――4――

 待ち合わせはバイト先があるターミナル駅にした。店が入っているビルとは全然別の場所にある路線だとは言え、バイト先の人に見つかったりしないか、ちょっとどきどきしてしまった。

 十三時ちょうどの待ち合わせで五分前に私が着いた時には、星野くんはもう待っていた。きっといるんだろうな、という予想を決して裏切らないところがとても彼らしい。

「紗耶香さんは初めてなんですよね」

 行き先は、この駅から地下鉄で二十分ほどの場所にある水族館になった。結局星野くんが提案してくれた。昔夏に行って、良かったから、と。このへんでは定番のデートスポットとも言える場所なので「それって誰と行ったの?」なんてわざわざ聞く気もなかったし、あんまり気にもならなかった。それはもしかしたらあえて「昔」行ったという表現をされたからなのかもしれない。直近の元カノとかだと、まあ、少し思うことがないでもなかったが、二人とか三人とか前だったらどうでもいいかな、と思えてくるから不思議だ。

「うん。厳密には、小さい頃に家族で行ったことはあるみたいなんだけど、記憶にもないぐらいの年齢だったから」

 地下鉄は座れないほど混んでいるわけでもなかったが、なんとなく二人で窓際に立っていた。わたしの目線ぐらいの位置に星野くんの顎が来ているのが、窓に映っている。今日はいろいろと迷った挙句、飲みに行った日より低いヒールのサンダルを履いて来ていた。バイト中の靴はローヒールなのでもっと身長差はあるのだが、やっぱりいつもと違う場所でこんなに近くに立っていると、そわそわしてしまう。

 駅に到着して改札を出る。同じ方向に歩いていく人々は、家族連れとカップルが多かった。はたから見れば私たちも完全にカップルなんだろうなと考える。嫌なわけがなかった。嬉しいことだ。自分がそう思っていることを改めて認識し、少し前向きな気持ちになった。

 チケットは星野くんがネットで購入して発券してくれていた。入り口付近で一枚受け取り、自然に財布を開く。

「お金、別にいいですよ。……って言いたいんですけど、紗耶香さんが気遣うなら、払ってもらっても」

「払うつもりだったけど、ごめん、万札しかないや。でもだからってのはあれだから、後で食事とかで相殺しよ」

「わかりました。紗耶香さんならそう言う気がしてました」

「一応誘ったのあたしだし、あと、まあ、年上だしね」

「ああ、そういえばそうでしたね」

 そういえばって何? と笑いながら入館し、正面のエスカレーターを上る。

「でも、そういえば学年だと一年差ですけど、年齢だと二歳差なんでしたね。わざわざ浪人して苦労までして」

 どきんと心臓が鳴る。前に仕事中にも話したことがある内容だった。その時に「わざわざ苦労する気持ちはわからない」と、飄々と言われて、天賦のもののために苦労する必要のなかった彼に言われて、不快になったあのの感情が胸に蘇りかける。ざらざらと手触りが悪いものを無作為に丸めて、ぽーんと投げかけられるみたいな。無視すればいいのにそれができなくて、勝手に受け取って勝手に腹を立ててしまう、そんな類の――

「苦労までして入りたい大学があって、一年間そのためにいろいろ我慢して努力できるなんてすごいですよね。俺は楽な方しか選んで来なかったんで、想像できないです」

 あれ、と少し拍子抜けする。そういうニュアンスだったのかな、前から。それとも今回口説きに来てるから? だけど大して褒めているわけでもないし。本当に「想像できない」だけなんだろうか。年下だけれど私よりいろんなことを知っていて、私に見えている範囲のものなんてほとんど心得ているような人だと勝手に思っていた。私が彼に教えられることなんて、ワインの種類と、皿の綺麗な重ね方ぐらいだと。ほんとうは、もっとあるのだろうか。星野くんに、私が見せてあげられる世界みたいなものが。

「一浪してる人なんて、腐るほどいるよ」

「そりゃそうですけど、自分の周りにはいなかったので。それに、それをやってる人がたくさんいようがいまいが、紗耶香さんのやったことをすごいと思う気持ちは変わらないですよ」

 紗耶香さん、前。と言われて慌ててエスカレーターを降りる。展示の入り口は目の前で、部屋の中は暗かった。水族館に来るのなんて久しぶりで、昨日はSNSで写真を漁って結構楽しみにしていたのに、今からこの中に入ってしまうのが惜しい気になった。星野くんとの会話が途切れてしまうことが。急にUターンをして彼の手を引き、外へ駆け出すことを一瞬想像してみる。想像の中で階段を駆け下りているのは、私ではなく、都さんだった。現実の私は、ただ人の流れに乗って幻想的な世界への入り口をくぐっていた。

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