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「なーんだまたのろけ?」
語学のテストが終わった後、学校内のカフェで学部の友達二人とお茶を飲んでいた。
「だーかーらー、あの人とはそういうんじゃないって! 間柄としては、ただのバイト仲間」
「だってバイトの帰りは必ず一緒に帰ってて、バイトがなくても週に一度は外で会ってるんでしょ? っていうか塾の人たちには、つきあってると思われてるんじゃないの」
思ったことをずばずば言う紗耶香は、私が五木先生の話をするといつも、「それはのろけだ」と糾弾してくる。言われるのをわかっていて話を持ち出す私も私だけれど。だって学校の授業は平凡だし、サークルも今はしていないし、バイトも塾だけで、彼氏もいないから、話題になるような事柄にはほとんど五木先生が絡んでくるのだ。
「生徒には、あやしーとかなんとか言われなくもないけど、塾外で会ってることは生徒はもちろん講師仲間にも黙ってるからね」
「黙ってるってなんだそれ。やましいから?」
「違うよ。勘繰られるとめんどくさいんだもん。紗耶香みたいにさ」
「職場恋愛が禁止、とかはないの?」
ショートの黒髪に、石榴色のピアスをした玲衣が短く発言する。温かいカップを包み込むように持った彼女の指の先は紫みがかったベージュのヌーディ―カラーで綺麗に塗られていて、彼女が纏う温度感に、なんだか似合っていた。
「んー、聞いたことないし、ないと思う。別にあったとしたって恋愛じゃないんだから、やましくなんて思わないけど」
「そういうのじゃないって言うけど、少なくとも寧々はその、五木先生? と一緒にいて楽しいし一緒にいたいって思うんでしょ? それって好きな人とどう違うわけ?」
「え、別に楽しくないけど。いつも喧嘩ばっかりしてるし」
五木先生といる時、会話の内容は大体七割ぐらいが言い合いだった。相手を否定する言葉交じりの、思い出してみれば腹が立つようなことも多い会話だ。特に講師として教えている内容だとか学校の授業のことだとかの流れから勉強の話になると、典型的な文系である私と理系である五木先生は分かり合えないことも多く、いつの間にか喧嘩腰になる。
私が不確定性原理を理解できなくても五木先生は馬鹿にしないし、むしろ辛抱強く教えてくれようとするけれど、思想家の名前を間違えるとえらく批判してくる。逆に私は五木先生に明治の文豪の名前を尋ねたりはしないけれど、数学で計算間違いを発見すればここぞとばかりにからかいたくなってしまう。
そんなことを説明すると、紗耶香はあからさまに顔をしかめた。
「寧々は別に、理系だから数学ができて当たり前、なんて本気で思ってるわけじゃないでしょ。なんでその人相手だとそう突っかかるかなあ」
「お互い、もしも本気でそんなことを思う人だったらもっと深刻な喧嘩になってるっていうか、きっと喧嘩すらしようと思わないだろうから、紗耶香の言う通りだと思う。なんでかなあ。向こうがしょっちゅう馬鹿にしてくるもんだから、応酬したくなっちゃうんだよね」
「なんか未だに五木先生のイメージがいまいち湧かないんだけど。ひょろくて、暗めで、口が悪くて、あと女の子にあんまり耐性がないんだっけ?」
「最初の頃はいかにも男子校出身って感じだった。今も特に仲の良い女子とかはいないみたいだし。あと口が悪いっていうか、言うことは嫌味ったらしくっていちいち腹が立つけど、言葉は敬語だよ」
「は? 敬語?」
「うん。私もだけど。塾での同僚でお互い『先生』だからか、そうなっちゃって」
「……想像つかない。変わった関係すぎる」
神妙な面持ちで紗耶香がコーヒーを口に含み、長い髪を背中の方へ流す。入れ替わるみたいに、玲衣が口を開く。
「男子校育ち、暗め、って情報から勝手に先入観を持って悪いけど。それにしては随分、相手の人は寧々ちゃんに心を開いてるよね」
心を開いてる、か。否定はしないけれど、考え込む。
「あのね、五木先生は私のことすっごい小ばかにしてくるんだよ。私、抜けてることとかも多いから見下されてるの。信じられないぐらい腹立つことばっかり言ってくる。あと私っていわゆる女子大生っぽくないっていうか、キラキラした感じとかがないから、女の子相手の緊張とかも、あんまり出てこないんじゃない」
