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 紗耶香が働いているのは、スペインバル風のおしゃれな居酒屋さんだった。テーブルが六個とカウンター席がいくつかで、フロアが一度に見渡せる規模のお店だ。六時過ぎに入ると先客は一組だけだった。カウンターの方から五十代ぐらいの小柄な男性が出てきて、店長だよーと紹介される。紗耶香がキッチンを覗いて軽く挨拶をしてから、丸テーブルの席についた。

「すごい種類のワインが並んでるね」

 壁に作りつけられた飾り棚を見て玲衣が言った。コテ跡の残った白い塗り壁に、色とりどりのワインボトルが映えている。

「あれは空き瓶だから今は扱ってないのもあるけどね。玲衣ってどのぐらいお酒飲めるんだっけ」

 私と紗耶香は一度だけ二人で学校帰りに居酒屋でごはんを食べたことがあった。私ほど手あたり次第にではないけれど、紗耶香も飲める方だ。紗耶香は浪人していて、しかも誕生日が四月なので大学に入った直後から堂々と飲み会に参加していたらしい。この店での勤務もそれ以来だそうだから、二年近くということで、アルバイトとしてはベテランだ。

「そんなに飲める方じゃないけど、ワインは好き」

「じゃあボトルでいっちゃおうかー。どうせ私と寧々が飲むし。おすすめがあるんだよね」

 注文は料理もほとんど紗耶香に任せた。出てきたのは白ワインで、波を思わせる模様が描かれた水色のラベルがついていた。注いでもらうと薄い黄色で、とても華やかな香りがする。

「わっ、美味しい。すっごくいい香り!」

「赤でピノノワールってあるじゃん、あれと同じ品種のブドウが、なんだっけ、突然変異したとかなんとか。飲みやすいけどブドウっぽさが濃くて好き。玲衣は?」

「うん、美味しい。辛口って書いてあるけど飲みやすいんだね」

 料理はほとんどが小皿料理で、よく行く居酒屋みたいに気軽に食べられた。たことジャガイモのピンチョスとか、オリーブのフライとか、海老とキノコのアヒージョとか。全体的に魚介が多くて、味付けが濃い目で美味しい。

「それでちとせちゃんにも、頑固だって言われたの」

 しょーもなくていいから喧嘩の話を教えて、と言われて、お釣りでもめた話をした。またどうせいつも通りのことを言われるんだろうなと思っていたら、話し終わった時紗耶香は、ワインが僅かに残った自分のグラスをじいっと見つめていた。

「紗耶香?」

「会ったことないけど、話聞いてる限り、私はちとせさんとすごく気が合いそう」

 紗耶香はボトルをつかんで自分のグラスに注いだ。喋りながらなのに、きちんと底を片手で持って、ラベルを上に向けて注いでいるところがさすがだ。

「なんとなく思ってはいたけど五木先生も相当めんどくさそうな人だね。そんな間柄じゃない、ってそれ、寧々を突き放してるわけじゃなくて、自分を卑下してるだけじゃない? 用事がなくてもしょっちゅう連絡取ってて、二人でお酒飲むような相手、じゃああんたらは他にいるわけ? どう考えたって少しは特別でしょ? そのなんつーか、暗黙の了解みたいなのを、わざわざ壊そうとする態度、マジでめんどくさい」

 めんどくさい、と言われているのは五木先生のはずなのに、なぜだか自分が責められているように思えた。無性に反抗したくなって、食ってかかる。

「別にそんな暗黙の了解なんてないもん。全然特別じゃないかって言われると、さすがにそんなことはないかもしんないけど……。私は傷付けられたわけじゃなくて、変なとこだけ他人行儀な態度に腹が立ったの!」

「……寧々もめんどくさい」

「なんで!」

「あ、わかった」

 紗耶香のあまりにもぞんざいな言い方に、強い言葉を返しそうになった時、玲衣が冷静な一声を放った。

「二人とも、同じなんだ」

「誰と誰?」

「寧々ちゃんと、五木くん。二人とも自信がないから自己防衛してるんだ。自分が特別だと思ってるのに相手が思ってなかったら、悲しいから。『わざわざ壊そうとする態度』っていうのすごくわかる。寧々ちゃんも相手も、作っては壊しを繰り返して、完成させるのを怖がってる、ような気がする」

