10‐2

 どれくらい経っただろうか、心地よい眠りの中にいた直樹は突然の息苦しさに襲われた。鼻の圧迫感と、いくら吸おうとしても吸えない空気が夢見心地の直樹を現実へと引き戻し、あまりの息苦しさに直樹の体がバネでも入っているかのように跳ね上がった。エサをねだる鯉のように大きく開いた口で辺りの空気を吸い込むと、その視界の中に少女の姿が見えた。いつもと同じ例のバッグを頭から被り、直樹の方をジッと見つめている。

「ずいぶんと余裕あるんですねー、先に来て勉強してると思ったら気持ち良さそうにお昼寝ですか?」

「あ、いや、これは……」

 呆れと怒りのこもった少女の声に直樹が慌てた。

「違うんだ、これはその一種の精神集中みたいなもので、これから勉強をするために気持ちを高めていただけで決して昼寝では……」

「ふーん、精神集中のわりにはずいぶん気の抜けた顔してたけど……」

 苦し紛れの言い訳など通じるわけがなかった。

「えと、その……ごめん。なんか静かだからつい眠くなっちゃって……」

「まあ、これだけ静かだと眠くなるのもわかるけどね」

 そう言うと少女は手に持っていた学生カバンを床に置いた。

「ねえ、ここすごい穴場だと思わない? 眠くなっちゃうくらい静かで誰もこないとかすごいよね」

「たしかに」

 図書館の自習室といえば受験生の一人や二人いるのが普通だ。しかし直樹が昼寝を始めてから少女が現れるまでの間、誰もこの部屋を利用した気配はなかった。

「子供図書館って名前だし、一階が子供でいっぱいでしょ? だからみんな自習室のことを知らないんだよね」

 あまり使われていない机を見ても少女の言葉の通りなのがよくわかる。

「いつもここで勉強してんの?」

「たまに、ね。誰も勉強しに来ないと自習室そのものが無くなっちゃうかもしれないでしょ」

 そう言って少女が小さく笑った。

「さあ、この自習室が無くならないためにも、楠本君もしっかり勉強してもらうからね」

 足元に置いたカバンを開くと、少女が中から教科書やノートを取り出し始めた。

「今日は数学からだったよね」

 少女はカバンから取り出したノート類を手に取ってはバッグを被ったままの顔に近づける。バッグの隙間から何の教科か確かめているようだが、さすがに確認し辛いのか頭を傾けたりノートをずらしてみたりしている。

「なあ、もしかしてそれ被ったまま勉強教えるの?」

 昨日、少女はバッグを被ったままで勉強を教えるのは無理だと言っていたのに、こうしてバッグを被ったままノートを選んでいる少女の姿が直樹は気になっていた。

「私のことはいいから楠本君も勉強の準備して。早くしないと時間無くなっちゃうよ」

 少女に急かされ直樹も数学のノートと教科書を取り出してみたが、授業をろくに聞いていなかった直樹が広げたノートは最初の数ページにいくつかの数式が書かれているだけでページの大半が真っ白だ。勉強していないのがはっきりとわかるそのノートを見られるのはさすがに恥ずかしかったが、そこから始めなければどうしようもできない。

「どう、準備できた?」

「えと、一応はオッケー、かな」

 しかし直樹の返事を聞いた少女はそれっきり黙ってしまった。不思議に思った直樹が少女の方へと向き直ると、ようやく少女が口を開いた。

「……勉強を教える前に一つだけ約束してほしいことがあるの」

「約束?」

「勉強中は机の上だけを見て教科書やノートから目を離さない。後ろは絶対に見ないこと。いい?」

「なにそれ、なんでそんな……」

「約束できるか聞いてるの!」

 直樹が言葉を言い切らないうちに少女が切り返す。なぜそんなことを言い出したのか直樹には理解できなかったが、勉強を教えてもらう以上は少女の要求に従うよりなかった。

「わかったよ、なんだかよくわからないけど約束する」

「じゃあ前を向いて……いい、もうここからはノートと教科書以外は見ちゃダメだからね」

 そう言った直後、少女が動いた。

 直樹は言われた通り教科書とノートに視線を向けていて背後の様子はわからなかったが、少女が背後でモゾモゾと何かをしている音だけは聞こえていた。そして背後から音がしなくなったかと思うと、少しの間を置いて直樹の耳元に少女の声が聞こえてきた。

「まずは三十二ページを開いて。そこからが試験範囲ね」

 少女の言葉が聞こえてきた瞬間、直樹の体がビクリと震えた。少女の言葉と同時に、直樹の顔の脇に長い髪がだらりと垂れ下がってきたのだ。

 突然の出来事に思わず振り返りそうになったが、少女の小さな手が直樹の頭を掴み、強引に視線を下へと向けさせた。

「ちょっと! よそ見しないって約束したでしょ!」

 その言葉に直樹の体が再びビクリと跳ねた。髪に気を取られ気付かなかったが少女の声は普段聞きなれた声とは違う透き通った声をしており、頭からバッグを被った状態で話す、聞きなれたいつもの声とは明らかに違っていた。

「もしかして……取った、のか?」

 何が起こっているのかを想像することは容易だった。反射的に背後へ振り向きそうになるが、少女の細い指が直樹の頭を抑え、必死で拒む。その小さな圧に我に返ると、直樹は自ら視線を机に落とした。自身の安全を確認できた少女は直樹の頭から手を離すと、少しの間を置いてつぶやいた。

「……取ったよ」

 直樹の視界の端にかろうじて見える少女の黒い髪が小さく揺れた。

「バッグを被ったままじゃ文字が読めないんだもん。だったら取るしかないでしょ」

「そうか、まあそうだよな……」

 考えてみれば当然のことだ。しかし実際、自身の背後に素顔を見せた少女がいるという事実は直樹を緊張させた。少女に初めて『遭遇』した時には正体を暴こうともしたし、その後にも何度だってその正体を知りたいと思った瞬間はあった。それだけに振り返るだけでその正体を知ってしまえる今の状況はとても落ち着かないものだった。

「どうしても勉強を教えてほしいって言ったのは楠本君なんだよ……約束守らなかったら怒るからね」

 いくら約束したとはいえ不安が拭えないのか、言葉の強さのわりに少女の声はどこかおどおどしている。いつもの図々しいほどに干渉してくる少女の姿しか知らない直樹は気弱な様子の少女を前にずいぶんと勇気の必要な頼みをしてしまったのだと今更ながら思い知った。

「大丈夫、約束は守るよ。正直……正体を知りたいって気持ちが無いと言ったら嘘になるけど、こっちが頼んだことなんだから裏切るような真似はしない」

 自分に言い聞かせるように直樹は机の上の教科書から視線を外さずにいると、不意に顔のすぐそばに気配を感じた。視線を動かさなくても少女の顔がすぐそばに近付いてきたことは簡単にわかる。あまりの近さにむしろ少女とは反対方向へと視線が泳いだ。

「わかった……楠本君のこと、信じるね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る