最後の点に関しては本人から直接言われたことがあったのだった。塾の授業が始まる前の空き時間のこと。ケータイのニュースで流れてきた新規出店のパンケーキ店についての情報を私がなんとなく喋っていると、五木先生が、パンケーキは食べたことがないです、と言った。
「私もないですよ。家で焼くホットケーキならあるけど。パンケーキ屋さんってものに行ったことがないです」
「えっ、このご時世に女子大生を二年もやっていて、パンケーキ屋に行ったことがないなんて人がいるんですか。希少な人種ですね」
「そんなの、いくらでもいるでしょう。五木先生は大学生のくせに女子大生に夢を見すぎです。いくら工学部が男ばっかりだからって」
「北川先生こそ一緒に行くような友達がいないからなんじゃないですか」
「確かに友達は少ないけど、いないわけじゃないですからっ。機会がなかっただけです」
「まあ考えてみれば、北川先生が黄色い声で騒ぎながらパンケーキ店の長蛇の列に嬉々として並んでいたら、そっちの方がびっくりするかもしれないですね。あなたはどこか今時らしくないところがありますから。僕に言われたくはないでしょうけど。
女子女子した感じがないというか、だからこそ僕もあんまり構えずに、あなたとは話ができるんですけどね」
その時私は、女子女子した感じ、というわけのわからない造語について挙げ足を取ることで、何事もないように会話を続行させたような気がする。わざわざ取りたくもない挙げ足を取ることで取り繕ったのは――正直に言えば、嬉しさだった。今時らしくないとか、女子女子した感じがない(つまり、キラキラふわふわしていない)とか、そんなことを言われて喜ぶのはひねくれている証拠かもしれないけれど、今時の女子大生っぽいなんて言われるよりも断然嬉しかった。五木先生は私の本質を見抜いてくれている、なんてことも思った。そしてそういう私だからこそ、構えずに話ができる、と。塾に入って来た頃は「女性とは会話が続かないのでなるべく男子生徒を担当したいです」なんて言っていたあの人が、私だけは別、というようなことを言った。それが嬉しかったのは、単純に人として、他の人間とは違う価値を認めてもらったような気がしたからだ。それ以上でも以下でもない。
でもそこで「ありがとうございます」なんて言おうものなら、「別に褒めたわけじゃないですよ? 貶める内容だととられてもおかしくないのにお礼を言うなんて、あなたはマゾなんですか?」などとまた聞きたくもない言葉が返って来て言い合いが始まることは目に見えていたので、そういう時の感情は隠しておく他なかった。
「……よく聞く言い回しだけど、使う人とか状況によって意味が変わりすぎて何のあてにもならないんだよね。『あなたとは会話がしやすい』っていうのは」
玲衣は抑揚のない声で呟いた。同じようなことを言われたことがあるのだろうか。玲衣も紗耶香も、今、付き合っている人はいないらしい。紗耶香にはどうやら好きな人いて、それが大学外の人らしいということは聞いているが、玲衣の恋愛事情はよく知らない。
「だけどそれって結局特別なんでしょ。いけるいける。男子校育ちの工学部男子なんてちょろいって」
「だから、いけるって何。別にいけなくていいんだってば!」
「はいはい。寧々みたいに頑固なタイプはみんな、最初は大抵そう言うんだって」
紗耶香は男女のことをすぐにそういう話に持って行ってしまう。全然わかってない。恋愛沙汰に一筋たりとも関係のない男女関係だって存在しないわけはないだろう。だって、五木先生と付き合う? 彼女になる? 絶対、ありえない。手を繋ぐ? キスをする? 地球がひっくり返っても、ありえない。想像したら吐き気がしてきた。
「ないわー。絶対ない。それだけはほんとないから、大丈夫」
「……大丈夫って、何」
玲衣が小さく苦笑する。紗耶香から返ってくるのは、はいはーいという生返事だ。恋愛事だということにした方が楽しいから、いつもこんな雰囲気で終わってしまうのだろう。確かに他人事の話だったら私も、「そんなこと言って、好きなんでしょ」なんて決めつけてしまうかもしれない。っていうかその方が俄然楽しい。むきになって否定をするのも馬鹿らしいなと思って、私はそれきり話を打ち切った。
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