9‐2
「へー、家に行ってご飯まで食べたんだ……なんかすごいね」
少女はベンチに腰掛け、膝に乗せたミューの背中を撫でながら直樹の話を聞いていた。
「自分でも信じらんないよ。最初はさ、バイト先の本屋に行くかどうかすら迷ってたのに、それがいつの間にか柏木の家にいるんだもん」
直樹は落ち着きのない様子で少女の座るベンチの前を行ったり来たりしていた。昨日のめまぐるしさがそのまま行動になって現れているようだ。そしてそんな様子を前に少女がいたずらっぽく笑った。
「ほんの少し前までは携帯で隠し撮りした写真を見てニヤニヤしてるだけだったのにね」
「おい、それを言うか!」
直樹の頭に苦い過去が蘇る。ちょうどこの場所だ。たしかにここで携帯に保存してあった千夏の写真を眺めてニヤついていたのだ。そんな自分のみっともない姿を目の前にいるこの少女にこっそり見られていたわけで、あらためてその事実を突きつけられると猛烈な恥ずかしさがこみ上げてきて、広げた両手の指が何度も空を引っかいた。
「でもさ、そんな状況からこんなに早く親密になれたんだから、やっぱりすごいよ」
「親密……親密か……」
少女が口にした親密という言葉に直樹の顔が曇る。急に落ちた声のトーンに少女が首を傾げた。
「なに?」
「いやさ、柏木に言われたんだけど、俺はまだよそよそしい感じなんだって。ホントの部分を見せてないとか」
「……見せてないの?」
真っ直ぐ突き返された少女の言葉に直樹は頭をかいた。
「別に何か隠してるつもりはないけど、何を話していいかわかんない感じはあるかも。柏木が振る話に答えてるだけっていうか……」
あらためて千夏と一緒だった日のことを思い出すと、自分の会話がひどくつまらなかったように思えてくる。自分は彼女につまらない時間ばかりを与えていたんじゃないかと急に不安が襲ってきた。
「んー、でもまあ最初はそんなもんじゃないの? いきなり仲良くなれるもんじゃないでしょ」
「そうかな……でも、もし柏木につまらない思いをさせてたとしたら……」
「大丈夫! 千夏ちゃんが楠本君によそよそしいって言ったのは、もっと仲良くなりたいって意味だと思うよ」
「もっと仲良くなりたい……そうか、そういう考え方もできるのか」
ネガティブな思考になりがちな直樹にとって少女の発想は新鮮だった。女の子の側から見た感情をわかりやすく伝えてもらったような気がして、少女の言葉で直樹の心はずいぶんと軽くなった。
「こういう時にはね、プッシュプッシュだよ、変に考え込んじゃだめ!」
そう言うと少女は抱きかかえていたミューを直樹の頭へと無理矢理乗せた。
「いたっ、痛いって!」
ミューは足場の悪い頭の上でなんとか踏ん張ろうと爪を立てる。ミューに翻弄される直樹を見て少女は子供っぽく笑い声をあげた。
「あははは、ミュー頑張れ! もっと爪立てないと落ちちゃうよ!」
「お前いい加減にしろよ! 肩ならともかく、頭に登ること覚えちゃったらどうすんだよ!」
直樹は頭にしがみ付くミューをそっと掴むと、その痛みに顔を歪めながらゆっくりと引き離した。レンガ敷きの地面に降ろされたミューはすっかり遊びのスイッチが入ってしまったのか、仰向けになったまま両手を広げ、構ってほしいとアピールしている。それを見た直樹がミューに手を伸ばすと、ミューは小さな前足で直樹の手へとしがみ付き、後ろ足で何度も蹴ってくる。
「あーあ、降ろしちゃった。可愛かったのに!」
「ふざけんな、そんなに可愛いなら自分の頭にでも乗っけてろっての」
直樹は手に襲い掛かる可愛い攻撃を軽くあしらいながら少女の方へと目をやった。
気付けば目の前にいるこの奇妙な少女とはずいぶんと気軽に話している。向こうが無神経な言葉をぶつけてくるせいもあるが、特に何かを意識するでもなく自分を出しながら自然と話せているということを今さらながら直樹は実感していた。
