近くて、まだ遠い距離。

8‐1

 直樹は柏木と二人、エレベーターの中にいた。

 静かに上昇を続けるエレベーターの中、直樹は自分が置かれている状況に戸惑うばかりだった。この日の直樹は千夏がバイトする古書店のある隣街の駅へと行っただけだ。千夏に会うつもりだったわけでもなく、ただ何となく行ってみただけの隣町――それなのに千夏と偶然出会ったかと思えばバイト先にまで遊びに行くことになり、そこで千夏の兄とも会った。それだけでも予想外すぎる出来事だったのに、そこからさらに千夏の兄に引っ張られる形で引っ越しのバイトをさせられ、気付いたら千夏が住むマンションへと向かっている――隣町の駅に降り立った時には全く考えもつかなかった展開は直樹の頭を混乱させるには十分すぎた。

 直樹はエレベーターのフロア表示の数字が上がってゆくのをジッと見つめてはいたが、頭の中は真っ白で何も考えてはいなかった。『?』の文字だけが何度も頭の中を往復するだけだ。

 七階までくるとエレベーターが停止し、静かに扉が開いた。柏木はポケットの中から鍵の束を取り出すと、それをわざと鳴らしながら廊下を歩いてゆく。

(一体なんでこんなことに……)

 この廊下の先に千夏の暮らす部屋がある。柏木の後を追いかけながら、ゆっくりとした靴音とは正反対に鼓動がどんどん早くなる。フワフワとした足取りで意識すら遠のきそうな直樹とは正反対に、柏木は面倒臭そうにあくびをすると玄関の扉に鍵を差し込んで扉を開いた。体を半分ほど中に入れた柏木が直樹にも入ってくるようにと目で合図すると、直樹も恐る恐ると玄関へ足を踏み入れた。

 玄関へと入った柏木は靴を放り投げるように脱ぎ捨て家へと上がってゆく。放り出されたスニーカーの隣には小さなローファーが揃えて置いてあるのが見えた。いつも見ている学校指定の小さな革靴は千夏のものに間違いない。その靴を見て本当に柏木千夏の家に来てしまったという事実を再確認し、直樹の緊張は頂点に達した。

「上がれよ」

 柏木はそう言うと玄関を上がってすぐ右手にあるキッチンの方へと消えていった。 

「お、お邪魔します……」

 直樹も靴を脱いで玄関前の廊下へと足を上げるが、柏木について行っていいものか戸惑い、玄関先で硬直するばかりだ。

「おい千夏! 飯ねえの? 飯!」

 直樹のことなどお構いなしな柏木の声がキッチンの方から聞こえてくるが、その声に反応は無い。

「千夏! いるんだろ!」

 再度柏木が声を上げると、今度は直樹の立つ廊下の奥にあった扉がゆっくりと開いた。そしてそれと同時に聞きなれた声が直樹の耳に飛び込んできた。

「もう、うるさいなぁ……いつ帰ってくるかもわからないお兄ちゃんのご飯なんかあるわけないでしょ。ご飯食べたいなら自分で作ってよ」

 聞こえてきたその声に直樹は息を呑んだ。その声は間違いなく柏木千夏だ。さらに声だけでなく、ゆっくりと開いた扉から千夏本人も姿を現わした。廊下へと出てきた千夏はTシャツにショートパンツというラフな格好で、面倒臭そう頭を二、三度かくと、大きなため息をついた。

(本当に柏木の家に来てしまった……)

 目の前にいる柏木千夏は学校で見る制服姿の快活な千夏ではなかった。ラフな部屋着もけだるい表情も他人には見せることのない、恐らく家族にしか見せたことのない姿だ。それを目の当たりにしている現実が信じられず、この場にいてものなのかと直樹を戸惑わせ、ただ硬直させた。

 しかし本当の意味で戸惑うことになったのは千夏の方だった。廊下へと出てきて顔を上げた瞬間、その視界に直樹の姿を見つけた千夏はポカンと口が一瞬開いたかと思うと、その目をみるみる丸くさせた。我が家の日常にいるはずのない直樹がいたのだ。その非日常は千夏を混乱させるのに十分で、目の前に現れた直樹をただ不思議そうに眺めている。

