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 数日後、共に出勤していた私たちは勤務を終えて教室の戸締りをしてから、一緒に夜道を歩いていた。

「だから、物理は哲学なんです。コペンハーゲンの中でボーアとハイゼンベルクは不確定性原理について語っているけど、その内容はまるで机上の空論でしょう。実際には物理は、現実を理想化した説明をするので、そう見えるだけなんですけど」

「ハイゼンベルクって、ボーアの奥さんの名前でしたっけ」

「違いますよ! 奥さんは専門家じゃない一般人であるってところがこの戯曲のミソなんでしょう! どうしてそうなるんですか!」

「あ、そっか。奥さんの名前はマルグレーテだ」

「あなたは授業で何を聞いていたんですか。ほんとに、信じられないですね」

「だってあの授業、途中でスライドを見るために何度も教室が暗くなるから、眠いんです。それはそうと随分コペンハーゲンに詳しいですね。観たことあったんでしたっけ」

「ありませんよ。本でさらっと読んだだけです。大体あなたの方から聞いてきたんでしょう」

 五木先生は口の中でぶつぶつぶつぶつ言いながら、原付を転がしていた。

 やがて赤い看板が見えて、コンビニエンスストアに差し掛かった。私たちは一緒に帰るとき、たいていここで寄り道をする。

「夕飯を買います」

 五木先生はおにぎりの棚の方に歩いて行った。私はそれほどお腹が空いていなかったので食事は買わないことにして、雑誌の棚の方へ行く。ちらりと見えた漫画コーナーには、新しい物はないようだった。女性誌の表紙の文句に視線を走らせていると、五木先生が商品を選び終えたようだ。私は隣のレジに向かい、温かいココアを買った。

「さっき考えてたんですけど」

 コンビニを出た私たちは、私の家に向かって歩いていた。

「もしかして、私が聞いたからコペンハーゲンを読んでくれたんですか? 最初に聞いた時は、話をまったく知らなかったですよね」

「そうですよ。正確に言えば、あなたが聞いてきたから読んだのではなく、あなたが聞いてきたことをきっかけに僕が読もうと思い立っただけですけどね。物理学を専門としている人間として、一度は触れておきたいなと前から思っていたんです」

「正確に言っても、別に、大して変わらないですよ。ありがとうございます。私も授業で見た演劇だけじゃなくて、脚本をきちんと読もうかなと思いました」

「だから、あなたにお礼を言われる筋合いはないんです」

 お礼ぐらい勝手に言わせておけばいいのに、と思いながら横目で隣に並んだ姿を見る。背は特別高くも低くもなくて、中肉中背。一度も染めたことがないという黒い髪は長くて耳が隠れている。後ろはいいけれど前は邪魔そうだから切ったらいいのに、といつも思う。文化系の彼は肌も妙に白くて、全体的に、ちょっと不健康な感じだ。

 私は彼から視線を外して、ココアを一口飲んだ。

「話は戻りますけど、物理と哲学が似てる、ってところは私もわかるんです。私は逆に、哲学専修の授業を受けていて、物理を思い出したことがありました」

「なんの授業だったんですか?」

「……なんだったかな。ヘーゲル……じゃない、コペルニクス回転の人」

「カントですか?」

「あっ、たぶんそうです!」

「どんな難しい内容かと思ったらカントなんて僕でも知ってますよ。それでも文学部なんですか? あなたの話を聞いていると、時々生徒を任せていいのか不安になります」

「うるさいなあ。もう一年近く前の授業だから思い出せなかっただけです。受験科目で倫理は選んでなかったし。あなたは文学部の生徒が全員百人一首を全て暗記していると思い込んでいる口ですか?」

「別にそんなこと思ってないですよ。和歌を百個覚えるのと有名な哲学家一人の名前を思い出すのではまったく違います」

「それは正論だけど私が言いたいのはそういうことじゃない!」

 言い合いをしていると、すぐに私の住むマンションの前に着いた。五木先生が家に帰るにはまたコンビニまで戻らなければいけない。なんだかんだと言いながら、冬になってからはほとんど毎回送ってくれているのだった。

「今日もありがとうございました」

「僕は足があるんだから大したことじゃないです。それじゃまた」

 私に背を向け、メットを被って、原付にまたがる。エンジンを入れてスロットルを開き、進むと同時に足をステップに乗せ、乗り物と身体が一体になる。背後に一切の未練はないというふうに行われる一連の流れが美しいので、私はいつもその後ろ姿が少し先の角を曲がって見えなくなるまで見送っていた。美しい、なんて、本人には絶対に言ってやらないけれど。

 空を見上げて息を吐くと白く煌めいて、ゆっくりと夜の空気に溶けていった。

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