***
「……それで、そのまま、朝の六時まで喋ってたって?」
月曜日、ゼミが終わってから紗耶香のサークルと玲衣のバイトが始まるまでの時間、学舎内の芝生のエリアで座ってお喋りをしていた。少しずつ春めいてきた空気は、温かく重たい。
「私も次の日なんの予定もなかったから、まあいっかなと思って……。その後はもう何喋ってたのかよくわかんないけど」
「率直な感想として、電話代がすごそう」
「ラインの無料通話だから大丈夫。いい時代だよね」
私たちはお尻だけを敷き石に乗っけて、六本の脚をぽーんと芝生に投げ出していた。スキニーの紗耶香とタイトスカートの私とショートパンツの玲衣、お揃いみたいなデニム生地のボトムスたちが長さ順に並んでいるのが面白くて、思わず写真を撮った。
「好きな人との電話が切り難いのはよくわかるけどね。なんでか知らないけど、夜中だと特にね」
試すような紗耶香の言葉に私が返事をできず、下唇を噛んでいると、仕方ないなあというふうに玲衣が口を開く。
「女の子の後輩、いいね。羨ましいな。私のバイト先、あんまり人が入れ替わらないから、未だに私が一番年下なんだよね」
玲衣は大学の近くの本屋でバイトをしている。サークルなどに入っていない分、週四~五日働いているのだという。
「あたしも羨ましー。実はうちも最近新しいスタッフ入って来て、年下なんだけどさー。男の子で、すげー生意気なの。いいなあ女の子」
「いい子っぽくてよかったけど、なんて言うの、あんまりいい子すぎると自分がみじめになってくるっていうか……」
「何その卑屈。嫉妬の対象だからでしょ」
何も言わず、紗耶香のくるぶしのあたりをブーツの先っちょで軽く蹴っ飛ばしたら、わき腹を思いっきりくすぐられた。「ボディががら空きだぜ」と低めた声で言われて、早々と降参する。玲衣が笑って、両足を引き寄せて抱えた。
「でもわかるよ。良い人なら納得できるかもって思う一方、どうせ敵わないなら悪い人であって欲しい、みたいな?」
「何、玲衣の好きな人には好きな人がいるの?」
「……うん。そんな感じ」
そのうち時間になって、紗耶香はサークルの活動場所へ、玲衣は駅の方へと別れた。私は大学生協の本屋に寄ってから帰ることにした。食堂がある建物の二階には講義で使う教科書だけでなく、専門書や、最新の小説、漫画、雑誌も揃っていて、生協の会員価格で購入できる。私は美術学系の教科書を一冊選んでから文芸コーナーへ行き、文庫の新刊を冷やかした。その裏は、漫画の新刊が並んだ棚だ。素早く視線を走らせると、気になっていた漫画家の名前が目に留まった。反射的に手を伸ばし、白地に黒の背表紙の一冊を抜き取って、裏表紙のあらすじを確かめようとした、その時。
「あれ」
痙攣したように手が震えた。心臓が縮み上がって、喉が塞がる。ぽっかりと口を開いたまま声の方に目をやると、五木先生がいた。リュックを背負って、ぼさぼさの長い髪で、薄いカーディガンみたいな上着のポケットに両手を突っ込んでいる。
「北川先生じゃないっすか。キャンパスで会うの、久しぶりですね」
「あ、うん……」
絞り出した声はかすれていた。動かさなきゃと思うのに、手が動かない。力の加減がわからなくなって、漫画を取り落としそうになったその時、五木先生の視線がそれに向けられたことがわかった。あっ、と小さな声が出たけれど、彼はそれには気づかず、口を開いた、
「あれ、北川先生漫画とか読むんですか? 小説しか読まないのかと思ってました。ってかその新刊、僕ちょうど昨日買いましたよ。もしかして読んでるんですか?」
まるでコンビニで新製品のお菓子の話をしている時のような気軽さが、そこにはあった。私がとっさにかざした鋭い緊張の盾には気づきもしない。あまりにもいつも通りの、しまりのない口元や目の下から消えたことのない薄いくまになぜだかひどく安心してしまい、泣きそうになる。盾を下ろしていくと同時に、呼吸の仕方を思い出していく。
「……読んでないです。ちょっと気になっただけ」
「そうですか。よかったら貸しますよ」
「ありがとう。検討します。今、帰りですか?」
「はい。実は今朝原付の調子が悪くなってしまって」
だから、今日は電車で来たんです。誰かが仕込んだ伏線のようなタイミングの良さにびっくりしながら、一緒に帰ることを決める。私が手にしていた少年漫画は、棚の元のところへ秩序良くしまわれていった。
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