――4――

 目の前にど派手な赤のオープンカーが停まった時には一体何事かと思ったが、でっかいサングラスをかけて運転席に座っているのは、どう見てもちとせちゃんだった。

「何これえええええ!」

 やたらと上機嫌なちとせちゃんに促されて助手席に乗った途端、車は猛スピードで走り出した。いくら人通りが少ないからって、ちょっと、そんな、

「スピード違反でしょおおおお!」

「このへんで鼠捕りやってんの見たことないから、大丈夫!」

「大丈夫! じゃないーーー!」

 しょせんは住宅地、三十秒も走ればすぐに信号に行き当たる。高い摩擦音と共に車は止まった。あ、そこは守るんだ。

「な、なんなのこれ!」

「ひゃはははは、びっくりした? 楽しくない?」

「びっくりしたよ! 頼むから、せめて普通のスピードで走って!」

「へいへい。わかってるよ」

 信号が青になって発進した時には、常識的なスピードに戻っていたので安堵のため息をついた。胸の前で必死に抱えていたかばんを膝の上におろす。まだ心臓がドキドキしていた。

「ねえ、なんなのこれ、買ったの?」

「んなわけないじゃん。いくらすると思ってんの」

 鼻歌を歌いながら片手で運転している人に言われても説得力が無い。

「……いくらすんの?」

「知ーらない!」

 こういう人なのだ。従姉でなければ関わることはなかった人種だと思う。

 ちとせちゃんが車の免許を持っていることは知っていた。営業で店舗回りをするから、仕事で必要なのだ。でもいつもは会社の車を使っていて自分では持っていないと聞いていたから、今日の待ち合わせで「スペシャルカーで迎えに行くから待ってて」と言われた時には何かの冗談かと思った。まさか社用車でもないだろうし。

「じゃあどうしたの? 借りたの?」

「そ! 知り合いに借りた! だから値段は、知らない!」

「車の相場なんて全然わかんないけど高そうだよ!」

「たぶんねー! なんちゃらスパイダーって名前なんだって、かーっこよくなーい?」

「かっこ! いいけど! 高そうだし怖い!」

「保険入ってるから大丈夫ーっ!」

 まったくもってそういう問題ではないと叫びたかったが口にするのはやめた。風のうなる音がすごくて、声を張り上げなければ会話にならない。ちとせちゃんは独り言みたいにしゃべり続けていた。ご機嫌だ。まあ大体いつも、そうだけど。

「あーっ!」

「今度は何!」

「忘れてた! 寧々ちゃん、二十一歳おめでとう!」

「……ありがとう!」

 ちとせちゃんは鼻歌でハッピーバースデーを歌い出した。やっぱりご機嫌だ。そしてそんな姿がとても似合う。

 今日は六月一日で、私の誕生日だった。丁度一年前のこの日は最悪だったけれど、なんだか遠い過去のことのように思えていた。今の私があの時の私の延長線上にいるんだと思うと不思議な感じだ。一年前には、紗耶香とも玲衣とも仲良くなれていなかったし、「い」から始まる名前の屁理屈野郎とは出会えてもいなかったのだ。

 「い」から始まる奴とは、なんと、美香ちゃんとアイスを食べたあの日以来、一度も顔を合わせていなかったし連絡も取っていなかった。二週間はゆうに過ぎている。こんなことここ半年では一度もなかった、とこぼすと、そっちの方が驚くべき事案なのではと真顔で玲衣にコメントされた。ラインの返事は私が全て無視していた。全てというか、私の最後の返信に対する《なんですかそれは》《どういうことですか?》など当然の反応に返せずにいると、電話がかかってきて、3コールぐらいで切れた。そしてそれ以来向こうから連絡は無いし、私もしていない。バイトのシフトは一度だけかぶったけれど、あっちが高校数学の教科書を片手に熱弁している間に私が帰ってしまった。向こうは何も言って来なかったが、代わりに美香ちゃんに呼び止められた。

「あ、あの、やっぱり北川先生と五木先生、喧嘩してますよね……?」

 二人の帰り道、予想された言葉に用意していた答えを返す。

「美香ちゃんのせいじゃないよ。大体私たち、基本的に喧嘩してるんだし」

「でもあの日、私が言ったことのせいでなんだか変な空気になりましたよね……なぜだかはよく、わからないんですけど。送ってくれている間、五木先生、ほとんどずっと黙っていました。なんか、あんまり私の話も聞いていなくて、ただ私が『北川先生はいいんですか?』って聞いた時だけ『いいんです!』って即答されました」

「わあー、めっちゃ想像できるー。でもほんとにいーの。なんかね、遅かれ早かれこういうふうにはなってた気がするの」

「こういうふうに?」

「なんて言うか、ばちばち言い合うようなのじゃ、ないやつ」

 ふうんと言った美香ちゃんの声は心ここにあらずな感じで、次に言う言葉を検討している気がした。そしておそらくそうだった。

「北川先生は、五木先生のこと、好きですか?」

 同僚として? 恋愛対象として?

 条件反射みたいに浮かんで来た問いかけの答えによって、私の返事は変わるだろうか。

「……一万歩譲って、良い先生だと思うよ」

 そういうところですよ、なんて諫めたりはしない代わりに美香ちゃんは笑ってくれた。彼女が求めていたのは、ただ私の返事だった。

「せめて千歩ぐらいにしてあげませんか」

「理系、いや数学の先生に限定するなら、五百歩ぐらいにしてもいい」

「大出世じゃないですか」

 それからコンビニの手前の道で別れるまで、私と美香ちゃんはずっと笑っていた。

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