「あの……お邪魔……してます」

 目が合った直樹が申し訳なそうに言葉を発すると、千夏は大きく開いた目をそのままに、くるりと向きを変えて部屋の中へと戻っていった。

 パタリと閉まったドアと一瞬の沈黙。しかし直後に大きな叫び声が家中に響いた。

「ええええっ! 何で!? 何で楠本君がいるの!? 何? 何で!?」

 ようやく物事の異常さに気付いたのか、千夏の上ずった声が扉の向こうから聞こえてくる。

 しかしその叫び声はすぐに収まり、扉の向こうからは一切の音がしなくなった。そして少しの間をおき扉がゆっくりと開くと、千夏が再び顔をのぞかせた。扉から顔だけ出した千夏の目が不審がった様子で直樹をジッと見つめている。

「あの……お邪魔してます……」

 ジッと見つめられた直樹が申し訳なさそうに会釈をしてみせる。すると千夏は瞬きひとつせず、直樹から目をそらさないまま、ゆっくりと扉の向こうへ顔を引っ込めた。そして再び耳を塞ぎたくなるほどの叫び声が辺りに響いた。

「ちょっと! 何で楠本君がいるの!? どうして? なんで!?」

 まるで時間が巻き戻ったかのように、またしても扉の向こうから叫び声が聞こえてくる。その混乱する千夏の様子を前に、直樹自身も先ほどと同じく硬直することしかできなかった。千夏に対して自分が何故ここにいるのかを説明しなければならなかったが、なによりもまず直樹自身ががどうしてここにいるのかを理解できていなかった。降って湧いた予想外の出来事は直樹にも千夏にも混乱しか与えなかった。

「ああもう! うるせえな!」

 千夏の大声をかき消すように今度は柏木が大声を上げた。キッチンにいた柏木が廊下へと姿を現したかと思うと、千夏の部屋の扉を開けて中へと入ってゆく。

「こいつは俺の客なんだよ! いいから何か作れって!」

 柏木は千夏の手首を掴んで廊下へ引っ張り出そうとしている。しかし千夏が抵抗しているのか、半分開いた扉からは千夏の白い手だけが見えた。

「ちょっとまっ、待ってってば! 服! 着替えさせて!」

 だが柏木はそんなのお構いなしに千夏の腕をなおも引っ張る。

「服なんかいいから飯だよ飯!」

 いくら抵抗したところで柏木の力には逆らえない。抵抗空しく腕を強引に引っ張られた千夏が扉の奥から飛び出すように廊下へと姿を現した。柏木は廊下へと引きずり出した千夏の手首を掴んだままキッチンへと歩き始めた。千夏も諦めたのか、うなだれたまま柏木に引きずられるよう歩く。だが直樹の前を通る時、うなだれて垂れ下がった髪の隙間から恨めしそうな目が直樹をジッと睨んだ。そのままキッチンへと消えていく二人を前に直樹は玄関から上がることもできず、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 千夏の責めるような目にたじろいだ直樹はもはやこの場から逃げ出したい気分だった。気付けば二人の入っていったキッチンへ向けて弱々しい声を上げていた。

「あの……今日はやっぱり……」

「いいから早く来い!」

「は、はいっ!」

 だが柏木はそれを許さなかった。キッチンの奥から響く低い声に逆らう勇気は無く、反射的に返事をしていた。とにかく行くしかないと直樹は決意を固め、恐る恐るキッチンへ向かった。

 キッチンの入口からそっと中を覗き込むと、四人がけのテーブルに座った柏木とキッチンの流しに寄りかかった千夏の姿が見えた。腕を組み、ショートパンツから見える白くて長い脚を交差させた千夏の表情は険しい。

