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 机の上にはまだ料理が残っていた。お酒も少し残っているようだったので、チェイサーを持っていくかどうか迷っていたら目が合って、呼ばれた。

「用事みたいで、帰っちゃった。あたしはあと一杯だけもらおうかな」

 注文は珍しくウイスキーだった。都さんがワイン以外を頼んだのは、私の知る限りでは初めてだ。水割りで持っていき、空いたお皿を重ねていく。一口煽ってふぅと息をつき、髪を耳にかけた都さんを見て、おや、と思う。耳にとても小さな赤い石がついていた。玲衣のとよく似ているが、玲衣のは少し暗めの石榴色なのに対して、都さんのは澄んだ赤色だ。一石のスタッドピアスで、見逃してしまいそうな小ささ。ただ、ということはアクセサリーが禁止なわけではないらしい。さりげなく目を向けたが、やはり都さんは、どちらの手にも指輪をしていない。

 店内は彼女と、別の女性三人グループだけになった。三人組はまだまだ上がり調子で、片肘をつきつつ一人で飲んでいる都さんが急にさびしげに見えてくる。水割りの氷が溶けてカランと音を立てるのが聞こえた気がした。

 洗ったグラスを拭き上げていると、もう一人のホールの人が都さんに声をかけられた。どうやらお手洗いに立ったらしい。店は駅ビルの中にあるので、お手洗いは店外にしかないのだ。少しだけふらついた足取りで、店を出て右手の方へ歩いていくのが見えた。

 ラストオーダーの時間も過ぎたので、ワインの空気を抜き、前菜も全てショーケースにしまった。お客さんが少ないので、仕事もあまり残っていない。ごみ捨ても終わっている。もうひとりのホールが社員さんだったので珍しく「今日はあがっちゃっていいよ」と言われた。タイムカードを切ってお疲れ様ですと挨拶をし店を出て、前かけを外しながらバックヤードへ向かう。そういえば、都さんが席を立ってから結構経ってるなあと思いつつ、角を曲がると。

 しゃがみこんでいる、人影があった。黒っぽいスーツの女性。都さんだ。嗚咽のような声が聞こえ、気分が悪いのかと慌てかけたが、少し近づくとそうではないことがすぐにわかった。都さんは、声をあげて泣いていた。わあ、とも、ああ、とも、なんとも表現し難い泣き声。叫び声。感情の全てを自分の中から追い出すみたいに。子供が気を引くために大きな声をあげるようなのとは違う、聞いているだけで感情が伝播してくるような、得体の知れないものを孕んだ音だった。

 三十秒ほど立ち尽くしていたが、放っておくわけにはいかない。人通りはもう少ないとはいえ全くないわけではないし、他のテナントの従業員もいる。人目に晒されることは避けたかった。

 屈んで、そっと背中に手を置く。ぎくりと震えて都さんが振り返った。

「こっちに」

 どうしたらいいかわからなくて強引に腕を掴んだ。少女漫画ならヒーロー役のすることだよななんて思いながら、お店から離れた方向へ歩いていく。後ろから嗚咽の名残が漏れ出るのが聞こえていて、少し、つられそうになった。角のカフェはこの時間にはもうやっていない。明かりの消えた中、店外の席で、椅子を引いて座らせた。

「ここなら、誰も来ませんから」

「……ありがと」

 続けて、「ごめんね」とかろうじて聞き取れる声で。大泣きした後によく見られる、しゃくりあげるような感じはなくて、都さんはただずっと声を漏らしていた。話を聞いた方がいいのかとも思ったが、もうすぐ店の閉店時間になってしまう。勘定を払っていないし荷物も店内にあるので、そのうち探しに来られてしまうだろう。

「大丈夫。勝手に戻るから。だけど、ありがとう」

「……いえ」

「急に、こう、うわっと来ちゃって。置いて行かれるからって、大事にされてないわけじゃ、ないのにねえ」

 やっぱり、彼のことを言っているらしかった。少し慌てた様子で支払いを済ませ、逃げるように店を出て行った都さんの恋人。大事にしている人を、あんな風に置いていくこともあるのが大人なのだろうか。こんな風に泣かせても、大人なのだろうか。好きなのだろうか。

「だけど、また来るね」

 三分ほどして、気が済んだというように、都さんは一人で戻って行った。寄りかかる腕もないというのに、危なっかしい足取りで。見えない誰かを追いかけるように、明かりのついた店内へ吸い込まれていった。

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