3‐2

 放課後、直樹はまたあの河川敷へと来ていた。

 葦原へと足を踏み入れた直樹はもはや迷うことなくベンチのある広場へと草をかき分けて進む。最短距離で一直線に歩く直樹の前に例の広場はすぐ現れた。青空の下、葦原から切り取られた丸い空間には昨日と同じく小さなベンチがポツンとあるだけだ。

「おい! いるか? いるんだろ!」

 直樹は昨日出会った少女が辺りにいるかもと声を上げた。

 しかしその声に顔を覗かせたのはベンチの下で昼寝をしていた仔猫だった。直樹の足に擦り寄ると、エサでも欲しいのか直樹を見上げてやかましく何度も鳴く。しゃがみ込んで手を伸ばすと仔猫がますます体を押し付けてくる。

「なんだよ、お前しかいないのか? ……あの袋女、まだ来てないみたいだな」

 エサをねだる仔猫の様子からして、あの少女が来ている気配は無い。

 直樹はカバンの中からペット用の小皿を取り出すとそこに猫缶を開けた。待ってましたと言わんばかりの仔猫は猫缶を開けたそばからエサにかぶりつく。エサに夢中の仔猫はもはや直樹の方など見向きもしない。

 直樹は仔猫から離れてベンチに腰掛けるとそのままうつむいた。

「どうしよう、えらい事になっちまった……」

 学校であった今日の出来事が頭をよぎる。

 聖志が持ち込んだダブルデートの話――その相手はまさかの柏木千夏だった。唐突に舞い込んだその話は直樹を動揺させるのに十分だった。今まで遠くから千夏の姿を眺めるだけだった直樹。クラスが一緒なだけでしっかりと会話したこともなく、これまで交わした言葉は挨拶程度。そんな直樹が聖志の付き添いとはいえ、いきなり千夏と学校外で会うことになるだなんて考えもしなかった。喜びよりも先に大きな戸惑いが直樹の心を覆ってゆく。

 どうしたものかと直樹が頭を抱えていると、辺りから草をかき分ける音が聞こえてきた。音の先に視線をやると揺れる草がどんどん近くなる。まだ揺れる草しか見えないが、直樹はそこに誰がいるのか想像がついていた。ベンチに腰掛けたまま葦原を眺めていると、揺れる草がついに広場へとたどり着いた。

「出たな、袋女!」

 葦原から姿を現したのは昨日の少女だった。しかし直樹の声に少女の声が不機嫌そうに響く。

「袋女? なにその言い方、失礼だなぁ……大体私、今日は袋じゃないんですけど」

 少女は相変わらず顔を隠していたが、今日被っているのは昨日見たコンビニの袋ではない。直樹もよく知っている、体操服などを入れる学校指定のバッグが少女の頭を覆い隠していた。昨日と同じなのはバッグからはみ出したサラサラの黒髪くらいだ。

「コンビニの袋って想像以上にうるさんだよね……こっちの方がしっくりきてイイ感じじゃない?」

「どこがだよ……頭からバッグを被ってしっくりくる高校生なんてどこにもいねーよ」

 バッグを被って立つ女子高生はどんな角度から見ても不自然極まりない。しっくりとは正反対のいでたちに直樹は少女の姿をまじまじと眺めた。

「大体お前、そんなの被って前見えてんの?」

「かなり見難いけど小さな穴から多少は見えてるよ」

「へぇ……」

 直樹はその穴がどこにあるのか見つけようと少女に顔を近づけた。

「ちょっと、近い! 楠本君近いってば!」

 急に近寄ってきた直樹に少女が後ずさる。慌てた声を上げているが直樹はお構いなしにバッグに視線を向ける。

「こっちからは全然見えないけど、近いってわかるってことはやっぱ見えてるんだな」

「だから見えるって言ってるでしょ! ……そんな所を気にするくらいならもっと別な場所を気にしてよ!」

 そう言って少女は頭のてっぺんを指差した。

「ほら、耳付けたんだよ、耳! ……猫っぽいでしょ!」

 少女が頭に被ったバッグのてっぺんにはバンダナを折って作った猫の耳が付いていた。バッグに耳を付けたところで猫に見えるわけではなかったが、少女自身はずいぶん得意げだ。