「…………」
見れば見るほど奇妙な少女だ。バッグを頭から被り、そのおかしな格好のまま人の恋愛にまで首を突っ込んでくる。
「……なに?」
黙ったままぼんやりと見つめてくる直樹を見て少女が怪訝そうに声をあげた。
「……いや、別に」
「あのね、そんないかにも何かありそうな感じで『別に』なんて言われても困るんですけど。……言いたいことがあるならハッキリ言ってよ」
「…………」
直樹はしばらく黙っていたが、足元で遊ぶミューに視線を落としながらポツリと呟いた。
「いや、なんていうか、柏木ともこんな風に話せたらよかったのかな、って」
「こんな風?」
「ほら、なんか今、気を使ってないというか、わりと気楽に話せてるじゃん? だから、こういうのを柏木ともできたら『よそよそしい』なんて言われなかったのかな、って」
「…………」
すると今度は少女の方が黙ってしまった。そして小さな沈黙の後、膝を抱えてしゃがみ込むとポツリとつぶやいた。
「私とは気を使わずに話せてるんだ」
「どちらかといえば」
「それは良い意味で? それとも悪い意味?」
少女の口から出た意外な言葉に直樹の表情が険しくなった。
「なんだよ、悪い意味って」
「だから……こんな奴には気を使うまでもないから何を言っても大丈夫だ、みたいな」
気付けば少女の声はどこか不安げな、今にも消え入りそうなものに変わっていた。
「別に……ただ単に話しやすいってだけだよ、そんなことに悪い意味とかないだろ……」
急におかしな質問をするのもだと直樹は少女に目をやったが、おかしな質問以上におかしな容姿がそこにはある。
「まあ、『こんなヤツ』って部分は間違ってないかな、なんせその格好だもんな」
直樹はそう言って少女の姿をまじまじと眺めた。頭からバッグを被った少女をあらためて眺めているうち、そんな姿の相手と普通に話しているという事実がなんとも面白く思え、自然と笑みがこぼれてしまう。
「う、うるさいなぁ」
そんな直樹の様子に怒ったような、困ったようなむくれた声で少女が答えた。
「ま、その格好だから話やすいってのもあるし、とにかく悪い意味なんかどこにも込めてないさ」
「そっか……そうだよね……」
少女は自分自身に言い聞かせるように呟くと、しゃがみ込んだ姿勢から勢いよく立ち上がった。
「よし、じゃあ楠本君と千夏ちゃんがもっと気軽に話せる関係になれるように新しい情報教えちゃおっかな!」
さっきまでとは打って変わって、そこにはいつもと変わらない無駄に元気な少女の姿があった。
「新しい情報?」
「実は千夏ちゃんね、昼休みに図書室で勉強するみたいだよ」
「勉強?」
「そ、勉強。ほら、もうすぐ試験でしょ。それでお昼を早めに切り上げて図書室で勉強するんだって」
「……試験!?」
「うん、だから一緒に図書室で試験勉強したらもっと仲良くなれるんじゃない? 苦手なとこを教え合ったりとかしてれば自然と距離も縮まるでしょ。そしたらきっと今よりずっと気楽に話せる関係になれると思うなぁ」
しかし少女の言葉を聞くほどに直樹の顔がみるみる青ざめていった。話を聞きながら宙を泳いでいた視線がゆっくりと少女へと向けられると、眉の下がった情けない顔が現れた。
「あのさ……試験ってなに?」
「なにって、定期試験に決まってるでしょ」
定期試験という言葉が直樹の中の記憶をようやく呼び覚ます。
「どうしよう、試験のこと完全に忘れてた……ヤバイ……全然勉強してない……」 ここ最近は柏木千夏のことで頭がいっぱいだったせいか、試験のことなど直樹の頭の中から完全に飛んでしまっていた。
「どうしよう……これっぽっちも勉強してないんだけど……」
両手で顔を覆った直樹の頭の中を、同じ言葉がグルグルと回り続けている。
