏の横顔を眺める時間すら無かった。

 わずか数十秒、あっと間に目の前へ現れたビルは商業的な匂いを感じない、マンションのように地味なビルだった。一階は駐車場となっており、二階から上は灰色の扉が規則的に並ぶ。とても店が入っているようには思えない雰囲気だ。

「こっちだよ」

 千夏は駐車場の脇にある階段を使って二階へと上がってゆく。直樹もその後を追い二階までついてゆくと、外から見たように灰色の扉が並ぶ廊下へと出た。千夏はその中にある扉の一つに立つと、鍵を使ってその扉を開けようとしている。その様子を見て直樹はまるで同級生の住むマンションに遊びに来たような気分になっていた。しかしその扉に貼られた「古書 葉重堂」のプレートを見てかろうじてここが店なのだと実感できた。

「どうぞ」

 千夏は直樹をチラリと見るとそのまま部屋の中へと消えていった。千夏の姿を追いかけて中に入るとひんやりとした空気が体を包む。

「おお……」

 中に入ると天井まで届くほどの背の高い本棚が並び、その棚には百科事典のように分厚い本が並んでいる。英語やドイツ語の本やら、旧漢字で書かれた古めかしい本まで、背表紙を見ただけでは何の本かわからないものばかりが棚の端から端まで埋め尽くしていた。「医学」「建築」など、分類用に挟まれたプレートくらいしか直樹に読めるものは無さそうだった。

「楠本君ゴメン、ちょっとだけ待っててくれる。お店開ける準備だけしないといけなくて……」

「ああ、全然気にしないで。いきなり来ちゃったんだしテキトーに待ってるから」

「ほんとゴメンね、オーナーの叔父さんってばお店閉めてどっか行っちゃうから、お店開けるのとかも全部私の仕事になっちゃってるんだ」

 千夏は手を顔の前に持ってきてゴメンと申し訳そうな表情をすると、奥のカウンターにカバンを置いて、その裏にあった扉の奥へと入ってゆく。扉の向こうが事務所となっているのか、雑多に積み上げられた荷物や書類がチラリと見えた。

 千夏のいなくなった室内で直樹はずらりと並ぶ本の中の一冊を取り出してみた。「複合素材の界面評価と制御技術」と書かれた本を何気なく広げてみたが、見たこともないややこしい図形と何十行にも及ぶ数式が目に飛び込んできて、見ただけで頭が痛くなってくる。とてもじゃないが直樹には一ページたりとも読めそうになかった。そしてふと裏表紙に書かれた本の値段を見てますます頭が痛くなる。

「二万四千八百円……」

 ここが自分にはまるで縁の無い書店だということをたった一冊の本を見ただけで実感できた。直樹は傷をつけないよう慎重に棚へと本を戻すと大きなため息をついた。本を読んでもいないのに疲れている自分に苦笑しか出てこない。

 すると不意に扉の向こうから千夏の声が聞こえてきた。

「ねえ楠本君、飲み物は麦茶でいい? 冷たい方がいいよね?」

「え、飲み物? ああ、ありがとう! えと、俺は別に何でも……」

「りょーかーい!」

 扉の向こうからは飲み物の準備をしているのか、何かしている千夏の物音が聞こえてくる。その音を聞いていると、ややこしい本を開いて重たくなってしまった頭の中が軽く晴れやかになってゆく。直樹はただぼんやりと音のする扉の向こうへ意識を向けた。

「お待たせ!」

 扉が開くとトレイを手にした千夏が現れた。トレイの上のグラスをカウンターへ二つ並べると、奥から丸イスを取り出して直樹の前へと置く。

「さ、座って!」

 促された直樹がイスに座ると、千夏は麦茶の入ったグラスを直樹の前へと置いた。中の氷が麦茶の中を泳いで涼しげな音を鳴らす。千夏もカウンターのイスへと座ると、直樹と千夏はカウンターを挟んで向かい合わせとなった。

 目の前にある千夏の顔を見て、あらためて二人きりなのを実感して直樹は緊張した。人が大勢いたショッピングセンターの時とは違い、辺りには誰もいない。古めかしい掛け時計の振り子が刻む音だけが聞こえ、その音に合わせて緊張が加速する。グラスについた水滴のように直樹の顔にも汗が浮かんでくる。しかし千夏はまるで緊張などしておらず、いつものように人懐っこい笑顔を浮かべている。いつもの明るい表情のままままグラスを手に取ると、千夏が直樹の方へとグラスを差し出した。

