二人の摩擦係数。
9‐1
河川敷は相変わらずの暑さだった。土手の内側には災害時の輸送用に作られた舗装路があり、ひたすら真っ直ぐ伸びた道の先に陽炎が見える。遮るもののない強い日差しは道の脇に停めた直樹の自転車に降り注ぎ、強い影を落とす。
直樹は形を感じそうなほどにまとわり付く熱気の中、道路脇の背丈ほどもある草むらの中へと分け入ってゆく。草をかき分けるたびに飛び交う小虫にうんざりしながら奥へ奥へと歩くと例の場所が現れた。
草に囲まれたレンガ敷きの小空間。ベンチが一つあるだけの外から隔絶されたその場所にはすでに『猫女』の姿があった。いつもの通り制服姿で頭に学校指定のバッグを被った奇妙な格好で、ベンチの前にしゃがみ込んで仔猫の喉を撫でている。直樹が草をかき分ける音に気付いていたのか、どこを見ているのかもよくわからないバッグを被った顔が直樹の方を向いている。
少女はレンガ敷きの上で伸びている仔猫を抱き上げると、草むらから現れた直樹の顔の前へと仔猫をつき付けた。
「こんにちニャー」
少女の明るい声と共に仔猫が直樹の鼻を舐めた。そのくすぐったい感触に思わず仰け反り、直樹は鼻を擦った。
「もう来てたんだな」
「うん、ミューにご飯あげてたんだ」
「ご飯て、今日は俺がエサやるんじゃなかったっけ?」
直樹はズポンのポケットに無造作に放り込まれていた猫缶を取り出してみせた。仔猫に交代でエサをやろうというのはこの前二人で決めた約束だ。
「だって、ご飯あげたかったんだもん。美味しかったよね? ミュー」
少女は抱き上げていた仔猫を地面におろすと満腹になって嬉しそうな仔猫の腹を撫でた。
「ところでミューって……何?」
先ほどから少女が何度も口にする耳慣れない言葉が気になった。
「あのね、この子に名前付けたんだ。ほら、この子ってすぐにスリスリしてくるでしょ、だからミュー」
少女の言葉の通り、仔猫は何度も少女の手に顔を擦り付けてくる。寝そべる仔猫の前でしゃがみ込んだ少女が指を差し出すと、目を細めた仔猫が気持ち良さそうに頬を指に押し当てる。
「スリスリするとミュー、なのか?」
仔猫の仕草はよくわかるが、何故それがミューという名前に結びつくのか直樹にはわからなかった。
「摩擦係数のミューだよ、物理の授業で習ったでしょ?」
「……そうだっけ?」
残念ながら直樹の頭の中にミューという言葉は存在していなかった。物理の授業風景を思い返してみるが、退屈しのぎにいつも眺めている窓の外の景色と、やたらと勢いよく水が噴き出す理科室の水道くらいしか思い浮かばない。
「……つか、ただの猫の仕草からよくそんなややこしい言葉が出てくるもんだな」
「私、勉強は結構自信あるんだよね」
何も知らなかった直樹を前に少女は得意げに胸を張るが、少女の言葉と見た目のギャップに直樹は思わず苦笑した。
「いや、そんなバカみたいな格好してる奴が勉強できるとか言っても説得力無いから」
直樹の一言に少女の動きが一瞬止まる。頭からバッグを被ったその姿は確かに勉強ができる人間がする格好とは思えない。気付けば直樹もその姿に慣れつつあり、思わず普通に接してしまっていたが、バッグを被り、何食わぬ顔をしている少女の様子は冷静に考えればあまりにも異様だ。直樹の指摘で少女もそれをあらためて再確認させられたのか、思わず声がうわずった。
「う、うるさいなぁ。私は別に好きでこんな姿をしてるわけじゃないもん」
「だったらそんなもん取っちゃえよ」
元々は直樹に自分の正体を知られないための苦し紛れの変装だ。正体を知れば気まずくなるのは直樹の方だと少女に言いくるめられてはいたが、バッグの下の正体を知りたいという欲求が完全に無くなったわけではない。直樹はわざとらしくバッグの隙間を覗き込むように体をかがめて見せた。すると少女はますます慌てて、ひときわ大きな声で言葉を繋げた。
「それより千夏ちゃんのバイト先には行ったの? 昨日はここに寄らないで先に帰ったでしょ?」
「んん、ああ……」
直樹が一瞬言いよどんだ。そしてどこか照れくさそうに呟いた。
「まあ……行ったよ」
「お、お、お! やっぱり行ったんだ、で、どうだったの? 聞かせて聞かせて!」
少女がすぐさま食いついた。バッグで表情ががわからずとも体が跳ねる様子からは恋愛の話に敏感な少女らしさが伝わってくる。誰にも話したことのなかった千夏への思いだったのに、つくづく厄介なやつに知られてしまったものだと直樹は頭をかいた。
「ねえ、早く!」
「んー、色々ありすぎて何から話していいやら……」
昨日の出来事が次々と頭に浮かんでくるが、あまりのめまぐるしさに直樹自身混乱してくる。まるで夢で見た出来事を話すようなフワフワとした落ち着かなさがある。
とにかく自分自身でも頭の中を整理するように、直樹はゆっくりと昨日の出来事を少女に語り始めた。
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