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大学に入学してすぐ、カメラのサークルに入った。ミーティングが週に一回ある他は活動日が定まっていない、自由なサークルだ。一応毎月お題が与えられて、部員はみんな各自で写真を撮って来る。月末には投票などで簡単に点数をつけて、優秀な作品をいくつか表彰した。カメラは初心者だったけれど、なんでも教えて貰えたし、先輩たちが優しくて面白くて楽しかったので、すぐに入ることを決めた。所属人数は五十人ぐらいいるらしいが、ミーティングに集まるのは毎回せいぜい十数人がいいところだった。飲み会になると倍ぐらいの人数が集まって来た。ゆるくて楽しい、大学のサークルの見本みたいなところだった。
五月末になる頃には同学年の新入生も十人を超えていた。男女の割合は半々ぐらいで、それはサークル全体も同じだった。一回生には同じ高校の人も同じ学部の人もいなかったけれど、みんなとそれなりに仲良くなれて、時々遊びに行ったりするようになった。
ミーティングや月末の表彰会や飲み会を重ねるたびに先輩たちとも仲良くなっていった。中でも一つ上の学年で、法学部の男の先輩と、私は仲良くなっていた。自然と仲良くなったというよりは、目をかけられていたのだと思う。飲み会でしょっちゅう隣になったし、その後のボウリングでも同じチームになった。夏休みには二人で会うようになっていた。九月、後期が始まる少し前に二人でテーマパークへ行き、帰りに告白されて、つきあうようになった。周りと比べてみても、それはとても自然で理想的な流れのように思えた。人生で初めてできた恋人だった。
先輩は私をきちんと女の子として扱ってくれた。帰りが遅くなったら送ってくれるのは当たり前で、サークルの買い出しでも、私には絶対に重い荷物を持たせなかった。付き合うまでのデートは全額出してくれた。先輩と付き合っている間、私は非力で危なっかしくて従順で、甘いカクテルとハイボールしか飲めない、女の子だった。
私たちの交際は順調に思えた。先輩も私もサークルの出席頻度はそこそこで、それよりも二人でいろんなところへ遊びに行った。いろんなものを食べた。いろんなものを見た。クリスマスには泊まりがけで旅行に行って、私はそこで何もかもを先輩に捧げた。先輩は多くのものを与える代わりに多くのものを求める人だったので不安に思ったりもしたけれど、その日はとても喜んでくれた。年上の男の人のことを可愛く思うのは初めてのことだった。バレンタインに私が手作りチョコレートをあげたら先輩はプレゼントを用意してくれていて、開けてみるとペアリングだった。女の子が贈り物をすべき日にあえてそんなものを準備してくれていたことが嬉しくて、号泣した。今思えば、あれが私たちのピークだった。
私が二回生に、先輩が三回生になって、サークルには新入生が入って来た。私たちと似たような雰囲気の子がやっぱり十数人ほど。五月になってゴールデンウィークが終わった頃、先輩はサークルに来なくなった。もともと引退という制度が存在しないサークルなので、訝るほどのことでもなかった。三回生になると授業の関係で忙しくなるということで、春休みのあたりから会う頻度も減っていたし、私は忙しくて大変なんだなあと思うばかりだった。展開がチープならきっかけもチープで、図書館で先輩が席を立った時にスマホが鳴り、私はついつい画面を覗き込んでしまった。バイトだからと私が断られた週末に、映画を観に行く約束をしていた。相手は、今年サークルに入ってきたばかりの一回生の女の子だった。
問い詰めたらすんなり白状した。その子が最初にサークルを見学に来た日、帰りが一緒になって、仲良くなったということ。もう五回目以上二人で会っているということ。相手の女の子にはフリーだと嘘をついているということ。サークルに来なくなったのは私と一緒にいるところをその子に見られたくなかったからだということ。
彼の家で話を聞きながら、私はわんわん喚いた。子供みたいに。彼は延々と私に謝っている様子だったけれど、どんな言葉も耳に入ってこなかった。何を言っても無駄だとわかったのか、やがて彼はため息をついて、豹変した。
