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大学の最寄り駅から二駅でモノレールに乗り換える。そこから私の最寄り駅までは四駅で、五木先生はもう一つ先の駅が家には一番近いのだけれど、私の最寄り駅からも歩ける距離なので、今日はそちらで降りてくれた。とりとめなく喋りながら改札を出る。もう夕方で、駅舎を出たら、水で薄めたアクリル絵の具で塗ったみたいな、オレンジ色の空が広がっていた。
「……ココアが飲みたい」
呟いたら、本当に飲みたくなってきた。じゃあ僕もコーヒーを、と五木先生が言ったので、コンビニに寄る。いつも塾の帰りに寄るのと同じ赤い看板のコンビニの、違う店舗。大通りとは反対側にあるので駅近でも案外人が少ない。ココアとコーヒーをそれぞれ持って、ひさしの下で喋る。
「原付、大丈夫なんですか」
「あー、なんかエンジン始動すると変な音がして、キックもおりなくて。ベアリング錆びてんのかなと思ったんすけど、にしては急だし」
「ふーん」
「あれ中古のやつだから、結構古いんですよね」
「新しいの買うんですか」
「いやそんな簡単にかえませんよ。一度分解して洗ってみようかなと」
「かえませんよ」が「買えませんよ」なのか「替えませんよ」なのかわからなかった。分解できるならちょっと見てみたいなと思った。
隣家との壁沿いの駐車スペースに宅配業者のトラックが停まった。両手で抱えられるだけの荷物を持って、キャップをかぶったお兄さんが店内に消えていく。入り口の方へ目をやったらごみ箱が目について、いつも寄っている店舗とは距離感が少し違うなあと思い、そんなことに気づくほどあの店舗には通い詰めていたんだなあと気づく。塾の帰りにしか寄らないコンビニだ。
「今日は五木先生もバイトじゃなかったんでしたっけ」
「じゃないですね」
「じゃあこの時間に塾方面行くのはまずいですね」
「ああ、誰かに会いそうですよね。ってか今何時、って、うわっ」
五木先生がスマホをポケットから取り出した時に、何か小さいものが一緒に飛び出てきて、音を立てて地面に着地した。小銭が二枚とレシートだ。
「またそうやって、お釣りを財布に入れるのをめんどくさがるから」
「あーはいはい、わかってますよ」
スマホをポケットに戻し、五木先生が腰を曲げた。風ではためくレシートを指で追っている。丸い後頭部が、手をちょっと動かせば触れるような位置にある。
その途端、私の胸の中を、柔らかな風が歩く速度で吹き抜けた。煽られた何かがふわりと浮き立つ。それはきっと、私が私に見えないように押し込めていた感情を、隠していたフタみたいなものだ。慎重に置いてあったはずのものがいとも簡単に浮き上がってしまったのにびっくりして、私は慌ててそれを抑え込む。ちらりと見えた中身の鮮やかさは錯覚だと思い込まなければいけなかった。残り香の甘さに辟易しながら胸の上に手を置き、深く呼吸をする。一度開いてしまうと次に同じことがおこるのは簡単だという気がした。うかうかと舞い上がった頼りないフタの上に、私は意識して重石を乗せる。
拾い終わった五木先生が元の体勢に戻って、ため息をつき、コーヒーを飲んだ。空になった紙コップが手の中でぺこぺこと形を変える。ああ、この人はきっと、空になったコップでも、力任せに握りつぶしてしまうことはないんだろうなあと思った。アクリル絵の具の空を見上げたら、塗った上から更に水を落としたみたいにところどころ滲んでいた。気付けば駐車場全体を西日がうっすらと覆っている。
「――私、浮気されたんです」
五木先生は驚いた素振りすら見せなかった。急に話し出した私の顔を見ようともせず、何気ないふうに相槌を打つこともなく。ぼろぼろぼろぼろと、口から出ては落っこちていく言葉で、私は独り言みたいに一年前の話を語った。
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