それ以外の何か

八月もも

五木先生

――1――

「アップルパイの作り方って知っていますか」

 目の前でダンセイガクの教科書を開いていたはずの五木先生が突然そんなことを言い出したので、私はシャーペンを動かしていた手を止めて顔を上げた。

「……林檎を煮て、パイシートに乗せて、オーブンで焼けば、出来上がるんじゃないですか?」

「まあ確かにそれでもアップルパイは完成するのかもしれませんが、でもきっと、そんなにおいしくないでしょうね」

「はあ、そうですか」

「おいしいアップルパイには、カスタードクリームが入っていなくちゃいけないんです。あとパイシートなんて使っちゃだめです」

 五木先生は力強く断言すると、じっと私の目を見た。私は訳が分からないながらも、その熱心さに報いるように、なるほど、と呟いていた。

 先生、と呼びはしているが向かいに座っている彼は私の師ではない。私たちは同じ学習塾で塾講師のアルバイトをしている。生徒たちにとって私たちは正社員だろうとアルバイトだろうと等しく先生であるので、お互いのこともそう呼ぶようになってしまうのだ。

 私が大学に入学した時から勤めている塾に彼の方が後から入ってきて、もう四か月になる。私と五木先生は塾からの帰りが同じ方向で、また、講師仲間の中では唯一同じ大学だということで、自然と会話をすることが多くなった。気付けば何やら親密になっていて、こうして塾外でも会うようになったのだ。

 ただし、決して男女の仲ではない――つまりつきあっているわけではないし、今後そのようにする予定もない、ということだけはことわっておきたい。

「あとですね、シナモンがかかっていないアップルパイはアップルパイじゃないですね」

 五木先生のご高説は続いていた。軽く首を振ると、長めの前髪がつられて揺れる。

「もしかして、食べたくなったんですか? ここ、アップルパイなんてありましたっけ」

 私たちはシアトル系コーヒーのチェーン店にいた。確かにサイドメニューは豊富だけれど、アップルパイなんてあったかな。

「……別に、そういうわけではないです。確かにアップルパイは好きですけど。というか、いや、ケーキ類の中では、一番好きだと言ってもいいくらいですけどね。あと、この店にアップルパイは置いてないです」

「そうですか。一番好きなのはモンブランだと思ってました」

「モンブランは三番です」

「じゃあ、二番は?」

「北川先生なんかには、教えません」

 憎たらしいことを言って横を向く。この人は大体いつもこんな調子なので、私も慣れたものだった。そうですか、と言って甘いチャイのカップを傾ける。

「五木先生は試験、いつ終わるんですか?」

 一月末の今は、私たち大学生にとってはテスト期間だ。大体二月の二週目で試験が終わると、そのまま長い春休みに入る。ただ二月半ばが私立高校の受験シーズンなので、中学生の生徒が多いうちの塾では、既にちょっとした繁忙期でもある。

「二月の、七日が最後の試験です」

「早いんですね。私は最後の試験が十五日にあって、それと、レポートがあります」

「文学部はまだ語学があるんですよね」

「そう! 今回の試験でやっとおさらばできる予定です」

 私と五木先生は二人とも、数か月前に二十歳になったばかりの二回生だ。私は文学部で芸術学を専攻していて、五木先生は工学部の、宇宙工学とかなんとかいうところに所属している。専門については何度も聞き返していて、そのたびにこんこんと説明をしてくれるのだけれど、何しろ馴染みがない分野の話なのですぐに忘れてしまう。特に物理学が大事な学科にいるということだけは、今期文学部の授業で『コペンハーゲン』を扱って、その時にシュレディンガーの猫について教えてもらったので、なんとか覚えた。

「……あれ? それ、何の教科書ですか?」

「それさっきも聞きましたよね。そして僕はさっきも答えましたが、ダンセイガクです」

「ああ、ダンセイガクって、弾性学のことですか。私はてっきり、男性学の方かと思いました」

 私は手元のルーズリーフに漢字を書きながら説明する。

「工学部でジェンダーの授業はあんまりやらないと思います」

「いや、だから一般教養なのかなって」

「一般教養の単位は去年全部取りました! まったく、あなたは失礼ですね」

 五木先生は怒って顔をふせ、ガリガリと問題演習を始めてしまう。そんなに怒らなくたっていいのに。というか、一般教養の単位をひとつ落とした扱いをするぐらいで失礼だと言うなら、今年の前期に専門の単位をみっつも落としてしまった私は、どうなるの。

「失礼なのはあなたの方ですよ」

 そして私も授業のレジュメに向かい合う。ややあってから発された「……どういうことですか」という問いかけに対して説明するのも面倒だったので、聞こえないふりをした。二つのカップから立ち上がる湯気が消える頃、私たちはどちらも何も喋らなかった。

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