「……浮気された、って言いましたよね。付き合っていた人を、他の女の子にとられた、って思いました。でもね、彼の方からしたらそうじゃなかったんです。お前にはとっくに飽きてた、って言われました。彼にしてみれば新しく仲良くなったその女の子が本命で、私の方が浮気みたいな感覚だったんですって。笑っちゃいますよね。私、知らないうちに浮気相手になってたんですよ。彼女だと思ってたのに」
いやお前の方が浮気だから。彼の声のトーンまで変わっていることにゾッとした私は逃げるように彼の家を出て行き、そのまま別れた。二十歳の誕生日の、一週間前のことだった。人生で初めて大失恋をした私は、それからしばらくは毎晩毎晩泣いていた。泣いたまま朝になってゾンビみたいな顔で登校していた。突然の事実を受け入れきれず、サークルの友達にも何も言えていなかった。誕生日当日は無理やりバイトのシフトに入れてもらって過ごし、家に帰って、寝る前、先輩から電話が来た。正直言って、一瞬期待してしまった。だって、誕生日だったのだ。出ないという選択肢は無いに等しかった。あんな酷いことを言われたのに。付き合っていた時と同じような感覚で、表示された名前を見てすぐ、電話に出た。彼は酩酊している様子だった。何を言っているのか聞き取りづらい。私は一方的に彼の話を聞かされた。やがて、彼は私を罵り始める。目的は初めからそれだった。聞かなきゃいいのに、私は電話を切ることができなかった。少し前まで大好きだった人から向けられた悪意を、見なかったことにするぐらいなら、全部受け止めて思いっきり傷つこうと思った。涙が枯れ果てたと思った私は、痛みを欲していた。
『つーか前から思ってたけどお前の趣味ヤバいから。少女漫画だけでもヤバいけど少年漫画ガチ勢はまじでヤバい。大学生にもなって漫画読むために毎月雑誌買ってるとか笑うしかねーだろ。俺にバレた時に、そろそろやめよーかなーとか言ってたけど、今も買ってんだろどーせ。今の彼女さあ、映画好きなんだよなあ。あいつまだ十八だけどお前よりよっぽど大人っぽいわ。俺も映画好きでさあ、文学部っつーからそーゆーの期待して付き合ったのに、マジで期待外れ。さっさと別れときゃよかった』
彼は言いたい放題言うだけ言って、それじゃあ、も何もなく唐突に電話を切った。というか電源が切れたんだろう。どんだけ酔ってんだ、と思いながら、どうしてこんな人のことが好きだと思っていたんだろうと心の底から不思議になった。たった二十分の電話で付き合った九か月間は無に帰した。
漫画の話は本当のことだ。私は小学生の頃からジャンル問わず漫画が大好きで、今でも単行本だけでなく、少年漫画の週刊誌を二種類と少女漫画の月刊誌を一種類買っている。大学生でそこまで執着している人が少ないことは自覚しているので、最初の頃は先輩にも隠していたけど、ある時どうしてもというタイミングがあって、デートの帰りに買ってしまった。その時の反応が冷たかったので、あんまり見せない方がいいんだなと理解して、それからは一度もそのことを話題にしたことはなかったはずだ。彼にもそんな素振りはなかったのに、今になって言ってきたのは、実はずっと思っていたか、もしくは私を傷つけるためだけに記憶を掘り返してきたか。何にしろ効果はてきめんだった。気にしなければいいと思いつつも、自分でも多少の後ろめたさをもっていた点を真正面から否定され、他人と比べられ。私は雑誌はおろか、単行本すらも地元の本屋以外では絶対に買わなくなった。
愚痴も言いたかったしあの人の社会的地位を貶めたいという思いもあるにはあったが、それ以上に、自分の傷を他人に晒すのが嫌だった。サークルの友達はきっと全力で私を憐れんでくれるだろう。憐れみながら根掘り葉掘り事情を聞いてくるだろう。私はサークルの人々には何も言わず、フェードアウトしていくことにした。しばらく距離を置いているとどうしたのかと連絡が来たりもしたが、曖昧にして全て流した。サークルの人間関係がほとんどふいになったタイミングで紗耶香や玲衣と仲良くなれたことは、本当に幸運だったなと思う。
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