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 講師一人に対して生徒が二人、というのが塾の授業の標準形式だ。しかし相手の二人は同じ学年とは限らないし、教科も同じとは限らない。中学二年生の数学と三年生の数学、のようにどちらかが共通していればまだマシな方で、今日みたいに中学二年生の理科と高校一年生の英語、なんてことになるとかなり疲れる。塾講師はほとんどずっと座っているから体力的には楽なアルバイトだと思うけれど、精神的にはこれでもかというほど疲れたりする。もちろん生徒にもよって、仲良しの生徒だと正直こっちも構えずに挑めるが、あまり喋ったことのない生徒だったり無口な生徒だったりすると疲れ方もひとしおだ。

 ただ、そういう子こそ近い目線で勉強を教えてくれる人を必要としていたり、本人自身が成績を上げたいと本気で思っていたりするので、やり甲斐という意味では負けていないというか、返ってくるものが大きいということもある。ちなみに、五木先生はそういう生徒の一部にささやかな人気がある。なぜなら彼は理系科目に限って、教えるのが誰よりも上手い。数学や理科が好きな子が彼を慕うというよりは、彼を慕っている子は将来理系に進むのだろうな、と予想がつくぐらいだ。

「それじゃあこの長文問題が宿題ね」

「えーっ、これ全部? 長すぎるんだけどー」

 無事高校に合格した凛咲ちゃんは、進学しても塾を辞めなかった数少ない生徒の一人だ。教科が英語だけになったので頻度は減ったが、毎回私を指名してくれているらしくて大抵担当になっており、相変わらず私たちはよくお喋りをする。

「長文で一部だけ解いたって意味ないでしょ。高校生なんだから頑張ってー」

「学校の宿題もめっちゃ多いのにー。ねえ数学Ⅰって教科全然わかんないんだけど。今度宿題持ってくるから教えて!」

「いいけど数学か……教えられるかな……五木先生いる時に頼んだらいいよ」

「えー、じゃあ北川せんせー、言っといてね」

 ドキッとして素早く顔を上げた。私たちが塾外でも会っていたりすることは、生徒は知らないはずだ。

「なっ、なんで私が」

「だって、五木先生まだ授業してるみたいだし。ほら、理科やってるっぽいからまた最後までやってるパターンだよ、あれは」

 なんだ、と胸を撫で下ろして凛咲ちゃんが指す方を見る。端の席で授業をしていた五木先生は、最後の時限が終了したというのに、まだ教科書を片手に熱弁している。相手の生徒はさっき言った「理系に進むだろう」生徒の一人で、授業の延長を嫌がる素振りも見せず、真剣に耳を傾けている。

「ねえねえ、そういえばあの先生って新しい人?」

 凛咲ちゃんは、塾長に何かを聞いている小柄な女の子を指して言った。

「そうだよ。今年度から入ってきた人。雨宮先生だって」

「ふーん。なんか、可愛いよね。塾の先生っぽくない感じ」

「凛咲ちゃん、それ私に対して、まあまあ失礼な気がする」

「いや、えっとね、可愛いってね、服装とかがね! だって花柄の超ミニとモヘアのニットだよ? 凛咲は北川先生の服の方が好きだけどね!」

 お世辞だーと泣き真似をしたら、ちょっと慌てた凛咲ちゃんは具体的に今日の服装を褒めてくれた。うちの塾のアルバイトは服装自由なので、私はいつも私服で来ている。花柄スカートとモヘアのニットで来たことはないけれど。ていうか花柄スカート、持ってないけど。

 違う大学に通う雨宮先生は、今年二回生だそうだからひとつ年下だ。確か今日で勤務は三回目ぐらいで、まだ一対一で授業をやっていた。所属しているのは理系の学部らしくて、指導も理系科目が中心になるらしい。凛咲ちゃんが指摘したように、雨宮先生は可愛い。顔かたちがどうというより、顔も可愛いけど、雰囲気が可愛い。正しく女子大生らしい雰囲気、なんて言ったら卑屈に聞こえるだろうか。挨拶程度に話をした限りでは、別に変にフワフワしているわけでもなかったけれど、こう、まさに日向にいる大学生という感じがあった。

 凛咲ちゃんや他の生徒がほとんど帰ってしまっても、五木先生はまだ授業を続けていた。私は紙屑でいっぱいになったごみ箱を集めたりして、ゆっくりと片付けをする。今日は塾長がいるので教室を閉める作業をする必要はなく、そういう日は講師もバラバラに教室を出て行くが、ここのところは勤務が一緒になれば毎回一緒に帰っていたので、片付けを終えてしまった私は手持ち無沙汰になった。五木先生はようやく授業を終えて、教科書を片付けながら生徒と話をしている。わざわざ「帰りましょう」なんて言いに行くのも癪だ。ちょうど雨宮先生が塾長と話し終わりそうだったので、声でも掛けてみるか、と思って二人の会話に耳を傾けた。

「それじゃあ次回は、高校生の理科もやってみてもらいましょうか。とりあえず生徒は一人にしておきますね」

「わかりました。何年生の子ですか?」

「二年生です。教材はですね、確か……あれ、この高校、今はどっちを使ってたのかな。ちょっと五木先生に聞いてみてください。大抵五木先生が担当している生徒ですから」

 雨宮先生は「わかりました」と言って、五木先生の方へ歩いて行った。教材が詰め込まれた棚の前で話しかける。五木先生は話を聞くと、一番上の棚に置いてあった教科書に手を伸ばし、雨宮先生に説明を始める。私は特に深い考えもなく、ただやることもないし、同僚になったばかりの雨宮先生とコミュニケーションを取る意味も含めて、二人の会話に加わろうと近づいた。私が開いたこともない理科の教材を二人は覗き込んでいる。雨宮先生がぱらりとページを捲ったのとほとんど同時に、五木先生がふっと顔を上げた。私と、ばっちり目が合う。「高校生の理科ですか?」私はきっと、そんなようなことを言おうとしたはずだった。自然な流れとして、口を開いた時。


 完璧に目が合っていたはずの五木先生は、まるで視線が合ったその事実さえを消し去るような素早さで、私に背を向けてしまった。

 

 更には話が長引くことを見せつけるかのように、別の教材を二冊三冊と取り出しては近くの机に積んでいく。雨宮先生は次々出てくる教材の中身を眺めては、書籍名をメモしていた。五木先生は決して振り向かない。頑なに棚と教材の方に顔を向け、ぼそぼそと何か言っている。完全にやることをなくし、またやるべき理由もなくした私は、講師の準備室に入って扉を閉めた。身支度を整え、部屋に残った二人分の荷物から目を背ける。準備室を出ると、塾長にだけいつもの調子でさようならと告げてから、まだまだ底冷えのする春の夜の中へ飛び込んで行った。

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