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冬らしい灰色の曇り空が広がっていた。湿り気を帯びた風に鳥肌が立つ。雨が降ればその先から雪に変わっていきそうな寒さの中、私は五木先生を待っていた。コペンハーゲンのレポートが無事に終わったので、散々話を聞かせてもらったお礼として、夕飯をおごることになったのだ。散々と言っても半分ぐらいはコペンハーゲンと関係のない、五木物理論だったと思うから、むしろ聞いてあげていたと言ってもいいぐらいだとは思うけれども。まあでもわざわざ脚本を読んでくれた……いや、読むきっかけになっただけなんだったっけ。どちらにせよ、なかなか納得のいくレポートが書けたのは彼のおかげと言っても間違いではないので、食事をおごるぐらい、したって構わないだろう。誰が構うのか知らないけど。
「お待たせしました」
ふと顔を上げると彼が立っていた。いつものジーパン、シャツ、ジャケットに、真っ黒なリュックを背負っている。彼女は欲しいけど合コンには行きたくない男子大学生として過不足のない服装。世間と自分を隔絶する暗幕のように伸ばした黒い髪が、耳と眉を完全に覆っているを見ると、むしり取ってやりたくなった。
「……何か、変ですか」
「いいえ全然。ちょっとバイオレンスなことを考えていました」
「はっ?」
「行きましょう」
行く店は私が決めていたので案内するように歩き出す。五木先生は黙ってついてきた。両手をポケットに突っ込んで歩道側を歩いている。
「何を食べるんですか」
「鍋を所望されていたので、餃子鍋の店です」
「おお、いいですね。餃子は大好きです。焼き餃子もいいけど、水餃子もいいですよね」
お店を紹介してくれたのは玲衣だった。雑誌で見て、気になっていたのだという。普通じゃつまらないので何か変わった鍋物の店を知らないかと尋ねたら教えてくれて、同じ場にいた紗耶香には「餃子が嫌いな男子はいない」と謎の太鼓判をもらった。この様子だと、とりあえずチョイスは間違っていなかったらしい。
「たぶん、焼き餃子も別であると思います。なんでも注文してください。今日はおごりなので」
「そうでしたね。でも僕はおごってもらうようなことをした覚えは全然ないんですけど、本当にいいんですかね」
「何度言っても納得してくれないんですね。助かりましたって言ってるんだから助けましたって思っとけばいいじゃないですか」
駅の方に向かって歩いていると、やがて店に着いた。京町屋のように間口が狭くて奥行のある玄関だ。予約していたことを告げて中に入ると、想像していたよりも落ち着いた雰囲気だった。客数は多いがほとんどが二人連れで、騒がしい団体客などはいないらしい。足元が掘りごたつになった畳の座席に向かい合って座る。メニューを開くと、リサーチしていた通りの値段が書かれていたので、少しほっとしてしまった。
「飲みますか?」
「せっかくなので飲みましょう」
何がせっかくなのかわからなかったけれどお酒のページを開いた。二人でお酒を飲むようなところに来たのは二回目だ。いつも会うのはファストフードかファミリーレストランかカフェだった。年末に忘年会と称してカフェ&バーみたいな店に行った時にわかったのは、私たち二人ともがアルコールにはかなり強い方だということだ。ワインだろうかウイスキーだろうが、なんでも飲めてしまう。
メニューをざっと眺めて、一番値段の安い日本酒、ということで意見が一致する。
お酒がやってきて、酌をし合って、乾杯した。たぶん、特筆すべきほどの味ではなかったけれど、寒い中を歩いてきて鍋を待っているというシチュエーションのおかげか、美味しいなあと心から思った。思ったことはそのまま口に出ていた。
「……この年で、あなたみたいに日本酒を美味しいと思う女子は、結構少ないですよね」
「女子に限る必要あります? 男子だってあんまりいませんよ。大学に入った時から飲み会はあったけど、ビールが飲めない男子にはたくさん出会ってきました」
「そうですか。まあ僕の場合はサンプル数が極端に少ないので参考にはなりません」
「なんでそう卑屈になるんです。それはそうなのかもしれないけど、極端になんて言わなくてもいいのに」
「それはそうとか言ってる時点で同意してんじゃないすか」
「だってそりゃ、サークルにも入ってなきゃ飲み会の機会だってそうそうないでしょう。今からどこかのサークルに入る気とかはないんですか? 彼女欲しいなら、出会いを広げるのは悪くないですよ」
「途中から何かしらのグループに参加して人間関係を構築していこうなんて、そんな無謀なことをする気は更々ありません。北川先生こそ、なんでサークルとか部活とかに入らなかったんですか? あなたはいつも暇を持て余しているじゃないですか」
純粋に真っすぐな瞳で問われていることに気づき、慌てて手元のおちょこの中に視線を押し込める。はっきりと覚えていた。この人が塾に入って来て、初めて一緒に帰った道すがらで、サークルについて聞かれた。私は「何も所属していない」と答えたので、それは大学に入って以来の状態だと五木先生は理解したようだった。誤解されていることはわかっていたが、それをわざわざ正すようなことはしなかった。そもそも私の答え方は、その誤解を期待して選んだようなものだった。
「……別に暇を持て余してなんて、いません」
「暇でなきゃ僕なんかとラインをしたり電話をしたりなんて、しないでしょう」
「別に、」
暇だからあなたと連絡を取っているわけではない、と言おうとしたところで、鍋の材料が運ばれてきたことに気づいて口を噤む。沈黙が降りたテーブルにやってきた店員さんは、にこやかに具材の説明と土鍋のセッティングをしてくれた。和服姿の彼女が行ってしまうと、私は前の話題を忘れたふりをして、餃子を入れるためのトングをつかんだ。
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