――2――
*
ファミリーレストランに行った夜、家に帰ってから、寝る直前にスマホを見ると、ラインが入っていた。
《お疲れ様です。今日、食事中にあなたが黙ってしまったタイミングがありましたよね。あれが今頃、気になっています。もし僕が何か不快なことを言ってしまったんだとしたら、謝ります。》
布団に潜り込みながら、二度三度と読み返す。こういうことは時々あった。不躾に失礼なことを言ってくるわりには、相手の反応が妙に気になるらしい。謝る時は結構素直に謝って来る。ただし、そうなった原因はわかっていないことが圧倒的に多い。
〈お疲れ様です。私の方こそ、急に黙ってしまってごめんなさい。別にあなたが謝らなくちゃいけないわけではないので、気にしないでください〉
《そうですか。じゃあ、どうして黙ったんですか?》
〈なんとなく、そういう気分になっただけです〉
《だったらいいんですけど。僕は、他人の心の機微に疎いところがあると思うので、何かあったら言ってください》
〈わかりました〉
送り終えて、暗闇の中で光る画面を見つめる。どうして黙ったんですか? という文章のはてなマークを打ち込む五木先生を想像した。答えが欲しくて疑問をぶつける五木先生。私の返事は正しい答えではなかったし、そんなものは、きっと私の中にもない。今はまだ。
次の日の夕方、突然電話がかかってきた。表示されたのは、ちとせちゃんの名前だった。
『寧々ちゃん。今、ヒマ?』
ちとせちゃんは母方の従姉だ。私よりも六つ年上で、私の通う大学の近くでOLをしている。お互いにひとりっこのちとせちゃんとは、小さい頃なんて本当の姉妹みたいに仲が良くて、今でも時々連絡を取り合う。というか大抵は今みたいに、何の前触れもなくちとせちゃんから私に電話がかかってくる。私への電話はちとせちゃんにとって、例外なく暇つぶしなのだ。例えば待ち合わせの相手が遅れてくるのを待っている間だったり、家でオーブンに入れたケーキが焼けるのを待っている間だったり。だから電話の時間はいつも限られていて、始まりも終わりも、主導権はちとせちゃんにあった。その代わりだかどうだか分からないが、話をするのはほとんどが私だ。ちとせちゃんは私の日常の話を聞いて、相槌を打つだけでなく、きちんと考えて返事をしたりすることで暇な時間を潰す。今日は、ライブハウスに来たが開演が遅れているということだった。ちとせちゃんはしばしばひとりでライブハウスに足を運ぶ。そういう時、彼女は大抵黒の革ジャンを着ている。ちとせちゃんはわかりやすいと思われることを好む。
しばらくは暇、と私は答えて、たった今考えていたことについてちとせちゃんに話した。五木先生のことだった。「昨日の夜に、例の同僚とファミレスでハンバーグを食べた」というところから私の話は始まった。
「どうして黙ったんですか? なんて、普通聞く? しかもいったんは濁したのに食い下がってまでさ。そんなこと聞かれたって困るよ。いちいち理由考えながら行動してるわけじゃないんだし」
『そりゃそうだけど、でも聞いたらわかるかもしれないじゃん。聞かなきゃわかんない一方で、聞いたらわかるかもしれないんだから、そりゃ聞くでしょ。むしろ問題は、聞いたら教えてくれるもんだと思ってるその態度の方にあると思うね』
「ああ。教えません、って言ったら今度は《どうして教えてくれないんですか?》って聞いてきそう」
『おかしな信頼を置かれてるね。僕は心の機微に疎いところがあると思うので、なんて、私ならそこに腹が立つわ。自覚してるだけ人よりマシだと思ってそう。彼にとって寧々ちゃんは、ひらけた世間との接点なのかね。きっと他の人にそんなことを聞きはしないだろうけど、寧々ちゃんは答えてくれると思ってるのね。答えてくれるというか、つまり、教えてくれるということかな』
「五木先生にとって、私は世間の代表」
『そうそう。知らないうちにえらいポジションに祀り上げられたもんね』
大袈裟だとは思ったが、あながち間違いでもないのではないかと思った。五木先生は、塾講師として仕事をするのに支障がないくらいには、講師仲間とも生徒とも普通に会話をして交流をする。けれど私にするように、他の人に嫌味を言ってにやにやしたり、「大体あなたは~」以下どうのこうのと説教じみた持論を語ったりするのを見たことはない。彼は私を通して世間のことを知ろうとしているのか。他人の心の機微をわかろうとしているのか。
「……えっ、それじゃあ、私は世渡りの仕方を五木先生に教えてあげなきゃいけないの? そんなの私が教えて欲しいくらいなのに?」
『そう。彼はね、寧々ちゃんのことを、世間の内側にいる人だと思ってるんだわ。もしくは世間を構成する要素の一部。そして自分はその輪から完全に逸脱しているんだ、とね。そういう片鱗をちょくちょく見せてくるからそれがめんどくさくって、寧々ちゃんはファミレスで黙ってしまった。と繋げることができなくもない』
なるほど、と思った。僕とは違う。あなたがいるのは日向だから、陰にいるような僕とは違う。あなたとは相容れない。あなたにはわからない。
『まあっ、知らないけどね。憶測よ憶測。むしろ妄想。間違ってても何の責任も取れません。音響トラブル直ったみたいだから、そろそろ開演しそう。また電話するね』
はあい、と返事をした途端ぷつりと切れる。あまりにも勝手な気がしなくもないが、ちとせちゃんのこういう身軽さにはちょっと憧れてしまう。きっと彼女の行動指針に「相手に良い印象を持ってもらうこと」は入っていなくて、だから彼女の周りには、素の彼女を気に入った人だけが残っていく。それはかなりの勇気を必要とする生き方で、私には全然できそうもないことだ。去年は学部の中でなかなか固定の友達ができなくて焦っていて、結果的に似たような境遇の紗耶香や玲衣とそれなりの仲になれたことに心底ほっとしているし、彼氏がいた時は自分をよく見せようと必死だった。
いつだって不安で、人の目は気になって、レッテルを貼られることが怖い。他人の心の機微なんて、私だってわからないのだ。
そんな当たり前のことを、どうしたらやつは理解してくれるのだろうか。
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