「その……こんばんは……」

 突然同級生が家に現れて機嫌が良いはずがない。直樹はただひたすら申し訳なさそうな顔で挨拶をすると、千夏は諦めたような表情で大きなため息をついた。

「……二人って家に遊びに連れてくるほど仲良かったっけ?」

「バイトが一緒だったんだよ、な?」

 柏木は椅子に仰け反るようにもたれかかり、逆さまになった頭で直樹の方を向いてみせた。「バイト!?」

 柏木の一言に千夏の顔色が変わった。丸くした目が兄である柏木と直樹を交互に見る。

「もしかしてバイトって……引っ越しの?」

 千夏の言葉に直樹がうなずいてみせると千夏が呆れた表情を浮かべた。そして大袈裟に首を振ってみせたかと思うと次の瞬間、鋭い視線を柏木にぶつけた。

「お兄ちゃん、また無理矢理バイトさせたわけ!?」

「無理矢理じゃねえよ」

 柏木が何か言い返そうとしたが千夏がすぐに遮る。

「嘘! 人が足りないといつも誰彼構わず連れてくじゃない!」

 そして直樹の方へと向き直ると柏木に向けた強い視線とは正反対に、顔をクシャクシャにさせた千夏の顔が見えた。

「ごめんね楠本君! こいつに捕まって無理矢理バイトさせられたんでしょ」

「いや、無理矢理っていうか、その……」

 あの時の状況をどう説明したらいいのかわからず、思わず直樹は口ごもる。

「こいつが金無いっつーからバイトを紹介しただけだっての。……な?」

「えと、まあ……はい」

 柏木の言うことは間違ってはいない。しかしまんまと柏木の誘導に引っかかり、バイトをせざるを得ない状況に追い込まれたわけで、直樹にしたらそれを自分の意思と言われたら複雑だ。煮え切らない表情で生返事をすることしか直樹にはできなかった。

「はいはい、もういいです、わかりました」

 千夏は直樹の表情を見て全てを承知したのか、兄である柏木の言葉にはにべもない。同情するような目で直樹を一瞬見つめたかと思うと、すぐに柏木の方を睨みつけた。

「コイツね、楽なバイトがあるからって言って私にまで引っ越しのバイトさせたんだよ、信じられる? いきなり作業着を突きつけられて『これ着ろ!』だって。最悪でしょ」

 だが柏木も負けていない。携帯を取り出すとそのまま視線を落とし、まくしたてる千夏など見ようともしない。

「いいから飯作れって、飯。俺たち腹ペコなんだよ」

 ふてぶてしい態度の兄に千夏はイラついたようにニ、三度頭をかくと、大きなため息をついた。

「もう、しょうがないなぁ……」

 千夏は冷蔵庫の前で腰をかがめると、そのまま冷蔵庫の中を覗きこんだ。

「楠本君も座って。とりあえず何か作るから」

「えと、その……いいの?」

「お腹空いてるんでしょ。大した物は作れないけど、よかったら食べてって」

 千夏は冷蔵庫の中をガサゴソと探りながら振り向きもせず答えた。

「それじゃ、あの、ご馳走になります……」

 直樹は冷蔵庫を覗き込む千夏の背中に軽く頭を下げるとキッチンの中央にあるテーブルへと向かい、すでに座っている正面の柏木にも軽くお辞儀して椅子に腰を下ろした。すると今度は柏木が立ち上がり、千夏がせわしなく開け閉めする冷蔵庫へと向かい、そこから缶ビールを取り出した。

「お前も飲むか?」

 柏木が取り出したビールをちらつかせると千夏がそれを制する。  

「あのねえ、楠本君は私のクラスメイト。お酒飲めるわけないでしょ」

「はいはい、わかったよ」 

 噛み付く千夏に柏木が面倒臭そうな顔を浮かべる。缶ビールと一緒に缶のジュースを手に取るとそれを直樹の前に置いた。

「ちょっと! お客さんに缶のままで出さないでよ、恥ずかしいなぁ……」

「あ?」

 千夏の口から立て続けに飛び出すうるさい言葉に柏木はイラついた声を上げた。

「いや! そんなの全然気にしないから! あの、いただきます!」

 このままではまた言い争いが始まるかもしれない。直樹は二人の言葉に割って入ると慌てて目の前に置かれた缶ジュースを手に取った。中身も確かめずに開け、勢いよく口に注ぎ込んだジュースはオレンジの味がした。それを見た柏木もビールを開けると、片手にビールを持ったまま携帯へと視線を落とした。

 自分勝手に振舞う兄にとことんうんざりしているのか、千夏は腰に手を当ててまたしてもため息をついた。

「ごめんね、こんなのに絡まれちゃって……」

「いや、こっちこそごめん、急に押しかけちゃって……」

 今起きている混乱の全ては直樹がここにいることが原因だ。千夏の日常をかき乱してしまった責任にただ申し訳なさだけがつのる。しかし恐縮する直樹を見た千夏がようやく笑顔を見せた。

「それはもういいよ。お兄ちゃんはどうせ一人で帰ってきたって『飯!』って言って私にご飯作らせるんだから」

 千夏はそう言って手に持っていた空のフライパンを振り上げると、携帯を覗き込む兄の方を向いて叩くフリをしてみせた。さっきまでの言い争いとは違って、冗談めかした柔らかな笑顔が直樹の目に飛び込んでくる。