「勉強してないんだったら丁度いいんじゃない? それを口実に千夏ちゃんと一緒に勉強しちゃえばいいんだし」
「できるわけないだろ! そんなことしたら俺が勉強できないバカだってバレるじゃないか!」
少女が口にした軽さとは正反対の語気の強さで直樹が少女の言葉を全力で否定する。あまりの剣幕に少女の体がビクリと震えるほどだった。
「どうしよう……どうしようこれ……」
直樹はひとしきり頭をかきむしると、溶けるようにその場に崩れ落ちた。もはや頭がレンガ敷きの地面に着くほどで、目線の高さが重なったミューが不思議そうに直樹の顔を眺めていた。
「どうしよう……」
「どうしようって……とりあえず勉強したら?」
抜け殻のようになった直樹に少女がかけられる言葉はもはやこの程度しか残っていない。
「勉強っていっても、そもそもどこを勉強したらいいかもわからないんだけど……」
もはや放心状態に近い。
「俺、学校でどんな授業受けてたっけ? ……ていうか俺、高校何年生だっけ?」
直樹は額を地面に着けた情けない格好のままぶつぶつと呟いていたが、ゆっくりと顔を上げると視線を少女へと向けた。
「なあ……」
「なに?」
情けなさでいっぱいになった直樹の顔が少女を見上げた。
「俺に勉強を教えてくんない?」
「はぁ???」
唐突な言葉に少女が素っ頓狂な声を上げた。しかし直樹はお構いなしで、ひざまづいたまま少女ににじり寄った。
「だって俺ホントに全然勉強してないんだよ! どこが試験に出るのかもサッパリでなんかもう何を勉強したらいいのかすらわかんなくてさ…… 頼む! 俺に勉強を教えてくれ!」
すがるような目で足元から見上げてくる直樹に素顔を見られないよう、少女が慌ててバッグを被った喉の辺りを手で隠した。
「ちょっと待ってよ、なんで私が……」
「だってお前、頭いいんだろ? さっき言ってたじゃんか、勉強できるって」
仔猫にミューと名付けた話をした時、勉強には自信があると言った少女の話を直樹は口にした。
「まあ、確かに言ったには言ったけど……」
「だったら教えてくれ! 頼むって! 俺ホントにヤバいんだよ!」
今にもしがみ付いてきそうな勢いに少女が一歩、二歩と後ずさる。
「ちょ、ちょっと待って! ストップ! 落ち着いて!」
下がっても下がっても食らいついてくる直樹を少女が制した。
「いい、これ見て!」
少女は自分の頭に指を差してみせた。
「あのね、私はコレをかぶってるの! こんなの被ったまま勉強なんて教えられるわけないでしょ!」
直樹が見上げた先にはバッグを頭から被った少女の姿があった。確かにそれは勉強を教えるスタイルでないことは間違いない。
「前だってよく見えてないんだから教科書やノートだって読めないよ……」
「なら取ればいいじゃんか」
事も無げに言ってのける直樹に少女の声が上ずった。
「そんなのダメに決まってるでしょ! そんなことしたら私が誰かバレちゃうじゃない!」
「この際仕方ないだろ」
「はぁ? なにがどう仕方ないの!? 全部そっちの都合でしょ! なんで私がそんなことに付き合わなきゃいけないわけ? 信じらんない!」
直樹の無茶な要求に少女の声が大きくなるが、それとは対照的に、拒否されればされるほどに直樹の表情は暗くなり、再び崩れ落ちた体はもはやレンガ敷きの地面にくっ付いてしまっている。
「終わりだ……完全に終わった。赤点取って留年だ……」
焦点の合わない視線だけがぼんやりと宙を泳いでいる。
「このまま留年して年下の同級生にさん付けで呼ばれることになるんだ……そして上級生になった柏木とは二度と関わることのないまま惨めな高校生活を送ることになるんだ……いや、関わることが無いどころか、偶然廊下で出会っちゃったりして、柏木からゴミを見るような目で見られるに違いない……終わりだ、もう終わりだ……」
