三十秒だけ待ってやる。

2‐1

 翌日の朝、学校。

 直樹は大きなあくびをしながら教室へと続く階段を上っていた。他の生徒が談笑しながら脇を通っていくが、直樹の足どりは重い。今日も退屈な授業を何時間と受けなければならないのかと思うと足が重くなる。いっそ回れ右してどこかに行ってしまいたくなる気分だった。しかしそんな直樹にも教室に行かねばならない理由がある。柏木千夏だ。彼女に出会ってからというもの、直樹の高校生活は少しだけ明るくなった。退屈なだけの授業も彼女に会えるならいくらでも耐えられる。一歩、また一歩と階段を上り、いよいよ教室が見えてくるとさっきまで重かった足取りもすっかり軽くなっていた。

 すでに大半の生徒が登校していて、教室からは賑やかな声が聞こえてくる。後ろの扉から入った直樹は何よりも先に教室の中に千夏の姿を探す。すると窓際の席で女子と話す千夏の姿が見えた。窓から差し込む眩しい朝の光を浴びながら千夏の笑顔が輝く。跳ねた髪の毛を指でつまんでクルクルと巻く仕草が愛らしい。弾けるような笑顔が見える度に直樹の表情が緩む。

 直樹はそのニヤけた表情を悟られないよう、咳き込む振りで顔を押さえながら自分の席へと着いた。しかし席へ着いてもなお、チラチラと千夏の姿を目で追ってしまう。

 同じクラスとはいえ、直樹と千夏の接点はほとんどない。直樹にできることと言えば誰にもバレないようにこっそりと千夏の姿を眺めることだけだ。だが千夏の姿を見られるだけで直樹は満足だった。千夏のおかげで退屈な学校に来ることが楽しくなったのだから。

 そうして千夏の姿を追いかけているうちに始業時間も近くなり、生徒たちがポツポツ席につき始めた。

 直樹は机の上に放り出したままのカバンから教科書を取り出すと、それを机の中へと放り込んだ。しかしカラッポだったはずの机の中に手を入れると中で何かが引っかかった。不思議に思い体をかがめて机の中を覗きこんでみると奥の方に一枚の紙きれのようなものが見える。直樹は何気なくそれを取り出してみたが、手にした瞬間に直樹の顔が一気に青ざめた。

 直樹の机の中から出てきた紙切れは柏木千夏の写真だった。

 あまりに予想外な出来事だったため、直樹は出てきた写真を思わず机の中へと押し込んでしまった。千夏の写真が自分の机に入っているなんてどう考えてもありえない出来事だ。そんな事が起こるはずがない。直樹の脳は目の前の出来事を処理できなくなっていた。

 ひとまず深呼吸し、もう一度ゆっくりと机の中へと手を入れてみた。指先で中を探ると軽く引っかかるような薄い紙の感触がある。その紙を慎重に掴むと、今度はゆっくり、慎重にそれを取り出してみる。するとやはり、机の中から出てきたそれは柏木千夏の写真だった。

 その写真には右手で作ったピースサインを頬にくっつけ、愛くるしい笑顔を見せる千夏が映っている。直樹が隠し撮りしたような小さな姿ではなく、フレームいっぱいに千夏の笑顔が眩しいくらいに広がった写真だ。 

「……」

 写真に写る千夏の笑顔と対照的に直樹の表情はどんどん硬くなってゆく。何故この写真が自分の机に入っているのか全くわからず、戸惑いだけが大きく膨らむ。

 ひとまず直樹は写真をカバンに押し込むと慌てて廊下へ飛び出した。廊下を小走りに階段までやってくると、そのまま屋上へと続く階段を駆け上がった。屋上の扉には鍵がかかっていたが、直樹はその扉に寄りかかるようにしゃがみ込むとカバンから先ほどの写真を取り出した。

 やはり見間違いではない。そこにあるのは柏木千夏の写真だ。

「どうしてこんな写真が俺の机に……」

 心当たりの全く無い写真を前に直樹はただ混乱するしかなかった。いくら考えても千夏の写真が自分の机の中に潜り込む理由が思いつかない。写真の中で笑う千夏を見れば見るほどに『何故』という言葉が頭の中をグルグルと回りだす。

