10‐4

 テストを翌日に控えたテスト前の日曜日。この日も直樹は自習室にいた。

 少女に勉強を教えてもらうことになったあの日からほぼ一週間、直樹と少女の勉強会は毎日続いていた。二人きりの自習室、直樹は机の上に広げたノートと教科書の文字をひたすら追いかけ、少女は背後から要点をアドバイスする。いつも頭に被っていたカバンを取り、素顔のままで直樹を指導するというスタイルに最初の数日こそ緊張感もあったが、直樹は少女との約束を守り、回を重ねることに深まった二人の信頼関係のおかげで少女の中にあった警戒感もすでになくなっていた。

「あー、今日はいつもより時間長くてさすがに疲れた……ちょっと首回していい?」

「だーめ、こっち向くのは禁止。首じゃなく頭を回転させなきゃ、でしょ?」

 直樹が冗談めかして後ろを向こうとするが、もはやそこに緊張感は無い。お互いを信頼した上でのジョークとして会話が弾む。

「それにしてもさ、絶対に後ろを見ちゃいけないなんて、ちょっと鶴の恩返しっぽくない?」

「あのね、逆だよ逆。これが鶴の恩返しなら私が恩を返してるみたいでしょ。言っとくけど恩を返すのは私じゃなく楠本君の方なんだからね!」

「ぐ、おっしゃる通り……です」

 全くもって返す言葉もない。この一週間、ずっと勉強を教えてくれた少女に対する直樹の恩は計り知れない。恩を返さなきゃいけないのはどう考えても直樹の方だった。

「そっか、そうだよね、これだけ色々してあげたんだから私が恩返ししてもらわなきゃだよね」

 少女の声が嬉しそうに跳ねた。

「ふふふ、どんな恩返ししてもらおっかなぁ」

 前にアイスをおごらされたことが頭をよぎる。ヘタに刺激して無茶な要求でもされたらたまらないと、直樹はノートに目をやり再び勉強へと意識を向けた。

「ちょっと待って、そこの光電効果の図はちゃんと覚えておいて。『光は波でもあり粒子でもある』って所は絶対問題に出るから忘れないでね」

 始めたばかりの頃に比べればずいぶんとリラックスした空気だったが、そんな中でも少女は手を抜くことなく、要点を押さえた的確な指導は全く勉強をしていなかった直樹の頭にもすんなり入ってくる。家に帰れば少女に貸して貰ったノートで復習し、これまで教わったどの教科も十分すぎるほどの学習効果があった。

「その図もしっかり覚えておいてね」

 背後から聞こえる少女の声。バッグをかぶっていない澄んだ声もすっかり耳に馴染んだ。背後からの気配を感じることだけしかできなかったが、いつの間にかその気配に安心感を覚えるようになっていた。

「……いよいよ明日から試験だけど、大丈夫そう?」

 ペンを走らせる直樹の指を見ながら少女が訊ねた。

「たぶん大丈夫だと思う。どの教科も普段よりずっとわかる感じだし、この調子なら前よりずっと良い成績が取れるかも」

「そっか、なら安心だね。私も勉強を教えた甲斐があったかな」

 どこかホッとしたような声を上げた少女の髪が直樹の視界の端で揺れた。

 少女の言葉の通り、直樹のこの学習成果は全て少女の助けによるものだ。赤点にだってなりかねない状況を毎日の勉強会で救ってくれた少女への感謝は計り知れない。今更ながら直樹は少女の協力に感謝していた。

「色々ありがとな。おかげで助かったよ」

「助かったかどうかはまだわからないよ。まずは無事に試験を終わらせないとね」

 そう言うと少女が一枚の用紙を机に置いた。勉強会の恒例となっている締めの小テストだ。この小テストを直樹が解いている間に少女が図書館から去るのがいつもの終わり方となっていた。

 ルーズリーフに手書きされた手作りの問題用紙もすっかり見慣れたものになっていたが、毎回問題を作るその労力を思うとただただ頭が下がるばかりだった。そしてその苦労を思う一方で、この小テストもいよいよ最後となると妙な寂しさもわいてくる。

 直樹が複雑な思いで机の上の小テストを眺めていると、少女が小さな紙袋を机の端に置いた。茶色のシンプルな紙袋は手のひらに乗るほどの可愛らしいサイズで、袋の上がくるくると折りたたまれ、花柄のマスキングテープで留められている。唐突に現れた紙袋を直樹は思わず覗き込んだ。