「どうもこんにちは、猫です!」

 そう言って顔の横に手を持ってくると猫が爪を立てるような仕草をしてみせる。

「ニャー!」

「だからそれやめろよ……」

 この前も見せられた猫のポーズに直樹が呆れる。しかし少女はまるで気にしていない。まるで当然といった様子で胸を張る。

「だって私、猫だもん」

 手首をクイと曲げ、少女が招き猫のようなポーズをしてみせる。呆れる直樹をよそに楽しげに髪が揺れる。

 しかしどこかのん気な少女に比べて直樹の表情は険しくなる一方だ。目の前の少女を見ていると突然降って湧いたダブルデートの件が頭をよぎる。

「それよりお前……何かしただろ?」

「へ? 何かって?」

 少女が気の抜けた声をあげた。頭に被ったバッグが倒れそうなくらいに首を傾げている。

「今日、聖志からダブルデートの誘いがあったんだよ」

「え、ダブルデート! 楠本君が!? 誰と?」

「誰とって、お前知ってんだろ……」

「私が? そんなの知るわけないでしょ。 ……ねえ、誰とデートするの?」

 少女の問いに直樹は一瞬言葉を詰まらせたが、少しの間を置いてポツリとつぶやいた。

「……柏木」

 すると少女がわざとらしいくらいに驚いてみせた。

「えー、楠本君、千夏ちゃんとデートするの? すごーい!」

「お前わざとらしいんだよ! これもお前の仕業なんだろ!」

 最初から全て知っている風な少女に直樹のイラついた声が飛ぶ。しかし少女は何度も首を振った。

「私の仕業って……私なにもしてないよ!」

 少女が首を振る度、頭のてっぺんに付けたバンダナの猫耳が小さく揺れる。しかし直樹は疑いの眼差しを向けたままだ。

「……本当にお前じゃないのか?」

「うん、私じゃないよ、でも……」

「でも?」

「岡本さんたちがデートのことを話してるのは知ってたから、きっと面白いことになるだろうなぁとは思ってた」

 そう言って少女がいたずらっぽく笑った。直樹の置かれた状況を楽しむように少女の髪がリズミカルに跳ねる。直樹は恨めしそうに睨み返すが、少女には全く伝わっていない。

「で、返事はどうしたの? もちろんデートするんでしょ?」

「……ああ」

 少女の問いに答えた直樹の声は耳をすましてやっと聞こえるほどにか細かった。そんな直樹の『照れ』を少女は見逃さなかった。

「デートするんだ?」

 少女がもう一度聞いた。直樹の顔を覗き込み、その反応をうかがう。

「だから……するって言ってるだろ」

 その言葉を聞いた少女の声が一段と明るくなる。

「いやー、楠本君やりますねえ! ダブルデートとはいえまさかこんなに早くデートにこぎつけるなんて! これなら私の協力なんかいらなかったかも。……うわぁ、デートだって、デート!」

 少女の嬉しそうな声が辺りに響く。茶化されている直樹の心は穏やかではないが、浮かれた声を上げる少女を前にただ唇を噛み締めることしかできなかった。

 そんな少女の足元にエサを食べきって退屈していた仔猫が擦り寄る。少女は仔猫を抱き上げると直樹の顔の前に仔猫を突きつけた。

「よかったニャー!」

 眼前の仔猫と目が合うが、直樹はそれを無視してバッグを被った大きな方の『自称猫』を睨みつけた。

「何が良いんだよ、全然良くねーっての! 俺はまだろくに柏木と話したこともないんだぞ。それなのにいきなりデートだぞ! 一体どうしろっつーんだよ!」

 これまで千夏のことを遠くから眺めるだけだった直樹。千夏と挨拶程度の会話しかしたことのない直樹にいきなりのデートはあまりにも高すぎる壁だ。何の装備も持たずに雪山の前へ立たされたような絶望感に直樹は頭を抱えるしかなかった。しかし少女はといえば相変わらずのん気だ。抱きかかえた仔猫の額を指で擦りながら気の抜けた声をあげる。

「んー、まあなんとかなるんじゃない? いつもの通り普通にしてたら大丈夫だよ、うん」

「その普通ができそうにないから困ってるんだろ……」

 直樹はダブルデート当日のことを想像するだけで胃がキリキリと痛んだ。

「俺、絶対ガッチガチに緊張すると思うわ。まともに会話できる自信ねえよ……言葉が出なくてオロオロしてるとこが容易に想像できるもん。このまんまじゃ絶対にヤバイ……いきなり大失敗しそう」

 しかしうろたえる直樹を見ても少女は相変わらずで、気楽にポンと直樹の肩を叩いた。

「大丈夫! 緊張したって全然いいと思うよ。そういう緊張したところも含めて含めて自然な姿を見せるのが一番だってば」

「お前なぁ、他人事だと思って……」

 あまりに楽天的な少女の言葉に直樹がうなだれる。

「ええっ、私、他人事だなんて思ってないよ。これってちゃんとしたアドバイスだと思うけどなぁ。……だって事前に準備なんかしたって絶対その通りになんていかないよ。あれ話そうとかこれ話そうとか、いやいやこういう流れで行こう、なんて変に準備をしておくと予想外の展開になった時に何も出来なくなっちゃって余計格好悪いよ」