「さて、何作ろっかなぁ……」

 流しへと向き直った千夏は冷蔵庫から取り出した食材で調理を始めた。直樹からは流しの前に立つ千夏の後ろ姿しか見えなかったが、そこから聞こえてくるリズミカルな包丁の音は慣れた手つきだということを容易に想像させた。

「なんかすごく慣れた感じだけど、いつも柏木が作ってるの?」

「うちね、今お父さんが単身赴任中なんだ。それでお母さんがお父さんのとこに泊まりに行っちゃうことが多いから自然と料理するようになっちゃった」

「へえ、だからそんなに手際がいいんだ」

 話しながらも調理の音は止まらない。包丁が軽快なリズムを刻み、フライパンに放り込まれた野菜が美味しそうな音を立てる。

「あはは、私の料理なんてまだ全然だよ」

 千夏が照れくさそうに笑った。だが直樹は心の底から千夏の料理姿が板についているように見えた。料理する千夏の後ろ姿をこうして毎日眺められたらどんなに幸せだろうと、千夏が背中を向けていることをいいことに、直樹は千夏から目を離せずにいた。

 料理をする千夏の姿をぼんやり眺めていると、自然とショートパンツから伸びる白い脚に視線が向いてしまう。学校の膝丈スカートしか知らない直樹に、すらっと伸びた千夏の長くて白い脚は眩しくてたまらなかった。ついこの間までは遠くから眺めるだけだった千夏が目の前にいて、しかも学校では見ることのできない極めてプライベートな姿を目の当たりにしている事実をあらためて思い知り、どこか呆けたようにポカンと口を開けて、目の前に広がる非現実的な光景をどこか他人事のようにただジッと眺め続けていた。

 しかし柏木がビールの缶をテーブルに置く音が直樹を我に返させた。千夏の脚をジロジロ見てるところを兄である柏木に気付かれたら何をされるかわからない。直樹は慌てて視線を上に戻した。

 千夏は動揺する直樹の視線に気付くはずもなく、何事もなく料理を続けている。フライパンを軽快に揺する度に中のご飯粒が宙を舞い、その馴れた手さばきに思わず直樹からため息がもれた。

「まだ全然とか言ってたけど、やっぱりすごいじゃん」

「いやいやー、それほどでもー」

 千夏の髪が嬉しそうに揺れた。直樹からは表情まで見ることはできないが、伸ばした語尾で話す千夏の声はどこか得意げだ。

 だが、喜ぶ千夏に水を差すように柏木が口を挟んだ。

「ま、味は保証できないけどな」

「あー、そういうこと言う? 自分は何もしないくせに文句ばっかり。……別に美味しくないなら食べなくてもいいんだよ? 私にはお兄ちゃんのご飯を作らなきゃいけない義務なんてないんだから」

 照れていた千夏の表情が柏木の一言でムッとしたものに変わった。わざわざ向き直り、兄を睨みつける千夏の表情は険しい。

「……なあ、こいつって学校でもこんなにうるせえの?」

 千夏の口うるささにうんざりといった表情の柏木が直樹の方を向いて頭をかいた。

「いやその、別にうるさいとかそういうのは……」

「ああ、学校じゃ猫かぶってるわけか」

 『猫をかぶる』という言葉を聞いた直樹の頭に猫を自称する例の少女の姿が浮かんだ。学校指定のバッグを頭から被った奇妙な姿で招き猫の様に手招きする少女の姿が頭の中いっぱいに広がり、直樹は慌ててその思考を振り払った。

「あのな、こいつ学校じゃ良い子ぶってるかもしれねえけど、家じゃ最悪だぞ。いちいち口うるせえし、ちょっとした事でギャーギャー騒ぐし、この前なんかさ……」

「ちょっと! 余計なこと言わないでくれる? お兄ちゃんのご飯ホントに作らないよ!」

 柏木の言葉を遮るように千夏の鋭い声が割って入った。今度は振り向きもせず料理を続けていたがフライパンを振り回す音がずっと乱暴になったのがハッキリとわかり、柏木もその音に思わず口をつぐんだ。 

 だが、柏木は身を乗り出して直樹に顔を近づけると、千夏に聞こえないような小さな声でつぶやいた。

「これでも普段より全然マシなんだぞ。お前がいなかったらもっとすげえんだから……」

 すると顔を近付けた柏木と直樹の間へと割って入るように千夏の手にした皿がテーブルへと叩きつけられた。

「お待ちどうさま!」

 ドンと音が鳴るほどの勢いに直樹たちが思わず仰け反ると、不機嫌そうな表情の千夏が柏木を睨みつけていた。柏木に向けたその表情が余計な事を言うなと釘を刺している。だがそんな険しい表情も直樹の方へと向き直ると途端に柔らかくなる。