「何これ?」

 直樹の問いに少女は一瞬黙ったが、少しの間をおいてポツリと呟いた。

「……お菓子」

「お菓子!?」

 少女の発した予想だにしなかった一言に思わず背後へ振り返りそうになったがとっさに堪えた。

「ほら、毎日勉強勉強で頭を使いっぱなしだったでしょ、勉強会も今日で終わりだから甘い物でも食べて脳を休めてもらおうかなって……」

「そっか……」

 そんな所にまで気をかけてくれていたことがあまりにも驚きで、直樹は何とも中途半端な返事をしただけで言葉を詰まらせてしまった。少女も照れ臭かったのか、それきり何も言わない。

 思いがけない沈黙が二人を包む。その落ち着かない空気にようやく我に返った直樹は慌てて言葉を探し始めた。

「あ、えと、わざわざこんな物まで用意してくれてたんだ」

 直樹はそう言いながら机の端の紙袋に手を伸ばしたが、少女がそれを制した。

「まだ触っちゃダメ! 図書館は飲食禁止だから家に帰ってから!」

「いや、もちろんここじゃ食べないけどさ、どんなお菓子かなのかなぁと」

 なおも手を伸ばそうとする直樹を見て少女の声が急に強くなる。

「見るのもダメ!」

「なんで?」

「なんでって……」

 慌てた声だった少女のトーンが急に落ちたかと思うと、消え入りそうな声で呟いた。

「そのクッキー、私が作ったものだから……」

「作った!? 手作りなの? これ!?」

 少女が口にした言葉はまたしても予想の外にあるものだった。お菓子なんていう物を用意してくれていたことだけでも十分すぎる驚きだったというのに、それが手作りだと聞かされ、直樹は机の上に置かれた紙の包みをジッと見つめることしかできなくなっていた。驚きの表情で紙袋を凝視する直樹に気付き、少女は紙袋を机の端の端まで移動させた。もはや机の端から転がり落ちてもおかしくないほどで、紙袋の半分近くは机からはみ出してしまっている。

「もう! だから後にしてってば! 今それ見られたらどんな顔していいかわかんないよ」

「どんな顔って、どうせ後ろ向けないんだからどんな顔だって構わないだろ」

 恥ずかしそうに上ずっていた少女の声に冷や水をかける直樹の一言。もっともすぎる言葉に言い返すこともできない少女は教科書で直樹の頭を叩いた。

「とにかくそっちは気にしちゃダメ! それより今はこっち! ほら小テスト!」

 少女の細く白い指が机の上の問題用紙を叩く。

「今日で勉強会も最後なんだから、きっちり全問正解して終わらせてよね」

 最後という言葉が直樹の頭に響いた。何日も続いた二人きりの勉強会もいよいよ最後なのだと少女の言葉にあらためて思い知らされる。

 直樹が問題を解いている最中に少女は帰る準備をし、全ての問題を解き終わる頃にはすでに少女の姿はなくなっているだろう。こうして少女と話す時間はもはやほんの僅かしか残されていない。

 少女に促され、ペンを手に問題用紙へと視線を落とすが、その視界の端にはあの紙袋がぼんやりと見える。手書きの小テストも視界の端の手作りの菓子も、全て少女が直樹のために手間をかけて作ってくれたものだ。半ば強引に頼んだ勉強会だったが、少女は手を抜くこともなく、むしろ信じらないほど丁寧に付き合ってくれていた。目の前の小テストを見つめ、今更ながらそのありがたさを直樹はしみじみと噛み締めていた。

「あのさ、色々ありがとうな。ここまで付き合ってもらった以上、絶対にいい成績取るから」

「お礼なんかいいよ。形としては私が楠本君に勉強を教えてたわけだけど、人に勉強を教えるのってどうやったら解りやすいかとかを考えたりするから自分にとっても勉強になるんだよ」

「なるほど……」

「というわけでこっちにも得るものがあったんだし、あまり気にしないで」

 少女はテキスト類を片付けながら、大したことないといった様子で簡単に言ってのける。

「あ、でも楠本君がどうしてもお礼をしたいっていうならいつでも受け付けてるからね」

くすくすといたずらっぽく笑う少女の声が直樹の背中に聞こえてくる。

「どこかで聞いたことあるセリフだな、それ」

「懐かしいでしょ」

 そう言ってまた笑う少女の声を聞き、河川敷で子猫に初めてエサをあげた日のことが直樹の頭の中に蘇る。少女が近くに隠れていることを知らないまま子猫に話しかけていたあの日のことはもうずいぶんと遠い昔に思えた。

 初めて会った頃は興味本位で他人の恋を覗いてくる嫌な奴、くらいにしか思えなかったのに、あの河川敷で色々と話すうちにずいぶんと印象が変わったのは間違いない。頭にバッグを被り、恰好こそふざけてはいたが、柏木千夏に関して一人ではどうにもならないことにも力になってくれた少女が、恋愛の話をできる友人がいなかった直樹にとって大切な相談相手となるまでそう時間はかからなかった。誰かもわからない相手ではあったが、正体がわからないからこそ何でも話せる存在となったのかもしれない。

