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 夜中、ラインが来ていた。帰って直行したお風呂を出てスマホを確認した時、五木先生の名前があった時点で内容はわかっていた。未読で放置しようかとも思ったが、わかっていたがためにためらわれて、結局開いてしまう。

《お疲れ様です。今日は帰り、送れませんでしたけど、家には着きましたか?》

 家には着きましたか、ってなんなんだ。私は一人じゃおうちにも帰れない赤ちゃんか、と心の中で突っ込みを入れながら、返事をする。

〈お疲れ様です。もちろん着いてますよ。ご存知なかったかもしれませんが、実は私は一人でも家への帰り方がわかります〉

《家に着きましたか、ってそういうことじゃないでしょ。まあ、特に何もなかったならそれでいいんです》

〈大体、五木先生と勤務が一緒じゃない時はいつも一人で帰ってますから。平気に決まってます〉

《そうですか。何か腹立ててます?》

〈なんでそう思ったんですか?〉

《別に、なんとなくです》

〈気のせいだと思います〉

《それならいいんですけど》

「何この会話。この、ふわっとした、大事なことは何も言えてない感じ」

 何をそんなに分析することがあるのかわからないけれど、私が見せたスマホの画面を、紗耶香は何度もスクロールしていた。今回のやり取りより前の履歴を見ようとするので、画面を隠しながら奪い取る。

 時計を見ると、もう三限の授業が始まる時間だった。紗耶香はため息をつきながら机に頬杖をついた。小さめの講義室で横並びに座った私たちは、形ばかりに教科書を机の上に出しながら、ドイツ文学の教授が来るのを待っている。

「大事なことって、何」

「えー、いや、さすがに自分でも、思ったでしょ」

「……嫉妬したんでしょ、って、紗耶香に言われるなと、思った」

「自分で思った、とは意地でも言わないところをもって、頑固って言われんの。おわかり?」

 紗耶香はにやにやして私の顔を覗き込んできた。頑固の根拠を否定することができなくって、くそうと思う。

 昨日、五木先生に背を向けられた瞬間のことを思い出す。話しかけるな、と言われた気がした。勝手に帰れ、と言われた気がした。その時起こったのは、ただ背を向けられたという事実だけだったはずなのに。

「……でもさ、目が合って話しかけてこようとしてる相手から目を逸らすって、単純に感じ悪いでしょ?」

「じゃあその場で怒ればよかったじゃん。たったそれだけで拗ねて一人で帰ったのは、やつの隣に女の子がいたからじゃないの」

 うっ、と思った。確かに五木先生が一人でいたなら、なんだ今のはと文句をふっかけに行って喧嘩していたような気がする。やつがそうしたのが、雨宮先生と喋ってる時だったから、それで私は。私は……。

「でもほらっ、いつも一緒に帰ってたわけじゃん。だから待つじゃん。それはわかってるはずなのにあの態度、なんなの? 待っててとか先帰っててとか、ひとこと言えばよくない?」

「……それブーメランだからね。帰りましょうと声もかけられないあんたが、相手にはそれを言えと?」

「うっ」

 今度は声に出てしまった。教授はまだ来ない。紗耶香は教科書をてきとうにベラベラめくりながらでも、的確に私の急所を突いてくる。

「そもそもさ。シフトが一緒の日は一緒に帰る、って約束してるわけじゃないんでしょ? ほらあれだ、例の、暗黙の了解。だってつきあってるわけじゃないもんねー。そういう取り決めをしちゃう理由がないんだよねー。そんで理由がないと意地でも動かねえっつーあれだよねー」

 私はまるで、次々と矢を射かけられ、はりつけにされて動けなくなったような気持ちになった。言葉の暴力だ、と思ったけれどよく考えればそれらは、身に覚えがなければ刺さることのない矢なのだ。

「またもや暗黙の了解を壊されて、それに今度は別の女が絡んでいたため、ついに嫉妬心が沸き上がって参りました。これは今後の展開に……」

「もういいです!」

 嫉妬心、という言葉でとどめを刺された私は机に突っ伏した。そんなんじゃない、と叫びたかったのに、私に背を向けた五木先生と雨宮先生が寄り添って並んでいた光景を思い出すと、心臓がきゅっとなった。なんだろうこの痛み、病気かな、なんて思うほど私は馬鹿でなければ純粋でもない。これが一体なんなのか、私はもう知っている。知らないふりができない程度の経験は、積んできてしまったのだ。望んだわけでもないのに。

 教授がいそいそと講義室に入って来て、慌ただしく授業が始まった。文学の授業でも時代背景を知る意味で歴史は重要なので、著名な文学者のみならず、思想家、学者の名前なんかも出てくる、めくったページにカントが出てくればやつを思い出し、物理学者が出てきてもやつを思い出すという屈辱的な現象に耐えながら、私は教授の話を聞いていた。

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