――2――

 星野くんの下の名前は篤史というらしい。シフト表には書いてあったはずだが、とあるお客さんから、そう、呼ばれているのを聞いて思い出した。

「来店は二回目だと思いますよ。僕の知ってる限りでは」

 見覚えのある人ではなかったので、常連なのかと尋ねた。元々私は人の顔を覚えるのが得意ではないし、彼と、そのスーツの女性の距離を測りたかっただけなのだけれど。

「都さんっていうそうです。営業のお仕事だから、いつもスーツなんだって」

「へー。さすが、イケメンは手が早い」

 平日のクローズ近く。残っているお客さんも少なく、私たちはカウンターの内側で並んで食器類を拭いていた。

「イケメンじゃないから調子乗んなって言ったくせに」

「今の『イケメン』はね、あれだよ、顔じゃなくて、生き様的な」

「都さんの方から声かけてきたんですよ。メニューのこと聞かれたついでに」

「それで下の名前教えるところが星野くんって感じ」

「紗耶香さんも呼んでくれていいんですよ」

「必要ないから結構」

 ……いや呼べばいいじゃん。ワンテンポ遅れて、心の中で突っ込みを入れた。呼べば、いいじゃん。こういうところなんだよな。必要ないって何なんだろう。自分の可愛げの無さに自分で愛想が尽きそうだ。

 都さんというその女性はずっと一人で飲んでいるようだった。壁際の席で、二、三回誰かに電話をかけているのを見た。彼女以外のお客さんが帰ってしまったのを機に「篤史くん!」と声がかかる。星野くんがお会計を受け取り、都さんは手を振って帰って行く。

「今度は、恋人と一緒に来てくれるそうです」

 店の端にあるワイン置き場をのぞき込んでいたところに、わざわざやって来てそう言った星野くんは、完璧な微笑を浮かべて私を見下ろしていた。


「嫉妬なのかな」

 心の中で言ったつもりだったけど、もしかしたら声に出ていたかもしれない。帰りが同じになった星野くんと別れ、地下鉄の窓に映り込んだ自分の可愛くない顔を見た瞬間、ため息と共に思った。

 別に、星野くんと都さんがいい感じに見えたとか、そういうことではない。ちゃんと見てはいないけれど都さんとやらは社会人で、二十代後半のようだったし。歳は関係無いにしても、店員とお客にすぎない二人が、どうこうなることをいちいち想像しているほど私の頭は暇じゃない。でも、星野くんが女性から下の名前で呼ばれたことが、私はおもしろくなかった。自分ができなかったことを何のてらいもなくできてしまう、都さんへの嫉妬もあるのかもしれない。私はどうしてあの時、結構だなんてわけのわからんことを言ってしまったんだろう。あの時だけじゃない。私はいつもそうだ。嬉しいことをちゃんと嬉しいって言えない。だから相手に好意も伝わらない。予備校の彼に彼女ができたと知らされた時に完璧な声調で「おめでとう」と言えてしまったのも、同じこと。そんな自分が嫌いだったが、それらを反射的にやれてしまうあたりもう手遅れで、そのまま生きていくしかないという気もして余計に落ち込むのだった。

 家に着くと、リビングで妹の芽衣香が勉強していた。芽衣香は三つ年下で、この春で高校三年生になった。行きたい大学があるようで、春休みから本格的に塾に通い始めたばかりだ。

「おかえりい」

「ただいま」

 さっさとお風呂に入ってしまいたいのに身体が動かなくて、そのまま芽衣香の目の前の椅子に座って顔を突っ伏す。

「紗耶香ちゃんお風呂入んないの? じゃあちょっと聞いてよ」

「いいけど、何。またあの大学生の話?」

「そおー」

 芽衣香が通い始めた塾では講師の他に、アルバイトの大学生がチューターとして在籍しているらしい。寧々がやっているように直接指導をするわけではないが、授業の補助をしたり質問を受けたりする存在である。そして数学のクラスのチューターである渡辺さんのことを、芽衣香は気に入っているらしい。

「今日はね、授業始まる前の休み時間に喋れたんだけどー、渡辺さん、芽衣香が陸上部だってこと覚えててくれて嬉しかったー」

「なんでそんなこと知ってんの、こわ」

「プロフィールみたいなやつ最初に提出してるの。渡辺さん、自分の担当のクラスの子の分全部覚えてくれてるのかな。芽衣香のだけだったらどうしよー」

「なんでそんな自信持てるかな」

「渡辺さん彼女いるのかなあ。教えてくれないんだよねえ」

「そりゃそうでしょうよ」

「はーもう紗耶香ちゃん冷たい。わかるでしょ、好きな人が自分の情報覚えてくれたら嬉しいの」

「あんた、渡辺さんのこと好きなの」

「ええっ、だからずっと言ってるじゃん」

 芽衣香は驚いたように言うが、誰が塾のチューターに対する好意を本当の「好き」だと思うだろうか。

「それは大変ね」

「紗耶香ちゃん絶対信じてくれてないでしょ。芽衣香本当に好きだもん」

「わかったわかった」

 高三にしては喋り方も表情も子供っぽい芽衣香だけれど、それはきっと可愛げに含まれるんだろうなと思う。正反対の受け答えをする私は、つまり女として可愛くない。そうは言っても芽衣香みたいな可愛さを自分が身に着けたいかというとそうでもないわけで。

「運だな、これも」

 文句を続ける芽衣香に、勉強の手が止まっていることを指摘してから、ふらふらとお風呂場に向かった。

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