ミューが連れてきたもの。

11‐1

 午後の日差しはずいぶんと柔らかくなり、秋を感じさせる風が顔を撫でる。

 いつもの河川敷、いつもの草むらの奥、いつものベンチ。そこにいつもよりずっと安らいだ表情の直樹がいた。

「ついにテストも終わったけど、結果はどうだった?」

 足を投げ出し、全身をベンチに預けるようにして空を見上げる直樹を少女が覗き込んだ。頭からバッグを被ったいつもと同じ姿の少女が青空の中に浮かんで見える。

「テスト? この穏やかな表情を見たら聞くまでもないでしょう?」

 直樹は目を細めると猫のように全身で伸びをしてみせる。

「お、ずいぶん余裕だね、とりあえず赤点にはならずに済んだのかな」

「いやいや、赤点どころか今までで一番良い成績取っちゃったかも」

 テスト返しがまだとはいえ、結果を不安に思う必要がないくらいの手応えを直樹は感じていた。それもこれも全て目の前に立つ少女のおかげだ。この一週間、少女との勉強会で頭に叩き込んだもの全てがそのまま試験に反映できた。試験範囲すらわからないほどだっただけに、彼女が付きっきり勉強を見てくれなければ赤点でもおかしくないほどの状況だった。

 直樹は投げ出していた体を起こすと、姿勢を正し少女へと体を向けた。 

「あのさ、本当にありがとうな。まさか試験の後にこんな風にボケーッとしてられるなんて思ってもみなかったよ。もし勉強を見てもらっていなかったら今頃真っ青になってたと思う」

「そっか、どうやら私なんかでも少しは役に立ったみたいだね」

 まんざらでもないのか、少女の声もどこか得意げだ。

「少しどころじゃないよ、かなり、相当……いや、猛烈に助かりました」

「あはは、ちょっと大袈裟だってば。上手くいったのは楠本君自身が頑張ったからだよ」

 謙遜してはいるが、頭のバッグからはみ出した少女の髪が嬉しそうに跳ねる。

「でもさ、一人じゃいくら頑張ってもどうにもならなかったのは事実なわけだしさ、何の得にもならないのに毎日勉強を見てくれて、本当に感謝してる。それにほら……」

「……ほら?」

「わざわざクッキーまで作ってきてもらっちゃったし」

「クッキー!?」

 直樹が口にする褒め言葉の数々に体をくねらせていた少女だったが、突然飛び出したクッキーという言葉を聞いた途端、その体が固まった。

 かと思うと、急に慌てた口調でまくしたて始めた。

「あ、あれ! あれね。あれはその、全然気にしないで! なんていうんだろ、アレはただちょっと作ってみただけで大した意味なんてないし、ほんとただの気まぐれでやったことだからそんなわざわざ話題にするようなことじゃないし、だからその、ほんと気にしないで!」

「でも俺のためにわざわざ作ってくれたんでしょ?」

「それはまあそうだけど……でもあれ、あんまり上手にできなかったから……」

「そんなことないよ、普通に美味しかった」

「嘘だよ、失敗したのいっぱいあったもん」

「いや、まあ中にはちょっと苦いのもあったけど、それはそれでアクセントというか、とにかく美味しかった。嘘じゃないよ」

「……ほんとに?」

「もちろん」

 直樹の言葉に嘘はなかった。直樹の中の少女に対する感情は勉強会の一件によってずいぶんと変わってきていた。多くの時間を割いて勉強に付き合ってくれた優しさも、少し不格好な手作りのクッキーも、自分に向けてくれたエネルギーの大きさを感じるには十分だった。直樹自身は少女に対して特に何かを返したわけでもないのに、そこまでしてくれる。初めて会った頃には感じていなかった感情が直樹の中には芽生え始めていた。しかしその感情を言葉にするのは難しく、なかなか次の言葉が出てこない。

 少女も直樹の言葉を聞いたきり黙ってしまい、二人の間を沈黙が流れた。

 風に揺れる葦原の音がやけに響く中、沈黙に耐え切れなかったのか少女がわざとらしく大きな声をあげた。

「そうだ! そんなことより千夏ちゃんだよ! テストも無事に終わったんだし、また何か楠本君と千夏ちゃんの距離が縮むこと考えないと!」

 しかし直樹といえば、千夏という名前を聞いてもどこかぼんやりしていた。

「柏木……そういやここ最近はずっとテストのことばかり考えてて柏木のことすっかり忘れてたな」

「ちょっと、しっかりしてよ。そもそも千夏ちゃんと別れ別れになりたくないから勉強頑張ったんでしょ」

 確かに最初はそうだった。しかし今はあの勉強会で芽生え始めた少女に対する微妙な感情が直樹の心の多くを支配していた。ずっと好きだった柏木千夏への思いよりも、目の前にいるこの奇妙な少女に対する思いの方が今の直樹にとってはより強い。ただ、その感情が何なのか直樹自身の中でもまだはっきりしておらず、ただもやもやとした落ち着かなさが直樹を支配している。

 とにかく今は少女と一緒になって柏木千夏の話をする気にはなれなかった。

「忘れているといえばもうひとつ、ミューはどこに行ったんだ? 今日は見かけないけど……」

 わざと話題を逸らすように、直樹は何度も首を振ってミューの姿を探す。

「ミューってば最近あちこち歩き回ってるみたいなんだよね。少し大きくなって体力もついてきたし、近くを探検して回るのが楽しくなってきたのかも」

「へー、あいつも成長してるんだな」

「ま、お腹が空けば戻ってくるでしょ」

 少女がそう口にした瞬間、直樹たちのいるベンチを取り囲むように広がった葦原の、少し遠い場所が微かに揺れた。

「お、ミューかな? 早速帰ってきたみたいだ」

 しかしその草の揺れ方は猫にしては大きすぎた。遠くの葦が一瞬小さく揺れたかと思うと次の瞬間には葦が左右に大きく揺れ、葦の擦れるガサガサという音が直樹たちの元にまで聞こえてきた。葦を掻き分け、ゆっくりとこちらに向かってくるその気配は人間に間違いない。

