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 五木先生に話をして、あれからもう一年になるのかと改めて実感した。早いなあと思う一方でこの一年にあった色んな事を思い出してみれば、長かったような気もする。あの史上最悪の誕生日からももうすぐ一年。五木先生もそのことに気づいて誕生日を聞いてくれたので、六月一日だと返事をした。一か月ほどすれば私は二十一歳になる。五木先生は七月だそうだ。知らないうちに過ぎていなくてよかった、と思ったことを誰かに言ったらなんと返ってくるのかは、もう予想がつくので誰にも言わない。

 ゴールデンウィークは毎日のようにシフトに入った。五木先生とは一緒になったりならなかったりで、一緒に帰ったり帰ったり。美香ちゃんとも何度か一緒になって少しは仲良くなったかもしれない。三人で帰ることもあって、三度目ぐらいになってから気づいたことがあったので、あまり気は進まないながらもご意見を給うことにした。

「塾がこのへん、コンビニがこのへんね。家がこっちの方らしいから、いつも手前の道で美香ちゃんとは別れるの」

 芸術学専修のゼミが急に休講になった日、ゼミがおこなわれるはずだった教室に私たち三人はそのまま残り、次の授業までの時間を潰していた。要らないレジュメの裏に簡単な図を書いて説明する。

「そんで三回に二回ぐらいは一緒にコンビニに寄るの。日によるけど。で、私の家がこのへん。だとしたら五木先生の家はこっちの方になるのね」

 五木先生の家に行ったことがあるわけではないので、そのあたりはほぼ勘だ。かなり雑だけれど、私が書いた図の、塾とコンビニとうちと五木先生の家を結ぶといびつなYの字ができあがる。分岐点のコンビニの左下のあたりに、美香ちゃんの家がある。

「だからたぶん五木先生が一人で帰る時は、コンビニのあたりから、うちへ行くのとは違う方向の道を辿るはずなわけ。でもあの人はほとんどいつもうちまで送ってくれるの。帰りは結構遅くなるし、このへんの道は人通りが少なくて、危ないからって。単純にありがたいから、どうもって感じで送ってもらってたんだけど。でもね、最近気づいた!」

 かなりだるそうな感じに頬杖をついた紗耶香と横目でスマホの画面をチェックしている玲衣の、片手間感を隠そうとしない様子にもめげず私は説明する。

「暗くて危ない、ことが理由なら、美香ちゃんも送らなきゃだめじゃん! うちが通り道ってわけでもないのに。でも美香ちゃんのことは家まで送るそぶり見せたこともないわけ。なんでか知らないけど。必ず美香ちゃんとはコンビニの手前の道で分かれて、うちの下まで来てから原付で自分の家まで帰るんだよね」

「…………はあ。で?」

「ん? いや、で、って?」

「で、何を言って欲しいのよ」

 紗耶香が頬杖を右手から左手に替える。永遠にため息を吐き出していそうな顔つきで、私にガンをつけている。

「五木先生は寧々のことが特別なんだねーって、そう言って欲しいように聞こえる」

 玲衣は紗耶香の顔を見てから、うっすらと笑みを浮かべた。たぶんだけど、これは、同意している顔だ。

「事実関係を考えてみりゃそうだと思うよ。でも寧々もそのぐらい感じてるでしょ。ネガティブなんだか知らないけど、自分で認めて、冷静に思うまま捉えてみたら。んで聞きたいことがあるならはっきり言いなよ」

「……例えば?」

「『五木先生って私のこと好きだと思う?』とか」

 音速で顔をふせたら額を強打した。ごつん、と鈍い音が私たちしかいない講義室に響き渡る。

「……好きなわけないじゃん」

「じゃあなんで今、美香ちゃんのことは送らず自分だけを送ってくれる五木先生の話をしたの」

「…………紗耶香がこんなに意地悪だったなんて知らなかったあ」

「言ってろ」

 紗耶香は私に向かってイーっと歯をむき出しにした。私も応戦する。玲衣はさっき地図を書いた紙の隅の方に何やら落書きをしている。二人に元彼の話はまだできていない。

「五木先生は今まで彼女がいたことがないのね。言ったことあったっけ」

「勝手にそうだろうと思ってたけど」

「女の子が苦手っていうのも、まあ男子校だったからってのはあるみたいなんだけど、そもそも人と信頼関係を築くのが苦手っていうか。なんか昔裏切られたことがあったりしたとかって」

「人間関係で失敗した経験のひとつやふたつ、誰でも持ってそうだけどねえ」

「たぶんだけど、今まで好きな女の子とかいたことないんじゃないかなあ。聞いたことないもん。タイプも『自分のことが好きな子』とか言うし」

「寧々ちゃんは?」

 突然玲衣が質問をねじ込むように投げかけて来た。ちょっとびっくりした感じに振り向いた紗耶香も、心得たように私の顔を見て返事を待っている。

「好きな人、いたことある?」

「も、もちろんあるよ……? 中学の時は部活の先輩が好きだったし、あとほら、高校の同級生でめちゃくちゃかっこいい人がいたって話もしたよね?」

「それって当時の友達に言ったりしてた?」

「えーっと、言ってなかったかな。自覚なかったから」

「勝手な憶測だけどね、それって自覚なかったんじゃなくて、認めてなかっただけなんじゃないかな。自分がその人のことを好きなんだって事実を」

「認め……」

 初めてつきつけられた概念だった。好きかどうかを認める、認めない。

 言葉を詰まらせた私に、玲衣は続ける。

「自分がそうだったから言ってるんだけどね。今の好きな人のこと、好きなんだって認めるのに結構時間かかったの」

「玲衣のその言い方、的確だと思うわー。寧々は認めたくないだけって感じすっごいするもん。認めたら負けみたいな」

「……じゃあさ、それで、玲衣はなんで認めたの?」

「きっかけはね、やっぱり――」

 私に向けられていた玲衣の視線が一瞬ふわりと浮く。遠くの時間軸を見つめる。

「……嫉妬だったかな」

 だから認めるなら今、とそう続けられたような気がした。どうやら頑固者で間違いないらしい私は崖っぷちに追い詰められた気分で頭を抱える。

 たぶん、一歩踏み出した先にあるのは断崖絶壁ではない。それがわかっているのに踏み出せないのはどうしてだろう。踏み出したところを見られたくないのはどうしてだろう。知らないうちに崖の高さが低くなって、下の地面がせりあがってきて、何にもしてないけど気づいたら地続きになってたから進んでみました、なんてことになってたらいいのに。例え下にふわっふわの毛布が敷き詰められていたとしたって、自分の意志で飛び込んだら、何があったってそれは自分の責任なのだ。

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