「それじゃ、とりあえず乾杯しよ! ……楠本君、いらっしゃい!」

「あ、その……いらっしゃいました……」

 直樹は千夏のグラスに自分のグラスを当てて乾杯する。どこか遠慮しがちにぶつかったグラスの控えめな音が静かな部屋に響いた。そしてすぐに元の静かな空気が戻ってくる。

「あの……いいのかな俺、こんなところでお茶飲ませてもらっちゃって……」

 直樹が座っているのはカウンターの目の前だ。会計をするための場所に座って麦茶を飲む自分の姿がどうにも落ち着かなかった。こんな状況で客が来ようものなら気まずいどころではない。

「気にしないで、うち、お客さん全然来ないから」

 どこか小さくなっている直樹をよそに千夏は落ち着いたものだ。麦茶をひと口飲むと満足げに息を吐いた。

「ここって見ての通り専門書ばかりでしょ、ふらりと買いにくるお客さんて全然いないんだよね。大抵は電話やメールで在庫の確認をしてから買いに来るし、あとは郵送だったりするから電話さえかかってこなければホント座ってるだけだもん」

 いつものことだといった様子で千夏は退屈そうに伸びをしてみせた。

「だから楠本君が来てくれてよかったよ。いつもはすること無くて本を読んで時間を潰すしかないんだもん」

 千夏はカウンターの隅に転がしたカバンから取り出した本を顔の前で軽く振ってみせる。すると千夏が持つ本の間から鳥のしおりが見えた。 

「あ、それ……」

 見慣れた鳥のしおりに直樹が思わず声を上げると千夏の口からは嬉しそうな笑い声が漏れた。本に挟まったしおりを取り出すと直樹に見せ付けた。

「えへへ、この前のしおり、大活躍中だよ!」

 千夏は手にしたしおりを嬉しそうに眺めている。

「楠本君の方はどう? 使ってる?」

「もちろん! すごく気に入ってるよ」

 鳥のしおりをちらつかせる千夏に直樹は即答した。しかし直樹の場合は使っていると言っても本に挟んでいるわけではない。しおりそのものを眺め、あの日のダブルデートを思い出すのが直樹の使い方だ。しおりをただ眺めているだけであの日一緒だった千夏の姿がすぐに浮かんでくる。直樹にとってしおりは幸せな時間を思い出すための道具となっていた。

 しかしそんなことを知らない千夏はただニコニコと直樹を見つめるだけだった。

「……そういえば柏木は今、どんな本読んでるの?」

「これ? これは友達に薦められたのなんだけど……」

 本のことを訊ねると千夏がますます嬉しそうな笑顔を向ける。本を広げて内容を説明する千夏と直樹の距離が近付く。一人きりの部屋でしおりを眺めている時とは比べものにならないほどに幸せな瞬間が目の前にあった。

 静かで二人きりという空間に最初は戸惑いのあった直樹だったが、屈託なく話しかけてくる千夏と言葉を交わすうち、グラスの中の氷が融けるのと同じように直樹の緊張も解けていった。

 しかしそんな空気を遮るように壁にかけられた時計がポーンと鳴った。するとその音に慌てた様子で千夏が立ち上がった。

「そうだ! 銀行!」

 丸くなった千夏の目と直樹の目が合う。するとパンと音がするほどの大きな音で千夏が手を合わせて頭を下げた。

「ごめん楠本君、ちょっと銀行まで行ってきていい? 振込みの確認してこなきゃいけないの忘れちゃってて……」

「あ、それなら俺帰るよ……」

 ずいぶんと慌てた様子の千夏に直樹は立ち上がろうとしたが、その言葉が終わらないうちに千夏が遮った。

「まだ帰らないで! すぐ戻ってくるから少しだけ待ってて、お願いっ!」

「でも……」

「せっかく来てもらったのにこんなすぐに帰しちゃったら悪いもん。銀行は目の前だし、ほんとにすぐ戻ってくるから待ってて……ね?」

「そこまで言うなら……」

「ありがとう! じゃあダッシュで行ってくるね!」

 そう言って千夏はカウンターの裏にある扉へと駆け込んだ。そして中から小さなセカンドバッグを持って飛び出してきたかと思うと、そのまま店の外へと駆け出した。

「それじゃすぐ戻るからちょっとだけ留守番お願い!」

「って、お店に誰か来たらどうするの!?」

「大丈夫! お客さんなんか来るわけないから!」

 駆け出した千夏の声は遠くなり、直樹は一人取り残された。千夏の笑顔と声が消え、ただ本だけが並ぶ空間は急に寂しいものへと変わってしまった。千夏の飲みかけのグラスの氷が溶け、小さな音を立てる。しかし一人残された空間も直樹には悪い気がしなかった。帰ろうとした自分を千夏が引きとめてくれたことが直樹にはただ嬉しくてたまらない。直樹を引きとめた時の千夏の言葉を思い出すだけで寂しさは消えてしまう。直樹は幸せな記憶を反芻しながら、店の入口の無愛想な鉄の扉が開いて千夏が戻ってくるのをただ待った。

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