「あり合わせの物で作ったから口に合うかわからないけど……」

 そう言って千夏が直樹の前へと皿を移動する。直樹の前に置かれた皿にはチキンライスが乗っていた。キレイなオレンジ色のライスにはたっぷりのマッシュルームが混ざり、美味しそうな匂いをさせている。

「はい、よかったら食べてみて」

 目の前の料理に思わず見とれていると、微笑んだ千夏が直樹にスプーンを手渡した。

 だが、兄である柏木の声が聞こえた途端、千夏の表情は一変する。

「おい、俺のは?」

「……向こうにあるから自分で取ってくれば?」

 千夏が運んできたのは直樹の皿だけだ。自分の皿が無いことに柏木が文句を言うが千夏の反応は冷たく、柏木の方へ視線を向けることすらしない。柏木も諦めたのか、面倒臭そうに立ち上がるとキッチンへと向かい、自分で盛り付け始めた。

 千夏は相変わらず兄を無視し、食べてくれと言わんばかりに直樹の様子をジッと見つめている。千夏の真っ直ぐな視線に、直樹は思わずスプーンを握り直した。

「それじゃ、いただきます……」

 スプーンですくうと皿に盛られたチキンライスがはらりと崩れ、小さな湯気が上がる。直樹は千夏の視線に緊張しながらも、ゆっくりとスプーンを口に放り込んだ。

「ん……美味しい!」

「ホント!?」

 直樹の一言に千夏の目がまん丸になる。千夏の問いに直樹は何度もうなずいてみせた。

 ケチャップが強めの濃い味は散々体を動かした後の直樹には嬉しく、口の中でパラパラとほぐれるライスと、柔らかなマッシュルームの組み合わせも抜群だ。ひと口食べた直樹は何の躊躇も無くふた口目を口に放り込んだ。

「バッチリだよこれ! ケチャップ多めな感じなのにべチャッとしてないし、ちょっと濃いめな感じなのがすごく美味しい」

 そう言うとまん丸だった千夏の目が今度は目が無くなるくらいに細まって笑顔に変わった。

「これね、油の使い方と炒め方にコツがあるんだ。こんな風に作れるようになるの、意外と大変なんだよ」

「だろうね、なんかお店で食べてるみたいな美味しさだもん」

 直樹の言葉に千夏が照れた様子で置き場の無い視線を宙に泳がせる。そんな千夏を目の前にしながら彼女の手料理を食べているという事実になんとも言えない幸福感を直樹は味わっていた。今、目の前にいる千夏は学校での千夏とは違う。自宅というプライベートな空間で家族にしか見せないであろう姿で直樹の前に存在している。ついこの間まで話したことすらなかったのに友達ですら知ることのない距離まで一気に近付いてしまっている事実に直樹はフワフワとした妙な落ちつかなさを覚えながら目の前の千夏の笑顔から目を離せずにいた。

「そうだ、そろそろ野菜スープもできるからちょっと待ってて!」

 千夏がキッチンへと向き直る。その後姿を眺めながら直樹は自分の置かれた幸せな状況を噛み締めた。

 しかし直樹とは対照的に、兄の柏木はこれといった表情も見せず、自分でよそった皿を前に黙々と食べ続けている。こんな幸せな状況を前に、何の感動もなく、ただ無感情に食べるだけの柏木の様子に直樹の悔しさがつのった。

「お兄ちゃんも楠本君くらい美味しそうに食べてくれたら料理のし甲斐があるんだけどね」

 そう言ってため息をつくような表情を見せた千夏が野菜スープの入ったカップと木のスプーンを二つ、テーブルへと置いた。

「はい、どうぞ」

 直樹の前に置かれたカップから優しい匂いが届く。タマネギ、キャベツの泳ぐスープの中に大きめに切ったじゃがいもが転がり、淡い色のスープをいちょう切りされたニンジンが鮮やかに彩る。