 そんな混乱の中、ふと写真を裏返してみると、裏側の隅に文字が書いてあるのに気が付いた。そしてその文字が直樹をますます混乱させた。

「昨日はご飯ありがとうニャ! 美味しかったからお礼をするのニャ。大切にするニャ!」

 丸っこく可愛らしい文字が写真の裏に躍る。

「……ニャ? ……お礼?」

 あまりに不可解な文章。しかし「昨日のご飯」や「ニャ」という語尾に心当たりが無いわけではなかった。直樹の頭の中に昨日、河川敷であった出来事が蘇ってくる。

 昨日、直樹は河川敷を自転車で走っていて、道路の隅で見つけた仔猫と遊び、エサをあげた。その時に確か恩返しをするように仔猫へ声をかけた記憶がある。さらに記憶を掘り起こせば、携帯の待ち受けにしていた千夏の写真を仔猫に見せ、仔猫の前で『もっとアップの写真が欲しい』と呟いたことも覚えている。

直樹はもう一度千夏の写真を見た。この写真はあの時に欲しいと呟いたアップの写真そのものだ。裏の文面を読んでみても、昨日エサをあげた仔猫がそのお礼に千夏の写真をプレゼントしてくれたと思わせる状況なのは間違いない。

「コレ、猫がくれた……のか?」

しかし直樹は頭を左右に振ってバカげた思考をすぐに振り払った。いくら直樹でも猫がエサのお礼に千夏の写真を持ってくるなんて事を信じたりはしない。そんなメルヘンチックな妄想はすぐに消え、頭の中の思考はもっと現実的な可能性へと向いてゆく。

 頭の中の思考が現実的になればなるほど直樹の顔が赤くなる。自分の机に千夏の写真が入れられていたという結果から導き出された推測はあまりに恥ずかしいものだった。

「誰かに見られた……のか!?」

 昨日、河川敷で仔猫にあれこれ話しかけていた自分の姿を誰かが見ていた。

 今、目の前で起こっているこの状況を考えるとそう考えるのが最も無理が無い。あの時、直樹が仔猫と話す様子をこっそり聞いていた何者かが、直樹の望んだ通りに千夏の写真を机に入れたのだ。しかもアップで映る千夏の写真を持っていること、さらに直樹の席がどこにあるか知っていたこと、この二つを考えると直樹のクラスメイトの誰かの仕業と思って間違いない。

 そんな現実を考えるうち、赤くなっていた直樹の顔が今度はみるみる青ざめてゆく。ずっと隠していた千夏への思いを予期せぬ形でクラスの誰かに知られてしまったという事実を前に、直樹は頭を抱えるしかなかった。

 今、目の前にある写真に写った千夏はたまらなく可愛い。直樹がこっそり撮影した小さな写真と比べるとその差は歴然だ。写真の中の千夏はまるで自分に向かって笑いかけてくれているようで、ただ眺めているだけで鼓動が早くなる。しかし昨日のあの日、誰かに見られていたという事実がその気分を木っ端微塵にぶち壊し、悪い意味で直樹の心臓の鼓動は早まっていった。

 授業開始のベルが聞こえてきても直樹はしばらくその場から動けなかった。喜びと恥ずかしさ、二つの感情が行ったり来たりする中、直樹はようやく立ち上がるとのろのろと教室へと向かった。

 階段を抜け、教室の前までくるとすでに授業は始まっており、廊下には誰もいない。直樹は教室の後ろにある扉をそっと開け、気付かれないようにこっそりと教室に入っていくが、教壇に立つ教師の目からは逃れられなかった。

「おい楠本、もう授業始まってるんだぞ、あと五分早く来い」

 教師の言葉にクラスの生徒全員の目が直樹に集中する。

「はい、すみません……」

 クラス中の視線を一身に浴びる恥ずかしさから慌てて席に着く。だがその心には別な感情もあった。自分に向けられた視線の中に、昨日した仔猫とのやり取りを見ていた者がいる。正体のわからない目撃者の存在が直樹の顔をよりいっそう赤くさせた。

 席に着くとすぐ机に突っ伏し、熱くなった顔を誰からも見えないように覆い隠した。

「一体誰があの写真を……」

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