stay

嘉田 まりこ

第1話

 玄関のドアを開けて、いつものように灯りをつける。

 いつものように、靴箱の上の硝子トレイに鍵を置いて、いつものようにソファーにドサッと鞄を置いた。


 洗面所でメイクを落とした私。

 疲れた顔をしている。


「今日もお疲れ」


 鏡に向かって自分を労ったあと、冷蔵庫から取り出した発泡酒。

 体を気にして買った糖質オフのものでも、乾いた喉には充分美味しい。


 ヘアバンドをしたままソファーに沈み、さっき置いた鞄から携帯を取り出して充電器に差した。


 いつもと同じ。


 ある一点を除いては今日だって、いつもと同じ日だったのに。


「なんで見つけちゃったかなー」


 取引先から社へ戻る電車の中で、私は彼に再会した。


 いや、再会……じゃないな。


 彼は本に夢中で気付いてなんかいなかったから。


 そう、それは今日の午後。


 社へ戻るまでの少しの時間だって無駄に出来ないくらい忙しい今の私は、電車の中だというのに、受け取ったばかりの書類を確認していた。


 次々と隣人が変わる中、ふと、書類から目を離した瞬間があった。


 入れ替わった隣人が醸し出す空気を『知ってる』と思ったからだった。


 まさか。


 ……いや、そんな偶然。


『ガキの時、資材置き場でかくれんぼしてて釘でさぁ』


 見覚えがある腕の傷を見ても『そんな訳ない』と自分を抑えた。


 ……でも。


「なんでいるのよ」


 乗り込んできた老夫婦に席を譲り、立ち上がったその人。

 私が彼を見間違えるはずなんてない。


 偶然見かけた人、それは8年前に別れた元カレだった。


「……はーーー」


 私は気がついたのに、彼が気付いていなかったのが何だか癪だった。


 そりゃ8年も経ったし、私は服装やら髪型やら色々と変わったけど。


 学生時代から4年も付き合ったのに。

 すぐ目の前に立ったのに。


 私が感じたような懐かしい空気を読み取ってはくれなかった。


「そうだ、奴は鈍感だったか」


 昔から鈍くて、私の本音に気付かなかった彼。

 別れたのだって、そこから始まったスレ違いが原因だった。


 ――まだあそこの社員なのかな。


 ――あの線使ってるってことは、降りる駅はやっぱり。


 ――もし、次に会えたら。


「……うぉい!なに考えてる私!」


「寝よ、寝よ寝よ」


 私を侵食しようとする淡い記憶を空缶と一緒に潰し、ゴミ箱に放り込んだ。

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