 直樹の前に置かれたカップを見て、柏木ももう一方のカップへと手を伸ばすが、それよりも早く千夏がカップを取り上げた。良い匂いをさせたカップを手に兄を見下ろす。

「これは私の。飲みたいなら自分でどうぞ」

 自分勝手な兄への小さな仕返しはまだ続いていた。柏木は面倒臭そうに舌打ちをすると、カップを取り上げられ行き場の無くなった手を缶ビールへと伸ばした。千夏の方を見ようともせず、再び携帯へと視線を落とす。

 そんな兄を一瞥し、千夏もテーブルへと腰をおろすと直樹の方へと向き直り、微笑を浮かべて直樹をジッと見つめた。直樹の感想が楽しみなのか、早く食べてみろと言わんばかりの真っ直ぐな視線が直樹に向けられていた。 

「それじゃ……いただきます」

 直樹は木のスプーンでカップの中の野菜をすくうと、そのまま口へと放り込んだ。

「ん……美味しい!」

「ホント!?」

 直樹の言葉に千夏の表情がパッと明るくなる。そんな様子を見た直樹はすぐさま二口めを頬張ると、指で丸を作ってみせた。チキンライスとは違い、コンソメで薄く味付けされた野菜スープは野菜のシャキシャキとした食感が残っており歯ごたえが心地良い。薄味ながらも黒胡椒がアクセントとなり飽きない美味しさだ。

 しかし柏木が二人の間に割って入る。

「バイトでヘトヘトだから何食っても美味いんだよ」

 美味しそうにスープへと手を伸ばす直樹を見てホッとしたもの束の間、口を挟んだ兄の一言に千夏の表情がまた険しくなった。ムッとした表情で兄を睨むが、柏木はどこ吹く風で意に介さない。食べ終わった食器をそのままにテーブルから立ち上がると、ビールの缶を片手に歩き始めた。

「それじゃ俺寝るわ、えーと……」

 柏木がチラリと直樹の顔を見るが、名前を忘れたのか口を開きかけたまま、言いよどむ。

「とにかくアレだ、また何かあった時は頼むわ。じゃあな」

「ちょっと! なに勝手なこと言ってんのよ!」

 部屋へと戻っていく背中に千夏が言葉をぶつけるが、柏木は振り向きもせず自分の部屋へと消えていった。

「まったくもう……自分で連れてきたくせに楠本君は放ったらかしだし、食器も片付けないし、自分勝手すぎて頭にくる!」  

 千夏は柏木の食器を手にすると流し台へと放り込んだ。蛇口をひねり、水の音が聞こえてくるが、その音よりも大きなため息が直樹の耳にも届く。目の前で繰り広げられる兄と妹のこんなやり取りが普段の日常なんだろうと千夏の背中を見ながら直樹は思った。その日常の中に自分が混じっていることの非日常さに何とも言えない落ち着かなさを直樹は感じていた。

「そういえば楠本君、ここまでどうやって来たの?」

「えーと、お兄さんのバイクで……」

「なにそれ! あいつバイクで楠本君を連れてきたくせにビール飲んでたの!? 信じらんない……」

 千夏が呆れたように声を上げたが、直樹の顔を見ると捨てられた子犬のように弱々しい表情を見せた。申し訳なさでいっぱいになった千夏のその顔を見て、直樹は慌てて言葉を繋いだ。

「いや、全然平気だから気にしないでよ! 駅の行き方だけ教えてくれれば一人で帰れるし」

「ごめんね楠本君、色々迷惑かけちゃって……」

「謝らないでよ。ご飯までご馳走になっちゃったし、むしろこっちがお礼言わなきゃならないんだから」

 直樹の言葉に千夏が慌てた様子で首を振った。

「そんな、お礼だなんて!」

「いや、急に家に押しかけちゃってこっちが謝らなきゃいけないくらいなのに、こんな美味しいご飯まで食べさせてもらっちゃったし……ホント、色々ありがとう」

 野菜スープのカップを包み込むように両手で握り、千夏がうつむいた。視線だけ直樹の方へ向けると、照れくさそうに笑ってみせた。

「そんなこと言われると、なんかくすぐったいな……」

 そうつぶやいた千夏と同じ感情を直樹自身も抱いていた。千夏の手料理を食べ、目の前にははにかんだ表情の千夏がいる。たった一日、たった数時間で唐突すぎるほど突然に近付いた千夏との距離はまるで夢の中にでもいるようなフワフワとした現実感の無さだった。

 しかし、その落ち着かなさがこの上なく幸せな感覚だということだけは間違いなかった。

 ひと口、またひと口と千夏の手料理を口へと運び、その幸せを直樹は噛み締めた。

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