8‐2

 すっかり暗くなった夜の道を直樹は千夏と歩いていた。千夏の兄がビールを飲んで寝てしまったため、直樹は駅へと向かうバスの停留所まで千夏に案内をしてもらっていた。

「もう少し歩くとバス停なんだ」

 千夏が住むマンションのある小路を抜け、大通りに出る。騒々しい車の音と少し冷たくなった風が二人の間をすり抜ける。

「ごめんね、バス停まで案内してもらっちゃって……」

「いいよ、気にしないで。私あんまりバス使わないから実際バス停まで行かないと合ってるか自信無いし、どうせコンビニにも行くつもりだったから」

 大通りを並んで歩く二人の姿がすぐ脇のコンビニの窓に映った。

 こうして千夏と並んで歩く自分の姿が直樹にはいまだに信じられない気分だった。午後、ちょっとした気の迷いで千夏がバイトをしている街へ行ってみただけなのに、偶然千夏本人と出会いバイト先まで行ってしまったかと思えば、そこで千夏の兄と出会い、引っ越しのバイトをさせられ、気付けば千夏の自宅で手料理を食べていた。一日の間にあまりにも色々な出来事が起こりすぎていて頭の中の混乱はいまだ収まらない。隣を歩く千夏の姿をチラリと見ては、その現実感の無さに踏み出す足の一歩一歩がぎこちなくなる。

「それにしても不思議だよね。私たちこの前までほとんど話したこともなかったのに、こんな所でこんな風に一緒に歩いてるなんて……」

「そういえばそうだよね……なんか変な気分かも」

 直樹の感じていた事と全く同じ気持ちを千夏がぶつけてくる。自分の置かれた信じられない状況にただ動揺するだけの直樹とは違い、千夏は思った事を素直に言葉にする。直樹を覗き込む千夏の目はこの不思議な状況をすっかり楽しんでいる様子だった。

「ねえ、私の印象ってどうだった? 話す前と後で変わったりとかした?」

 不意に質問を投げかけた千夏は直樹の表情の変化を逃すまいと、ますます瞳を大きくさせた。

「んー、想像通り、かな……明るくて、楽しいし、話す前からそんな印象だったかも」

「へー、そうなんだ」

 その言葉を聞いた千夏は微笑んで見せたが、喜んでいるのか、それとも不満げなのか直樹にはどっちとも取れる表情に見えた。そして直樹に向けていた視線を外すと、千夏は夜の景色を眺め始めた。

 一瞬の沈黙。大通りを走る車の音がやたら大きく感じ、直樹は慌てて言葉を繋いだ。

「じゃあ逆に俺の印象はどんな感じなの?」

「楠本君の印象? んー、そうだなぁ……」

 少し考えたかと思うと急に千夏が笑ってみせた。

「よくわかんない!」

「え……わかんないって……」

 あまりにあっけらかんとした答えに直樹が戸惑うと、千夏はすぐに眉間にシワを寄せ、難しい顔を作る。

「なんか楠本君ってまだ本当の部分を見せてない気がするんだよね、なんかよそよそしいっていうか」

「そうかな……別にそんなつもりはないんだけど……」

 よそよしくしているつもりはなかった。しかし千夏を前にした直樹は常に緊張していた。なにしろ千夏が好きなのだ。好きな子を前にしたら少しでも良く思われたいし、嫌われたくはない。そういった感情がどこか一歩引いたような態度として千夏からは見えているのかもしれない。だが、千夏を好きだという気持ちを正直に伝える勇気などない直樹の口からは、そこから先の言葉が出てこなかった。思わず黙り込んでしまった直樹の態度は千夏の言う本当の部分を見せていない姿そのものだった。

 そんな直樹を千夏が覗き込む。 

「なんだろ、打ち解けるまでに時間がかかるタイプ?」

「あー、そういうのはある……かも」

 それは事実だった。

「だよね、聖志君とかと話してる時はもっとはしゃいだ感じで楽しそうだし」

「いや、でも今だって全然楽しいよ」

「ホント? まあ、せっかくこうして話す機会が増えたんだし、学校でもこれから色々話そうよ!」

「そうだね……」

 直樹が口にした『今だって楽しい』という言葉は、遠回しかもしれないが直樹にとって精一杯のアピールだった。こうして二人で歩けることが直樹にとってどれほど幸せか、『好き』という言葉を正直に言うだけの勇気が無い中、少しでも伝えたかった。しかし千夏にはその言葉の意味は全く伝わっていないようで、ただいつもの明るい笑顔がそこにあるだけだった。

「あ、ちょうどバスきたよ! グッドタイミング!」

 バスがこちらに向かってくるのに気付くと、千夏はすぐ目の前にまで迫っていたバス停へと走りだした。まだ話したいことがあったのにと、直樹はむしろタイミングの悪さを呪った。しかし直樹の気持ちなどお構いなしにバス停へと滑り込んだバスの扉が開く。

「楠本君! このバスだよ!」

 手招きする千夏に急かされ、直樹もバスの前へと駆け込んだ。

 いよいよ別れの時が来てしまった。

「終点まで乗ってれば駅に着くからね」

 バスの窓に取り付けられた行き先表示のLEDには駅の名前が見えた。駅前のロータリーで千夏に声をかけられたあの瞬間から始まった目まぐるしい一日がいよいよ終わる。

「ありがとう……それと、ご飯ごちそうさま」

「それじゃまた学校でね!」

 前方の降車口から降りる人の姿が途切れ、ゆっくりと話している余裕はなかった。直樹はバスへと乗り込むと空いていた窓際の座席へと座った。窓からは千夏の姿が見え、いつもの人懐っこい笑顔で小さく手を振っている。それに答えて直樹も手を上げると、千夏がますます笑ってみせた。このままずっと千夏の姿を見ていたかったが、バスはすぐに走り出し、千夏の姿はあっという間に見えなくなった。

 バスに揺られながら今日の出来事を振り返る。

 軽い気持ちで千夏のバイトする街へ行っただけなのに、あまりに多くの出来事が起こりすぎた。──千夏のバイト先、千夏の兄、引っ越しのバイト、千夏の家、そして千夏の手料理。その目まぐるしい一日を振り返るとさすがに疲れを覚え、直樹はバスの背もたれに寄りかかり目を閉じた。そして直樹は目を閉じたまま、バスの揺れで記憶がこぼれ落ちないよう、頭の中に千夏の姿をずっと思い浮かべ続けた。

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