 しかし『知らない方が楽』だったはずなのに、直樹の中には全く正反対の感情が生まれ始めていた。

 勉強会を続けたこの一週間、少女は直樹のために様々なことをしてくれた。自分のためでもあるとうそぶいていたが、その労力のほぼ全てを直樹のために使ってくれていたことはいくら鈍感な直樹でも容易に想像できた。

 そしてそれは勉強会に始まったわけではない。

 今までだって興味本位以上の関わり方をしてくれていた。直樹一人では知りようもなかった柏木千夏の情報も、どう接したらいいか悩んだ時のアドバイスも、少女は常に直樹のことを考えて行動してくれていた。そこまでしてくれる人間が誰なのか、直樹の中で少女の存在は大きくなる一方だった。

 知らない方が楽だったのに、今では知りたくてたまらない。

 今この瞬間ならば、ただ振り返るだけで少女の正体を知ることができる。以前のような正体を暴いてみたいという興味本位なものとは違い、もっと感情としてストレートな、この少女のことをより知りたいという思いがどんどん強くなっていた。

 しかし、やはり直樹には振り返るだけの勇気は持てなかった。ペンを強く握り締め、背後の気配に意識を集中することしかできない。

「それじゃ私は帰るね。これだけ頑張ったんだから大丈夫だと思うけど、明日からのテストしっかりね!」

 自習室の柔らかな床に足音がかすかに鳴ると扉を開いて少女が出てゆく。その瞬間、直樹はペンを強く握り直し、問題用紙を睨み付けた。

 少女との約束を破ってまで振り返ることはできなかったが問題を早く解けば今すぐに帰ることだってできる。少女がまだ図書館から離れないうちに小テストを終えることが今の直樹にとってできる精一杯の行動だった。

 小テストの問題用紙に覆いかぶさり、一問、また一問と問題を解いてゆく。少女から丁寧に勉強を教わったおかげで問題を解くことには何の苦も無い。とにかく一秒でも早くと頭の中を引っ掻き回す。

 そしていよいよとなった最後の一問を解き終わると問題用紙を裏返し、用紙の隅に書かれていた答えと照らし合わせる。何度も用紙をめくり直し、自身の答えと交互に見比べる。

「よし!」

 問題は全て解き終わった。直樹は教科書を乱暴に鞄へ押し込むと少女がくれた菓子の紙袋を手に自習室を飛び出した。

 一秒でも惜しい直樹は図書館であることも忘れて全速力で駆け出すが、廊下の先にこちらへ向かって歩いてくる司書の女性が見えた。向こうも気付いたようで、全速力で廊下を走る直樹を見て、その呆れた行動に目を丸くしている。

「ごめんなさい!」

 直樹は走ることをやめなかった。司書の女性が口を開こうとするが、司書の口から注意の言葉が出てくるよりも早く脇をすり抜け、階段を飛ぶように駆け降りた。

 閉館時間が迫り、子供たちの姿もすっかり消えた一階にはいつもの騒々しさは全くなく、背の低い本棚の間をドタドタ駆け抜ける直樹の足音だけが響いた。

図書館入口の自動ドアが開く時間ももどかしく、ゆっくりと開き始めたドアの隙間に無理やり体を押し込んで外へと出たが、すでに少女の姿はそこにはなかった。来た時には子供たちのカラフルな自転車でいっぱいだった駐輪場も直樹の自転車がぽつんと停まっているいるだけですっかり寂しくなっている。

 直樹は体の中の空気を全て吐き出すほどの大きなため息をつくとその場にしゃがみ込んだ。最後に振り絞った勇気も結局は間に合わなかった。

 落胆のあまり、うつむいたままその場から動けなかったが、手に持った紙袋が視界の端で揺れていた。直樹がその包みをそっと開けてみると中に入っていたのはクッキーだった。大きさも形も不揃いでいかにも手作りといった様子が見ただけで伝わってくる。一枚取り出してみたクッキーは妙に黒く、チョコなのかそれとも焦げすぎたのかもわからない。直樹が恐る恐る口に放り込んでみると、直樹の今の気持ちそのままのほろ苦い味が口の中いっぱいに広がった。

「甘い物で頭を休ませろとか言ってたくせに苦いじゃんか、これ……」

 しかし自分のために少女が作ってくれたものだと思うと、どこか照れ臭いような嬉しさがあった。

 直樹はもう一枚クッキーを取り出すと、その不格好なクッキーを角度を変えながらじっくりと眺めてみた。そして再び口へと放り込むと、今度はさっきよりもずっと甘い気持ちが直樹の全身を包んだ。

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