溶けるように地面へと寝転がった直樹はレンガの隙間から伸びる草を意味も無く引き抜いてはブツブツと絶望的な言葉を呟き続けた。
「留年って大袈裟な……いくらなんでもそこまで勉強できないわけじゃないでしょ?」
「落ちこぼれるほどのバカだったつもりはない。でも最近は柏木のことで頭がいっぱいだったから勉強のことなんて一ミリも考えてなかった。授業で何を習ったかすら記憶にないし、今なら0点を取っても不思議じゃない……」
「……呆れた」
少女の口からため息が漏れる。しかしすぐに少女のため息をかき消すほどの大きなため息が直樹の口からも漏れた。体の中の空気を全て吐き出すようにため息をつくと、それきり直樹は動かなくなった。仔猫のミューだけがいつもと変わらず、楽しげに地面の上を転げ回っている。
「…………」
言葉の無くなった二人と一匹の空間に葦原を撫でる風の音がやけに響く。
どれくらい経ったろうか、少女がぽつりと呟いた。
「……しょうがないなぁ」
死体のように地面に転がったままだった直樹の体がわずかに動いた。
「……そんなに困ってるなら私が勉強教えてあげる」
だらりと伸びた体から顔だけが少女の方へ向き直る。
「そんな風にね、この世の終わりみたいに落ち込まれちゃったら見て見ぬふりできないでしょ、さすがに」
「ホントに!? 本当に勉強教えてくれんの!?」
少女の言葉を聞き、跳ねるように直樹の体が飛び起きた。
「仕方なく、だけどね」
面倒に巻き込まれたといった少女の口調ではあったが、それを聞いた直樹から安堵のため息が漏れた。
「うう、ありがとう……助かります、いや、助かりました!」
「あのね、助かるかどうかは楠本君次第だからね、いくら私が勉強教えたって本人が頑張らなきゃどうにもならないよ」
「はい、わかってます!」
直樹はその場で正座をすると、膝に頭がつくほどの勢いで頭を下げてみせた。全く勉強をしていなかった直樹にとっては少女だけが頼りだ。頭を下げても下げ足りない。
「それじゃあ、とりあえず勉強は明日から始めようか。教えるとなると私も色々準備しなきゃだし」
「すまない、ホント助かる……」
「ところで楠本君、スポーツセンターの前にある子供図書館って知ってる?」
「スポーツセンターってけやき通りの? あんな所に図書館なんてあったっけ?」
少女が口にしたスポーツセンターは高校からも近く、登下校の際に通ることも多い場所だ。しかし図書館があったような記憶は無い。
「スポーツセンターがわかるなら大丈夫。道路を挟んだ向かいに図書館があるから、明日の放課後、そこの三階にある自習室まで来て」
「自習室……そこで勉強ってこと?」
「そう。……でも今日だって少しくらい勉強しておいてよね。試験がどうなるかはあくまでも楠本君次第なんだから」
「はい……おっしゃる通りです……」
もはや少女に軽口をきける立場ではなくなってしまった。返す言葉もなく、身から出た錆を受け止めながら少女の言葉に従うしかない。
「それじゃあ私は帰るね。明日、子供図書館の三階、まずは数学の勉強するから教科書とか忘れず準備してきてね!」
そう言い残すと、少女は草をかき分け姿を消した。直樹がそれを見送ると、葦原の中にポッカリと開いた小さな空間には直樹と仔猫のミューだけが残された。
直樹は立ち上がると地べたに寝そべって汚れた制服の泥を払いのけ、ようやくベンチへ腰掛けた。直樹がベンチの端を軽く叩くと、好奇心に満ちたミューの目がそれを捉える。体を二、三度震わせたかと思うと直樹の指へと飛び掛る勢いでベンチへと飛び乗ってきた。
「はー、勉強……勉強か……」
直樹は指に飛び掛ってくるミューをあしらいながら、大きなため息をつくことしかできなかった。
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