 交互に何かを積み上げつつ、ある程度の高さまで来るたびにどちらかが壊す、という作業を繰り返す私たちを想像した。相手が壊せば怒るけれど、そうしていなければ自分が壊していた。あまりにもしっくり来すぎて、言い返すことができない。スクラップアンドビルド、と呟くと、紗耶香が「それだわ」と言って笑った。

「寧々は腹が立ってるんだ、って言うけど、怒りには常に悲しみも含まれてると思うよ」

 紗耶香はグラスを煽った。薄く色づいた液体が、するすると細い身体の奥に流れて行く。いつにも増して男前な感じの紗耶香の、切れ長の目尻が目に入った。潔く跳ね上げられたアイラインの鋭さを羨ましく感じる。きっと紗耶香が正しかったんだろうな、と思って、よく考えもせず反抗してごめん、と心の中で呟く。

「……私、高校の時から好きな人がいるの」

 唐突に玲衣が言ったので、私と紗耶香は、えーっとか言いながら玲衣に注目した。彼氏がいないとは聞いていたけれど、過去の恋愛について詳しく教えてくれたことはなかった。なんかあるんだろうな、とは思っていたし実は紗耶香とも言っていたのだけれど、私には手厳しい紗耶香が玲衣のことは追及しないので、私も黙っていたのだ。

「高三からで、もう三年になる。告白もしてる。相手は、私のこと好きじゃないくせに、態度はっきりしてくれないの。腹立つよ。好きな間、ずうっと腹立ってる。でもそれって悲しみだよね。勝手に悲しいのにさ、それが自分にとってはどうしても相手のせいだから、怒りになっちゃうのかな」.

 そうかーと言いながら紗耶香が、少しだけ残っていたワインを玲衣のグラスに注ぎきる。どんな人なの? と聞いたら、少し間があってから、ナイショと言われた。今はまだ教えてくれないらしい。教えてよーとしなだれかかろうとしたけれど、自分にもまだ言っていないことがあることを思い出してやめた。誰かに説明できるようになるまでに時間がかかることって、ある。しかも玲衣は現在進行形らしいのだ。今日の何が玲衣の口を開かせることになったのかはわからないけれど、なぜだかそのことによって、私が何重にもかけていた重たい錠前のひとつが、外れた気がした。一生封印していてもいいと思っていたのに、やっぱりその扉を完全に溶接してしまうのは惜しいかもしれない。

「……紗耶香ちゃんも、ずっと好きな人がいるんじゃなかったっけ」

 玲衣がちらりと紗耶香を見る。矛先が向けられるのをわかっていたように、紗耶香はにやりと笑った。

「ずっとって言ったって、全然玲衣にはかなわないなあ。年単位なんかじゃないし……いやちょうど一年ぐらいか。うわっ、一年も経ったのか。それにもう、やめるし」

「えっ、やめるって何」

「あたしはぁ、まあ言ってもいいけど、ちょっとここじゃなあー。いきなり店長が来て聞かれたりしたら嫌だしー。だからあたしも今日は、ナイショってことで」

 言い方を真似された玲衣が、ちょっとーと言って笑う。なんなんだこの勿体ぶってばっかりの恋バナは、とおかしくなって私も笑った。私たちはまだ大学二回生だ。春休みは半月ぐらい残っているし、来年からも同じ学校に通う。こうやって同じボトルのお酒を飲むことだって、これからもっともっとあるだろう。嬉しくなってワインのメニューを広げた。

「どうする? もう一本空けちゃう?」

「さっきのやつ紗耶香ちゃんが半分ぐらい飲んでたけど、全然平気っぽいね」

「えっ嘘そんなに飲んでた? ごめんごめん。なんか気になるのある?」

「んんんー、やっぱ今度は赤かなあ」

「私もうそんなに飲めないと思うけど、大丈夫?」

「いいよ余ったら持ち帰りにするから。ほんとはそんな制度ないけど、あたしの権限で」

 さすがあーとかなんとか言って遠慮なくボトルを選ぶ。選べるって楽しいなあとわけのわからないことを思いつつ、私はその日とっても幸福だった。

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