10‐3
直樹と少女の勉強会はそれなりに順調だった。
直樹は目を逸らすことなく机の上だけを視界に入れて勉強に集中している。時折、その視界の中に少女の手が現れ、細くて白い指が試験に出そうな箇所をなぞる。いかにも女の子といった小さな爪がトントンと大事な単語を叩いてみせる。時には机の上のノートを覗き込む少女の長い髪が直樹のすぐ脇で揺れ、甘い香りが漂う。シャンプーなのか整髪料なのか、それとも香水なのか直樹には知りようもなかったが、普段の自分には無縁の香りに包まれていると一瞬自分がどこにいるのかさえわからなくなってくる。
自分の弱みを握って色々とおちょくってくる厄介な奴、という存在だったはずなのに、背後に立って丁寧に勉強を教えてくれる少女はいつもの印象とはまるで違った。
「ねえ、ちゃんと聞いてる?」
耳元で聞こえる声はバッグを被っている時のこもった声でもない。可愛らしい少女の声を聞いていると全くの別人に勉強を教えてもらっているような気分だ。
わからない所があれば自分が使っていたノートを見せながら答えまでの道のりを一から丁寧に教えてくれる。大切な箇所になるとペンを持った手がノートへと伸び、可愛らしい丸く、小さな字で補足を入れてくれる。
優しく勉強を教えてくれる少女とこれまで見てきたバッグを被った少女、一体どちらが本当の姿なのだろう。
勉強に集中しなければと思いつつも、ふと気を抜くと余計な気持ちが邪魔をしにやってくる。これまでだって正体を知ろうと思ったことはあった。今ならただ振り返るだけでその正体を知ることができる。その誘惑が何度となく襲ってきたが、直樹には振り返ることは出来なかった。自分が振り返り、彼女の正体を知ってしまうことで何かが変わってしまうことが恐かった。
直樹は目を閉じて頭を何度も振り、余計な気持ちを頭の中から追い出した。
「よし!」
掛け声と共に顔を両手で叩くと直樹の視界の隅で揺れていた黒髪が一瞬で消えた。唐突にあがった声に少女は反射的に背後へと飛び退いていた。
「……何!?」
驚きと混乱の混ざった不安げな声は机からかなり離れた背後から聞こえる。
「あ、ごめん、ちょっと気合を入れ直した。今はぼんやりしてる場合じゃないからさ」
「なんだ、そういうこと……ビックリさせないでよもう!」
突然の行動に動揺した少女も直樹の言葉を聞いて安心したのか、再び視界の隅に少女の気配を感じた。
「ただ、せっかく気合を入れてもらったところで悪いんだけど、そろそろ閉館時間なんだよね」
自習室へやって来た時にはシッカリ差し込んでいた日差しも気が付けばずいぶんと傾き、二人きりの室内は鮮やかなオレンジ色に包まれていた。
「あれ、もうそんな時間なの? 全然気付かなかった……」
背後の少女に気を取られることもあったが、大半の時間を勉強に集中できていたため、今が何時かすら考えもしていなかった。
「というわけで今日はもうおしまい」
少女はそう言うと、直樹の頭のてっぺんを人差し指で軽く叩いてみせた。
「どう? ちゃんと頭に入った?」
「一応、大丈夫……かな」
頭の先に感じる少女の細い指のくすぐったさに思わず体がピクリと反応してしまう。それを誤魔化すように直樹は二、三度頬をかいた。
とりあえずやれるだけの事はやった。数式をギッシリ詰め込んだ頭は今にも破裂しそうだが、時間を忘れるほどに集中して机に向かった時間は思った以上に心地良いものだった。
「でも安心した。昨日はこの世の終わりみたいに落ち込んでたからどうなるか心配だったけど、教えればちゃんと理解できるし、このレベルなら赤点なんて事にはならないと思うよ」
「そうだといいんだけど……まあこれだけやったんだし何とかなってくれるといいな」
そう言って直樹はノートパラパラとめくってみた。ほとんど何も書かれていなかったノートがこの数時間でずいぶんと書き進められている。勉強した証がこうして形に残るのは案外悪くないなと、賑やかになったノートを見て直樹はしみじみ思った。
「あ、そうだ、私のノートも持って帰っていいから家でもちゃんと復習してね。勉強は復習が大事なんだよ!」
机には直樹のノートだけでなく、少女が参考にと見せてくれた彼女自身のノートも置いてある。少女は机の端にあった自身のノートに手を伸ばすと直樹が書いたノートの上に載せる。
「え、でもこのノート持って帰っちゃったらそっちが勉強できないんじゃ……」
「大丈夫、私は楠本君と違って試験直前に慌てる必要なんてないもん。普段からしっかり勉強してるから今更ノートなんか見直さなくても全然平気」
背後から少女の得意げな声が響く。頭からバッグを被った『いつもの少女』が相手ならこういった軽口に噛み付くところだが、丁寧に一から優しく勉強を教えてくれた『優等生』な彼女の言葉だと思うと、その真面目な勉強ぶりにただ感心するばかりで歯向かう気など一切起こらなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えてノート貸してもらおうかな、ありがとう」
振り返るわけにもいかないので直樹は少女のノートを手に取ると、それを背後に向けて振ってみせた。
「それじゃあ私は帰るけど、最後にコレをやってもらおうかな」
そう言って少女が机の上に一枚のルーズリーフを置いた。直樹がそれを覗き込むとそこには数学の問題が並んでいた。丸っこい手書きの文字で、今日習った範囲の問題が習った通りの順番で書き込まれている。
「いい? その問題を解き終わるまで顔を上げちゃダメだよ。全部解く頃には私はいなくなってるから、楠本君はそれを全部終わらせてから帰ること」
「なるほど、そういうことね……」
少女の言葉の意味を直樹も理解した。少女が最後に出したテストは彼女がこの場から離れるための時間稼ぎだ。直樹が問題に集中していれば少女は自分の姿を見られることなく安全に立ち去ることができる。そのために用意されたテスト問題だった。
ここまで力になってくれた少女に逆らう理由などない。直樹は片付けるつもりだったシャープペンシルを再び手に取り、問題用紙に視線を落とした。
「わかった、俺はこの問題を解いてから帰るよ。今日はその……色々ありがとう」
「どういたしまして。明日は英語の勉強にする予定だから、ちゃんと準備してきてね」
背後では少女が荷物を整理しているのか、布の擦れる音やジッッパーを閉める音が聞こえてくる。
「それじゃあ私はお先に……また明日!」
ひと仕事終えたといった感じで晴れやかな少女の声が背後から聞こえた。直樹が軽く返事をして左手を上げてみせると、背後に感じていた少女の気配は扉の閉まる音と共に消えた。
ずっと机に向かったきりだった直樹は自習室の空間を意識することすらなかったが、少女が帰り、一人きりになったその場所は急に広く、寂しく感じられた。それでも直樹は机から目を離すことなく、黙々と問題を解いていく。どこがテスト範囲かすらわからなかった直樹だったが、気付けばどの問題も詰まることなく解けている。これほどの学習成果があったことにしても、わざわざ手書きでこのテスト問題を作ってくれたことにしても、全てあの少女の苦労の上に成り立っている。
少女らしい、丸くて可愛らしい文字が並ぶテスト問題を眺めながら、直樹は心の中でもう一度少女に感謝した。
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