 少女は自信たっぷりに言い切った。

「向こうだって知らない子と遊ぶんだし緊張くらいするでしょ。楠本君も緊張してくれてた方が逆に安心なんじゃない?」

「……そういうもんなのか?」

「そういうもんだよ! 楠本君は男の友達と遊びに行く時にあれこれ考えたりする? 考えないでしょ? 変に意識するのは失敗の元だよ」

 少女の断定的な口調で言われると、直樹もなんとなくそんな気になってくる。

「どんな人間なのか知ってもらうのが仲良くなる近道なんだから、とにかく自然がいちばん! 素直な自分を出していこうよ、ね!」

 しかし少女の言葉に直樹は黙ったままだった。そしてその視線をただジッと少女に向けた。

「あれ? 私、結構良いこと言ったつもりなんだけど、なんか反応が鈍くない?」

「……お前さ、それ本気で言ってるの?」

「もちろん」

「自然がいちばんとかさ、どっからどう見ても不自然の塊みたいなお前が言うセリフじゃないだろ……」

「あ……」

 バンダナで作った猫耳を付けたバッグを頭から被り、自然がいちばんと口にする少女。その姿はどこからどう見ても不自然だった。直樹に言われてやっとその事実に気付いたのか、小さく戸惑いの声を上げるとそのまま固まってしまった。そんな少女に今度は直樹がニヤついて問いかける。

「なあ、お前自身はもっと自然になる気はないわけ? 自然がいちばんって言うくらいならさ、頭に被ってるそれを真っ先に取った方がいいと思うんだけど」

 だが少女はとぼけた声ではぐらかす。 

「えーと、楠本君は何を言ってるのかな? 私はこれが自然な姿だよ。被ってるとか言われても意味わかんない。生まれた時からこのまんまだもん私。それを不自然っていうのはちょっと違うんじゃないかな。楠本君は間違ってると思う」

「生まれた時からそのままなの?」

「そう! ちょっと変わってるけど私はこういう猫なのです……ニャー」

いつものように手を丸めて少女が猫のポーズをしてみせる。

「そう言うけどさ、昨日はバッグじゃなくてコンビニの袋被ってただろ、昨日と今日で見た目全然違うんだけど」

「う……」

 昨日のことをスッカリ忘れていたのか、直樹の指摘に少女は再び固まってしまった。その様子を見てナオキが満足げな笑みを浮かべる。

「なるほど、これがアレか、予想外の展開で大失敗ってパターンか」

「……」

 もはや少女は何も言い返せない。ただ押し黙るだけだ。今までやり込められるばかりだった直樹がここぞとばかりに追い討ちをかける。

「そうだ、せっかくだからこういう予想外の状況になった時にどう対処したらいいのか見せてくれよ。もしかしたら俺もデートの日にこういう予想外が起こるかもしれないだろ? だからお前の切り抜け方を見せて俺に勉強させてくれ」

「……切り抜け方?」

「ああ、俺がこの状況で考える正解は頭に被ってるそのバッグを素直に取って、自然で本当の姿を見せることだと思うけど、間違ってるか?」

「それは……不正解だと思う。何度も言うように私はこれが本当の姿なわけで……」

 少女が小さく首を振る。さっきまでの威勢の良さはどこにも無い。

「じゃあどうするのが正解なんだよ」

「えーと……その……」

 少女はうつむき、言葉に詰まる。しかし数秒の沈黙の後、何かを決心したかのように強く声をあげた。

「……わかった、こういう時にどうしたらいいか教えてあげる!」

 少女は直樹の前に立つと、しっかりとその顔を見た。バッグがあっては表情も見えないが、覚悟を決めた雰囲気が直樹をも緊張させた。

「いい、こういう時はね……」

 そう叫んだ瞬間、いきなり少女が直樹に背中を向けて全力で駆け出した。バッグからはみ出した黒髪を大きく揺らしながら、ベンチを取り囲む葦原へと一目散で飛び込んだ。

「逃げるのー!」

 少女の絶叫と共に揺れる草が遠くなってゆく。直樹が呆気に取られる間もなく、突風にさらわれたかのように少女は一瞬で姿を消してしまった。

 一人残された直樹はベンチに腰掛けると、抱き上げた仔猫を膝に乗せた。

「あの逃げ足の速さだけは確実に猫だな、あいつ……」

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