「おーい、猫くーん! どこいったー」

 揺れる草の音と共に聞こえてきたその声に直樹の顔色が一瞬で変わった。

「……柏木!?」

 直樹がその声を聞き間違えるはずがない。声の主は柏木千夏に他ならない。あの柏木千夏が草をかき分け、こちらに向かってきている。

 もはや言葉も浮かんでこない。直樹は口を半開きにしたまま固まるしかなかった。もしもこの場所に柏木千夏が現れ、バッグを被った少女と自分の姿を見たら一体どんな反応をするだろう。そしてなによりこの状況をどう説明すればいいのか、対処のしようがない状況を前に思考が完全に停止してしまっていた。少女も声の正体には気付いているようで、直樹の方をジッと見つめたまま固まっている。

 すると二人の前に葦原を抜けたミューが飛び出してきた。二人の動揺など知る由もなく、跳ねるように駆け出すと少女の足に飛びついた。

「どうしよう楠本君……」

 ミューを抱き上げた少女の声がうろたえている。

「どうしようって、俺だってどうしたらいいか……」

「おーい、猫くーん!」

 千夏の声はもうすぐそこまで迫っていた。声と共に揺れる葦が直樹たちのいる丸く開けた空間にたどり着くのは時間の問題だ。しかし直樹たちはどうすることもできず、揺れる葦を二人でただ眺めることしかできなかった。

 揺れる葦は躊躇なく近づき、ついに二人のいる空間へとたどり着いた。草をかき分ける騒がしい音と共に現れたのはやはり柏木千夏だった。急に開けた空間へと飛び出したことに驚いたのか、千夏は不思議そうに辺りを見回したが、その視線がすぐに直樹たちの姿をとらえた。

「楠本……くん? え、なんで?」

 予想外の場所で同級生に出くわしたことで千夏の大きな瞳がますます丸くなって直樹を見つめるが、直樹はといえば表情をこわばらせるだけだ。

「ど、どうも……」

 直樹はかろうじて言葉を発するが、その時にはもう千夏の意識は直樹には向けられていなかった。直樹のすぐそばに立つ頭からバッグを被った奇妙な格好の少女が気にならないはずがない。千夏は少女に目を奪われ、ただ不思議そうにその姿を眺めていた。

 千夏が上から下へ、下から上へと視線を動かすが、少女はその視線を前に身動きひとつできず、わずかにうつむいたまま、ただじっとその視線を浴び続けた。

「あの、えーと……この人は……」

 それは当然の疑問だった。

「あ、こいつ? こいつはその……猫、かな」

「ねこ?」

 奇妙な光景に不思議な表情を浮かべていた千夏の表情がさらに加速する。少女が抱きかかえる仔猫のミューと、抱きかかえる側の少女自身とを、千夏の視線が行ったりきたりする。

「いや、ねこじゃなくて、そっちの……」

 千夏にはこの少女が『ねこ』だと言ったところで通じるはずがない。千夏が目の当たりにしている目の前の少女には猫らしき要素などない。バッグのてっぺんにはバンダナで作った猫耳が付けられていたが、これまでの経緯を知らない千夏がそれを耳だと認識するはずもない。

 相変わらず怪訝な表情を崩さない千夏を前に、少女は救いを求めるように直樹をチラリと見たが、直樹にもこの場を切り抜ける手段などなく、情けない顔がそこにあるだけだった。

「だから、その……そっちも猫なわけで……」

「……ねこ?」

 もう一度、千夏が尋ねるように声を上げると、少女は抱きかかえた仔猫を地面降ろした。そしておもむろに右手を上げ、その指先を丸めてみせた。

「にゃ、ニャー」

 しかし何も起こらなかった。

 少女が恐る恐る猫の真似をしてみたものの、それを聞かされた千夏はただ呆然とするばかりで辺りに気まずい沈黙が流れるだけだった。全てが静止したような空気の中、仔猫のミューだけがやたらと元気に少女の足元の地面を何度も転がった。

 もはやその場にいる三人ともがどうしたらいいのかわからず、お互いがお互いを見つめたまま固まっていた。しかしその気まずさの中、少女を見つめる千夏の目の色がわずかに変わった。何か考えるように眉間にしわを寄せたかと思うと、その口が小さく動いた。

「あの……もしかして……」

 千夏が一歩足を踏み出すと少女の背中がぴくりと大げさなほどに伸びた。

「美霜ちゃん……だよね?」

 その瞬間だった。千夏の言葉を聞くか聞かないかの一瞬の間に、あれほど硬直していた少女が突然弾けた。

「あーーーーーーーーっ!」

 悲鳴とも絶叫ともつかない大声をあげたかと思うと、あっという間に千夏の前へと駆け出し、千夏の肩をがっしりと掴んだ。突然の出来事に目を丸くする千夏だったが少女はそんなことお構いなしで体を千夏に押し付け、そのまま草むらの方へと押し返す。

「あーーーーーーーーっ!」

 少女の叫びは尚も収まらず、千夏を草むらの中に押し込み、その体をさらに奥へと追いやった。呆気にとられた直樹の目線から揺れる草むらがどんどん離れてゆく。

 やがて少女の叫び声も揺れる草も遠くなり、ついになんの気配もなくなった。ただひたすらに静かな空気と直樹だけが葦原の中のベンチにとり残された。

 そして、いつまで待っても少女と千夏が戻ってくることはなかった。

「美霜……美霜って言った、よな……」

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